景子の鬼門
第十話 「景子の鬼門」
かがり火が茫々(ぼうぼう)と燃える。
その下に景子は立つ。対峙するは京極勢。その数およそ一千。
二重の堀と琵琶湖に挟まれた本丸門に通じる路は、敵兵で満たされている。
刃を地に落としたまま、景子は動かない。
ただ炯々たる眼光を居並ぶ将兵に投げかける。
それだけで、千の兵を圧倒した。受けた者が物理的な威力さえ感じるすさまじい気が、視線に込められている。
――千対一……それがどうした! いまの私は万の敵にだって怖じ気づきはしない!
鬼の瞳だ。
鬼の気勢だ。
ただの雑兵が。それも急場で駆り集められた百姓兵ごときが、まともに受けられるものではない。
悲鳴が上がった。
先頭に立つ兵のひとりが恐慌をきたし、景子に向かって遮二無二掴みかかったのだ。
武器を使わなかったのは、まだ理性的と言えた。だが、そのちっぽけな理性は、哀れな男に何ももたらさなかった。
景子に手が触れたか否かというところで、男の体は揺らめき、力を失って倒れた。まるで蝋燭が燃え尽きたように。
一切を無視して、景子はそっと歩を進めた。
引きずりあげた薙刀の刃先を、水が伝いしたたり落ちる。
その音が聞こえるほどに、あたりは静寂に包まれていた。琵琶湖の波さえも、景子の独演をはばかっていた。
ゆらりと薙刀を泳がせながら、景子は敵勢を一瞥する。
炎の光が届く先頭に、見知った顔があった。京極高次だ。
――あの首を取れば、敵勢を崩せる。
思った瞬間。高次の姿は、供廻りの武者たちの中に隠されてしまった。
――不意を突かせるような油断は、さすがにないか。
景子は構わない。歩みを止めない。
先鋒の徒の、槍の穂先が触れるほどに近づいて、少女はやおら薙刀を払った。
鈍重きわまる刃の先は、そもそも敵に届いてさえいない。
だが。薙刀を伝い滴る水が、兵士たちの上に、存分に降り注ぐ。
闇の中舞い散る水は、炎の光を反射して、鮮血よりも不吉に鮮やかに輝く。
それを浴びた瞬間。兵士たちは物も言わずに倒れ伏した。
もはや息をしていない。死んでいる。間近でそれを見て気づいた兵士が悲鳴を上げた。
「鬼門“三途の川”」
恐怖の絶叫を押さえつけるように、景子は言い下す。
「――触ららば死ぬる冥府の水を浴びたくば、かかってきなさい」
薙刀の刃が、ひたひたと滴り落ちる。
死を与える冥府の水は、少女の足元にゆっくりと水たまりを作って行く。
じりじりと後じさりする兵士たちを尻目に、景子は踵を返した。
ゆっくりと、演ずるように。引きずる薙刀から滴る水で死の川を描きながら。少女は門の中に消えた。
「まさに、鬼の業」
高次の言葉には、多分の畏怖が込められていた。
◆
「っ――ふぅ。はぁっ」
門の陰に隠れた景子は、細い息を吐き出した。
首筋に嫌な汗をかいている。動悸が止まらない。鬼門を開いたからだ。
鬼門を開くと、己を縛りつける死の川とのつながりを、ことさらに意識させられる。
それが、だんだん景子自身を捕えようと迫ってくることも。
その心理的圧迫が、少女を、途方もなく消耗させる。
「これで、敵は迂闊に攻め込んでは来ない」
胸の上から、暴れる心臓を抑えながら、景子は小声でつぶやく。
準備万端の態勢を見せ、おまけに機先も制した。
城中を照らすおびただしい数のかがり火は、備えの厚さを連想させることだろう。
敵の警戒は歓迎するところだ。相手方の城攻めは慎重であるほどいい。それだけ余計に時間が稼げるのだから。
しかし、心ははやる。
遮二無二敵に突っ込んで大将を討ち、この狂気の場を一刻も早く終わらせたい。
抗いがたいその衝動を、景子は無理やりに押さえつける。
「焦るな。私の目的は、確実に時間を稼ぐこと。一か八かで敵に突っ込むことじゃない」
景子は自分に言い聞かせた。
目的を達成するためには、この狂気の中、醒めていなくてはならない。
敵が動く、その機先を制して敵の鼻先を打ち、動きを封じる。
神経をすり減らしながらも、景子はその作業を確実に成功させてゆく。
都合三度、足を止めたところで、敵に別の動きが生じた。
後陣の兵の数が減っている。部隊を小勢に分けて退かせているのだろう。
――あれを城の裏手に集めて、残った部隊で私を足止めしようというわけですか。
ひどく冷静に、景子は敵の意図を読んだ。
――私が、それを許すとでも?
