虎之助
第二話 「虎之助」
年があらたまり、天正三年。
正月も三日を過ぎて、長浜城の主、羽柴秀吉はようやく帰城した。
主君信長のもとへ新年のあいさつに出向いていたのだ。秀吉の帰還を待ちかねたように、にわかに人が集まった。城内には秀吉直属の配下や与力衆などが集まり、新年の宴が開かれた。
祭り騒ぎを遠くに聞きながら、景子は自室でのんびりと餅を食べていた。
宴のせいで女中連中は軒並み駆り出されている。景子は手あぶり用の小さな火鉢を抱えてきて真っ赤にいこった炭を落とし、その上に金網を張って手ずから餅を焼いていた。
味付けは、味噌。
焼き餅には醤油と決めつけていた景子だが、これはこれでなかなかいける。
宴の喧騒を肴に、景子はゆっくりと食事を楽しんだ。餅と一緒に酒も分けてもらったのだが、一口つけて始末をあきらめた。さして強くもない濁り酒だが、それでも景子は体に受け付けなかった。
「しかし、一人でのんびりできるというのも、いいものです」
景子はしみじみとつぶやいた。
秀吉夫妻に正式に養子として迎えられ、親族たちへの面通しも無事終えて、いろいろな人と顔を合わすようになった。
初対面の者には、奇異の目で見られることが多い。
当然だろう。素性も知れぬような少女が、いきなり羽柴秀吉の娘になったのだ。興味を抱かれるのも無理はない。
本来ならばそこに羨望や嫉妬が混じるはずだが、景子の場合、容姿が幸いした。
どこか貴げな目鼻立ち。長く艶のある髪。肌などはちょっと見ないほどに白い。どう見ても庶民ではない。
はったりのきく容姿のせいで、景子は冷たい感情の風に晒されることなく迎え入れられたのだが、そのあたり、本人は分かっていない。
「みんないい人たちでよかったです」
くらいに考えているだけだ。
とはいえ、やはりそれなりに気疲れはする。
ゆっくりとくつろげる時間を、景子は満喫していた。
そんなときである。景子はふと視線を感じた。
こちらをじっと観察するような、そんな視線だ。しばらく無視していた景子だが、見られている感覚はずっと続いている。
「そこに居るのは誰です?」
意を決して、景子は視線の主に声をかけた。
廊下側のふすまの向こうで、息をのむ気配がした。
だが、それだけだった。しばらく待っても、相手が返事をする様子はない。
「見ての通り私ひとりです。いらぬ気遣いは必要ありません」
重ねて言葉をかける。
ややあって、ふすまがゆっくりと開いた。
その向こうにあったのは、ばつの悪そうな顔をした少年の姿だった。
目元のくっきりとした、やんちゃそうな男の子だ。
年のころは、数えで十五歳ほどか。景子より少し年上に見える。
「あなたは誰?」
「……虎之助」
少年が頭を掻きながら答えた。
景子はその名に何の引っ掛かりも覚えない。
彼女がもう少し歴史に詳しければ、それが加藤清正の通名だとわかっただろう。
加藤清正。
秀吉子飼いの中でも、もっとも有名な武将の一人だ。
賤ヶ岳の戦いにて功名をあげ、いわゆる“七本槍”の筆頭とされた人物である。
後に肥後熊本五十四万石を領する大大名の、若かりし頃の姿が、ここにある――のだが、景子はさっぱり気づいていない。
「なぜ、私を見ていたんです?」
景子が尋ねると、少年の口元が不機嫌に歪んだ。
「おまえ」
「景子」
「……おまえ、おねねさまの子供になった娘じゃろ?」
呼び名を改める様子もない。
おまえが気に入らない、と、顔中くまなく書いてあった。
「そうですが、あなたは?」
「藤吉郎さまの小姓じゃ」
それが何よりの誇りだとでも言うように、少年が胸を張る。かわいいものだ。
こぼれだしてくる微笑を面に出さないよう気をつけながら、景子は虎之助に疑問を投げかける。