鬼の笑みを浮かべ、景子は薙刀を地に強く叩きつける。
「――鬼門“三途の川”」
ふたたび、“鬼門”が開く。
景子の足元から洩れでた水は、塀の内側に浅く掘られた溝を伝い、本丸の裏手に伸びて行く。
溝は本丸を囲うように掘ってある。本丸自体が三途の川で覆われるのだ。そこを超える者には、死あるのみ。
ほどなくして、悲鳴が上がった。
悲鳴すらあげられなかった者もいるに違いない。
この水が致命的なものだとわかっている前線の兵士たちも、本丸門を超すことができないでいる。
これは最終手段だ。
この態勢になれば、たしかに何人も侵入できない。
だが、代わりに景子は鬼門を開き続けなければならない。
冥府の水音が間近に迫っていることを自覚しながら、景子はなお哂う。
家族を守る。その強い意志が、景子を奮い立たせていた。
そして。
唐突に飛んできた一本の矢が、景子の胸に中たった。
◆
突如放たれた弓は、景子の胸に命中した。
弓勢強く、少女の体は馬に跳ねられたように吹き飛ばされ、動かなくなった。
しん、とあたりが静まり返る。
「誰が弓を使えと言ったぁ!!」
京極高次が怒声を放った。
景子は羽柴秀吉の娘である。人質として絶対に確保しておかねばならない人間のひとりだ。
それを、こともあろうに弓で射殺すなど、あってはならない。高次もそのあたりは厳命していたはずだ。
だが、青年武将の怒声に応えるものはいない。
それがなお一層高次の怒りをかきたてる。
「京極どの。わしよ」
ふたたび怒声を放ちかけた時、声が上がった。
兵たちをかき分けて現れたのは、立派な身なりの、少壮の武者。
「阿閑どの」
阿閑貞大だ。近江山本山城の主、阿閉貞征の嫡男である彼は、父親ともども光秀に従っている。
「阿閉どの。なにゆえかの姫を射られたか!」
非難めいた口調で詰め寄る高次だが、阿閑貞大は悪びれた様子を見せない。
「姫? どこに姫が居る? あそこに居ったのは、下賤な猿の娘よ」
言葉の毒に、高次は面食らった。
たしかに阿閑貞大は秀吉を嫌っていた。しかしこれほどだとは思いもしなかった。
「し、しかしかの姫は大事な人質」
「人質などいくらでも居よう。下賤の娘の一匹や二匹、殺したところで差し支えあるまい。
それより、ほれ。兵を進められよ。我らを邪魔だてする者は、もはやおらぬ」
たしかに好機である。
貞大の行為は褒められたものではないが、この好機を放置しておくほど、高次の、武将としての感覚は鈍くない。
兵を進めるよう指示しかけて、しかし高次は命令を下すことができなかった。
なぜなら。
胸を射抜かれたはずの少女が、ゆっくりと立ち上がる。
そんなあり得ない光景を、目の当たりにしてしまったのだから。
「京極さま。どうか退いてください」
着物の胸の部分には、矢によるものだろう。破れた跡がある。
だが、純白の打掛には、一切血が滲んでいない。
幽鬼のごとき瞳を、向ける先は阿閑貞大。
「私の、大切な領域に土足で踏み込む……その男に、用がある」
少女の周囲が揺らめいている。
かがり火の熱気のためではない。濃密な殺気が、大気をゆがめていた。
「ふん」
その直撃を受けながら、阿閑貞大は不遜に鼻を鳴らしている。
並みの胆力ではない。だが、兵士たちはそうもいかない。ただでさえ、急場に集めた百姓兵が多いのだ。第一狙われているのは彼らではない。巻き添えで殺されてはたまったものではない。
「こ、こら! 静まれ!」
「ええい邪魔だ! 退かんか!」
兵士たちが、桟を乱して逃げる。
人の波に翻弄され、高次も貞大も、満足に動きが取れない。
そんな鵜合の衆を丸ごと捕まえるように、少女は手を伸ばす。
「受けよ。羽柴の鬼姫が鬼門――“三途の川”」
閻魔が判決を下すように、羽柴の鬼姫は宣言した。
◆
景子の声に、応えるように。
おおん、と、地が震え啼くような音が夜天に響いた。
音が死んだ。
そうとしか思えぬ静寂があたりを支配した。
同時に空気が変わった。哀しいほどに透明で、それでいて手で触れられるかと思うほどに濃い湿気を帯びた空気。地獄の川の大気。
おおん、と、今度は天が啼く。
琵琶湖が、あふれた。
「ひっ」
「ええい怯むな! わしに続け!」
「阿閑どの! 退かれよっ! この水に触れてはいかん!」
押し寄せる水に構わず、なお攻めかからんとする阿閑貞大を、京極高次がいさめる。
その間に。水の流れに巻き込まれた兵士たちが、次々に倒れ死んでゆく。貞大にとっては初めて見る光景だ。
「な、なんだこれは!?」
「阿閑どの、これなるは鬼姫が鬼門“三途の川”! 触ららば死ぬぞ!」
流れ来る冥川から逃れながら、高次と貞大が叫びあう。
「馬鹿を言うな! まことに三途の川であれば、そのようなことは起こりえぬ!」
「では、これはいったい!?」
「わからぬ。彼奴目の“鬼門”は、もっとおぞましい何かだ!」
生者は皆、逃げ散ってゆく。
死者は冥川に引きずり込まれてゆく。
この世ならざる図の只中に、景子はただ立ちつくす。
「そうか」
ぽつりと、少女はつぶやいた。
阿閑貞大の言葉で、景子は気づいてしまった。
己の鬼門が、三途の川とは似て非なるものなのだと。
景子の記憶の片隅に、不思議とその知識はあった。
「――ステュクス川。西洋の冥川。それが、私の鬼門」
日本とおなじように、西洋の冥府にも川が流れている。
それがステュクス川だ。その川に身を浸したものは、不死を得るという。また、猛毒であるとも言う。
「そして、この記憶も」
景子は悟った。
ステュクスの支流に忘却の川がある。
死者の記憶を溶かしたこの川の水から、景子は無自覚に記憶を引き出した。
喪失した記憶を求め、本能的に鬼門を開いた結果、少女はひと塊の記憶を得た。
名前も、どうやって死んだのかもわからない、ひとりの大学生の記憶を。
「なら、結局。私はこの時代の人間……なのですか」
いままで心の片隅にあった、自分がこの時代にとっての異物だという思いが、淡雪のように融けてゆく。
嬉しい、と、景子は思う。
「大好きなみんなと、私はおなじ時代に居るんだ」
それだけで、心に温かいものがこみ上げてくる。
だが、それも。
――終わり、ですか。
引力を感じた。
川が、引いて行く。
その流れから、無数の手が生えて景子を琵琶湖へ引きずり込もうとする。
開いた鬼門に引きずり込まれる。鬼の末路。
抗う力など、景子にはもはや残されていなかった。
――母上、おばばさま、みんな御無事で。それから父上、武運の長久を。
家族の顔をひとつひとつ思い浮かべ、景子は祈る。
そして。琵琶湖に半ば身を沈めかけたところで、何故かひとりの少年の顔が浮かんだ。
――虎之助。
「景子ぉっ!」
思い浮かべた幻は、何故か声をあげた。
その形相は普段見たことがないくらい必死だった。
馬から降りて遮二無二駆けてきた少年は、冥川の水を恐れず、絡んだ亡者の腕を振り払い――景子の体を、たくましい腕で抱え上げた。
その感触は、まぎれもなく本物。
「とらのすけ……本物ですか」
「……おまえの、せっかく助けに来てやったのに、その言いぐさは何じゃ」
久しぶりに見る少年の姿は、別人のように逞しく。
しかしその声は、とても、とても懐かしいものだった。
終章「鬼ふたり」
「虎之助」
「助けに来たぞ。景子」
たがいに子供だった頃のように。そう言って、虎之助は笑った。
精悍な笑顔を、景子はなぜか正面から受け止めることはできなかった。