「その、小姓の方が、なぜ私を見ていたんですか?」
「――っ。おまえが、おねねさまを誑かす悪い奴じゃないか、見張ってたんじゃ!」
息をのみこみ、しばし煩悶するように眉根を寄せ、それから虎之助は顔を紅潮させて叫んだ。
――ははあ、これは。
虎之助の様子に、景子はぴんときた。
「母上――おねねさまを盗られたみたいで、気に食わなかったんですね?」
景子の言葉に、虎之助の肩がぴくりと震えた。図星のようだった。
「……おまえ、生意気だな」
さんざ眉をひねくってから、不承不承という風情で、少年は降伏するように言葉を吐いた。
ひねているが、癇癪を抑えるだけの理性はあるらしい。若いとはいえ小姓として大人の社会にまぎれている。それだけに、景子が知るおなじ年頃の子供より、よほど理性的だった。
「――けーいこぉ。げんきにしてるかぁーい?」
唐突に、頓狂な声が響き渡った。
虎之助がまずい、という顔をした。
豪快にふすまを開け、敷居をまたいで入ってきたのは、ねねだった。
千鳥足である。しかも顔がほんのりと赤い。酒が入っているのだ。
「母上」
「やー、けいこぉ。あそびにきたよぉ」
言いながら、ねねは景子にしなだれかかってきた。
相当酔っているのだろう。声の抑制がまるで効いていない。
これほど酔った彼女を、景子は見たことがない。
普段は城代として采配を振るわねばならぬ手前、控えねばならぬところだが、今は秀吉が居る。それで安心して度を越しているのかもしれない。
「ありゃ、虎之助。見ないと思ったら、こんなところに来てたのかい」
「おねねさま!」
少年が顔を真っ赤にして返答した。
鉄棒が通ったように、背筋をまっすぐに不動の体勢。景子に対する生意気な態度とはまるで違う。
「もう顔を合わせてるんだね。ちょうどいい。この子が私の娘の景子だよ――景子。こっちがうちの人の親類筋で、小さいころからうちで預かってる虎之助だよ。でかいけど、十三歳になったところかな。いまはうちの人の小姓をやってる」
「よろしくおねがいしますね」
「よ、よろしく」
ふたりとも首っ玉抱えられて、至近距離であいさつさせられた。
ねねの豊満な胸に挟まれながら、景子は納得した。
虎之助は幼いころからねねに養育されたのだ。彼女のことを母に等しく慕っており、だから景子への嫉妬もひとしおなのだろう。
「それにしても景子、体冷たいねー。肌も白いし。雪肌って奴かねー。ああ、ほてりが覚めるー」
ねねはそう言って頬をこすりつけてくる。
めちゃくちゃである。虎之助のほうも、ねねの腕と胸に顔を挟まれて、赤くなったり青くなったりしている。
――なんだか、弟ができたみたいな。
苦笑しながら、景子はそう思った。
◆
ねねのおかげもあって打ち解けることができたのか、景子と虎之助は、顔を見れば話すようになった。
景子は虎之助の話が好きである。
虎之助が世間話のつもりで語る近年の情勢などが、景子からすれば歴史の話になる。それが景子にとってはひどく新鮮だった。
「あいつが聞けば、のた打ち回って喜ぶんでしょうね」
歴史ゲーム好きだった友人を思い出しながら、景子はくすりと笑う。
そのたびに、なぜか虎之助はひときわ声を大きくして、とっておきの話をしだすのだ。
そんなある日のこと。
いい日和に誘われて御殿の縁側に出た景子は、庭の隅に立って手槍を構え、じっと動かない虎之助の姿を見つけた。
「虎之助」
「……おまえか」
声をかけると、少年は脱力したように振り返った。
その向こうにはふた抱えほどありそうな大きな庭石が転がっている。
興味をかられた景子は、履物を履いて来て虎之助のところへ行ってみた。
「何をしていたんです? 岩に向かって槍なんか構えて」
「槍の稽古じゃ」
「稽古?」
「ああ。槍を岩に突き刺す」
「そんなことできるんですか?」
「半兵衛さまに聞いた話じゃがな」
半兵衛と言うのは、竹中半兵衛重治のことである。
今孔明の名も高い、知略に長けた将だ。現在は与力として秀吉のもとに居る。参謀として秀吉軍に欠かせぬ存在である。
「矢を射て岩に突きたてた大将が、唐に居ったらしい。なら槍でも出来んことはないじゃろ」
「岩に、矢を?」
「ああ。虎と間違えて射ったら岩で、それでも刺さったって話じゃ」
「へえ」
ちょっと感心しながら、景子は虎之助が手槍を向けていた岩のほうに目をやった。
言われてみればこの岩、虎が這いつくばって獲物を狙っているような形をしている。半兵衛の話に触発されて、わざわざ虎に似たものを選んだのだろう。
虎之助の仕業だろうか。何箇所か針で突いたような傷があった。
硬い岩に突きたてたのだ。手槍のほうも無事ではないだろう。刃がつぶれるくらいはしているに違いない。
――父上に怒られなきゃいいんですけど。
庭石はともかく、戦道具を戦以外のところで駄目にするような、いわば武士として不見識なまねに対して、秀吉は厳しい。
この事を知られれば、虎之助はこっぴどく叱られるに違いない。半べそになっている虎之助の姿が、景子には目に浮かぶようだった。
――いっしょに怒られてやりますか。
景子はふとそう考えた。
彼女にとって、虎之助はかわいい弟分である。庇ってやりたくなったのだ。
「虎之助、槍を貸してください」
景子は虎之助の前に手を出した。
一緒になってやったことにしようというのだ。
普通に庇えばいいのに、こんなことを求めたのは、何のことはない。景子も試してみたかったからだ。こういった少年のような稚気は、少女の体になっても、なくなっていない。
「え、やだよ。なんでだよってああっ!? 先のところ、刃がつぶれてる!」
「……気づいてなかったんですか」
肩を落とす虎之助からちゃっかり手槍を奪って、景子は庭石に向けて構えた。
たいしたもので、穂先でつけられた傷は、親指の爪ほどの範囲に集まっている。
――ちょうどいい目印です。
庭石の傷に狙いをつけた、その時。
唐突に、音が消えた。
――何?
戸惑う間に、景色が消えた。
何も見えない。痛いほどの耳鳴り。その中で、景子は遠くに水音を聞いた。
――川の流れる音? でも。
景子は身を震わせた。
何故だか知らないが、景子には、あの水音がとても善くないものに聞こえた。
「――ケタ」
ふいに、ぞっとするような声が聞こえた。
はるか遠くにありながら、同時に耳の奥でささやかれたような、異様な感覚。
抗うように。景子は槍を遮二無二突き出した。
ばしゃん、と、桶の中の水をぶちまけるような音がして、唐突に景色が戻ってきた。
「おまえ……」
虎之助が庭石を見て絶句している。
槍が、その穂先を完全に庭石に埋めていた。
傷口からは無数の亀裂が放射状に広がっている。
そして庭石は、この陽気に水をかぶったとしか思えないほどに――濡れていた。
景子の顔は、青ざめていた。
庭石を壊してしまったからではない。声を聞いてしまったからだ。
あの、川音しかない無の世界で、はっきりと景子に向けられて、声はこうささやいたのだ。
――ミツケタ。
◆
この翌日、ねねは近衆の一人から報告を受けた。
景子を拾った日、賊に襲われた死体の供養の手配をした、あの近衆からだ。
供養を依頼した寺の住職から、こんな連絡があったのだという。
「件の死体、報せよりひとかた足りず」
鳥獣の餌となったか、あるいはそれに近しいものの仕業か。
いずれにせよ当世、珍しいことではない。