初めて虎之助に男を感じたかもしれない。景子の頬は、かがり火の炎以外の要因で朱に染まる。
「なぜです? 父上と一緒に居る筈では……」
「その藤吉郎さまに頼まれた。おまえの無茶はお見通しよ」
誤魔化すように尋ねると、そんな答えを返される。
「さ、急ぐぞ」
虎之助に抱えられたまま、景子は馬上の人になった。
城内にまた兵の影がちらつき始めている。水が引いたのを確認して、京極高次や阿閑貞大が兵を戻し始めたのだろう。
「虎之助こそ、無茶が過ぎます。こんなところに単騎で突っ込んできて。どうやって逃げるつもりです?」
景子はもはや“鬼門”が開ける状態ではない。
そんなお荷物を連れて、虎之助ひとりで囲いを抜かねばならないのだ。
「逃げる?」
虎之助は不敵に笑った。
その笑みは、あの森勝蔵と同種のもの。
「破るんじゃ、敵陣をなぁっ! ――開けぇ“鬼門”!!」
虎之助が吼える。
それに応えるように開いた“鬼門”から、無数の影が飛び出してきた。
武者だ。鎧兜を身につけた男たちは、揃って屈強無比。いずれもこの世ならざる気配を纏っている。亡者の類だ。
「“等活地獄”。無限に斬り斬られる戦の鬼たちをこの世に顕すが、わしの“鬼門”よ」
鬼の笑みを浮かべ、虎之助が馬を疾駆させる。
一丸となった鬼武者どもとともに、虎之助は敵の重囲を噛み破ってゆく。
「ええい! 射よ! 射殺してしまえぇぃ!」
阿閑貞大の命令も間に合わない。
疾風となった一団は、ついに囲いを抜いて長浜を脱した。
後の話になるが、光秀を破った後、阿閑貞大を捕えた秀吉は、彼を磔刑に処した。
同じく長浜城を攻めた京極高次が後に許されたことを考えれば、長浜攻めでのふたりの態度が、両者を分けた原因のひとつなのかもしれない。
かがり火の炎で朱に染まる長浜城が、見る間に遠くなってゆく。
「虎之助、あなたがなぜ、“鬼門”を」
「鬼武蔵にやられた時から、じゃろうな」
呆然と尋ねた景子に対し、答えた虎之助はからりとしたものだ。
「――とうの昔に、わしは鬼よ」
そこに何のてらいもない。景子などよりよほど鬼らしいと言えた。
ふと、景子は勝蔵の言葉を思い出す。
「……鬼の伴侶は鬼、か」
「なんじゃ?」
「い、いえ、何でもありません」
あわててごまかすように、少女は顔をそむけた。
夜でよかったと景子は思う。昼間なら、顔が真っ赤になっているのがわかっただろう。
「……景子」
「な、何ですか?」
しばらく馬を走らせてから、虎之助が口を開く。
動揺の余韻を引きずっている景子はどもってしまった。
そんな少女を知ってか知らずか、この若武者はこともなげにつぶやいた。
「わしも、鬼同士なら、うまくやっていけると思うぞ」
その一言で、景子は思い切り取り乱した。
「き、聞いてたんですか!?」
「おお。聞いとった」
「ち、ちょっと待って。忘れて! いまのは忘れてくださいっ!」
何かをかき消すように、ばたばたと両手をはばたかせながら、景子は虎之助に懇願する。
若武者は、至極真面目な様子でこれを拒否した。
「いいや、忘れん」
「虎之助、意地悪を――」
「景子。好いとるぞ」
言い訳を許さない、まっすぐな言葉だった。
「……もう、どうするんですか、これ。どうしたらいいんでしょうね、この感情……」
ぶつぶつとつぶやきながら、景子は耳まで真っ赤になっている。
「この仕打ちのつけ、払ってもらいますからね。絶対」
「ああ。責任とって――藤吉郎さまが納得するような。羽柴の娘の婿にふさわしい立派な武者に、わしはなる!」
ふたりは駆ける。明日に向かって。
それを止めるものは、もはや何もなかった。
鬼姫戦国行――了




