表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/11

景子の鬼門

 

 

 第十話 「景子の鬼門」

 

 

 かがり火が茫々(ぼうぼう)と燃える。

 その下に景子は立つ。対峙するは京極勢。その数およそ一千。

 二重の堀と琵琶湖に挟まれた本丸門に通じる路は、敵兵で満たされている。


 刃を地に落としたまま、景子は動かない。

 ただ炯々たる眼光を居並ぶ将兵に投げかける。

 それだけで、千の兵を圧倒した。受けた者が物理的な威力さえ感じるすさまじい気が、視線に込められている。



 ――千対一……それがどうした! いまの私は万の敵にだって怖じ気づきはしない!



 鬼の瞳だ。

 鬼の気勢だ。

 ただの雑兵が。それも急場で駆り集められた百姓兵ごときが、まともに受けられるものではない。


 悲鳴が上がった。

 先頭に立つ兵のひとりが恐慌をきたし、景子に向かって遮二無二掴みかかったのだ。

 武器を使わなかったのは、まだ理性的と言えた。だが、そのちっぽけな理性は、哀れな男に何ももたらさなかった。

 景子に手が触れたか否かというところで、男の体は揺らめき、力を失って倒れた。まるで蝋燭が燃え尽きたように。


 一切を無視して、景子はそっと歩を進めた。

 引きずりあげた薙刀の刃先を、水が伝いしたたり落ちる。

 その音が聞こえるほどに、あたりは静寂に包まれていた。琵琶湖の波さえも、景子の独演をはばかっていた。


 ゆらりと薙刀を泳がせながら、景子は敵勢を一瞥する。

 炎の光が届く先頭に、見知った顔があった。京極高次きょうごくたかつぐだ。



 ――あの首を取れば、敵勢を崩せる。



 思った瞬間。高次の姿は、供廻りの武者たちの中に隠されてしまった。



 ――不意を突かせるような油断は、さすがにないか。



 景子は構わない。歩みを止めない。

 先鋒の徒の、槍の穂先が触れるほどに近づいて、少女はやおら薙刀を払った。

 鈍重きわまる刃の先は、そもそも敵に届いてさえいない。

 だが。薙刀を伝い滴る水が、兵士たちの上に、存分に降り注ぐ。

 闇の中舞い散る水は、炎の光を反射して、鮮血よりも不吉に鮮やかに輝く。


 それを浴びた瞬間。兵士たちは物も言わずに倒れ伏した。

 もはや息をしていない。死んでいる。間近でそれを見て気づいた兵士が悲鳴を上げた。



「鬼門“三途の川”」



 恐怖の絶叫を押さえつけるように、景子は言い下す。



「――触ららば死ぬる冥府の水を浴びたくば、かかってきなさい」



 薙刀の刃が、ひたひたと滴り落ちる。

 死を与える冥府の水は、少女の足元にゆっくりと水たまりを作って行く。

 じりじりと後じさりする兵士たちを尻目に、景子は踵を返した。

 ゆっくりと、演ずるように。引きずる薙刀から滴る水で死の川を描きながら。少女は門の中に消えた。



「まさに、鬼のわざ



 高次の言葉には、多分の畏怖が込められていた。



 

 

 

 



「っ――ふぅ。はぁっ」



 門の陰に隠れた景子は、細い息を吐き出した。

 首筋に嫌な汗をかいている。動悸が止まらない。鬼門を開いたからだ。


 鬼門を開くと、己を縛りつける死の川とのつながりを、ことさらに意識させられる。

 それが、だんだん景子自身を捕えようと迫ってくることも。

 その心理的圧迫が、少女を、途方もなく消耗させる。



「これで、敵は迂闊に攻め込んでは来ない」



 胸の上から、暴れる心臓を抑えながら、景子は小声でつぶやく。


 準備万端の態勢を見せ、おまけに機先も制した。

 城中を照らすおびただしい数のかがり火は、備えの厚さを連想させることだろう。


 敵の警戒は歓迎するところだ。相手方の城攻めは慎重であるほどいい。それだけ余計に時間が稼げるのだから。


 しかし、心ははやる。

 遮二無二敵に突っ込んで大将を討ち、この狂気の場を一刻も早く終わらせたい。

 抗いがたいその衝動を、景子は無理やりに押さえつける。



「焦るな。私の目的は、確実に時間を稼ぐこと。一か八かで敵に突っ込むことじゃない」



 景子は自分に言い聞かせた。

 目的を達成するためには、この狂気の中、醒めていなくてはならない。


 敵が動く、その機先を制して敵の鼻先を打ち、動きを封じる。

 神経をすり減らしながらも、景子はその作業を確実に成功させてゆく。


 都合三度、足を止めたところで、敵に別の動きが生じた。

 後陣の兵の数が減っている。部隊を小勢に分けて退かせているのだろう。



 ――あれを城の裏手に集めて、残った部隊で私を足止めしようというわけですか。



 ひどく冷静に、景子は敵の意図を読んだ。



 ――私が、それを許すとでも?



 鬼の笑みを浮かべ、景子は薙刀を地に強く叩きつける。



「――鬼門“三途の川”」



 ふたたび、“鬼門”が開く。

 景子の足元から洩れでた水は、塀の内側に浅く掘られた溝を伝い、本丸の裏手に伸びて行く。

 溝は本丸を囲うように掘ってある。本丸自体が三途の川で覆われるのだ。そこを超える者には、死あるのみ。


 ほどなくして、悲鳴が上がった。

 悲鳴すらあげられなかった者もいるに違いない。

 この水が致命的なものだとわかっている前線の兵士たちも、本丸門を超すことができないでいる。


 これは最終手段だ。

 この態勢になれば、たしかに何人も侵入できない。

 だが、代わりに景子は鬼門を開き続けなければならない。

 冥府の水音が間近に迫っていることを自覚しながら、景子はなお哂う。

 家族を守る。その強い意志が、景子を奮い立たせていた。


 そして。

 唐突に飛んできた一本の矢が、景子の胸にたった。



 

 

 

 



 突如放たれた弓は、景子の胸に命中した。

 弓勢強く、少女の体は馬に跳ねられたように吹き飛ばされ、動かなくなった。

 しん、とあたりが静まり返る。



「誰が弓を使えと言ったぁ!!」



 京極高次が怒声を放った。

 景子は羽柴秀吉の娘である。人質として絶対に確保しておかねばならない人間のひとりだ。

 それを、こともあろうに弓で射殺すなど、あってはならない。高次もそのあたりは厳命していたはずだ。


 だが、青年武将の怒声に応えるものはいない。

 それがなお一層高次の怒りをかきたてる。



「京極どの。わしよ」



 ふたたび怒声を放ちかけた時、声が上がった。

 兵たちをかき分けて現れたのは、立派な身なりの、少壮の武者。



「阿閑どの」



 阿閑貞大あつじさだひろだ。近江山本山城の主、阿閉貞征の嫡男である彼は、父親ともども光秀に従っている。



「阿閉どの。なにゆえかの姫を射られたか!」



 非難めいた口調で詰め寄る高次だが、阿閑貞大は悪びれた様子を見せない。



「姫? どこに姫が居る? あそこに居ったのは、下賤な猿の娘よ」



 言葉の毒に、高次は面食らった。

 たしかに阿閑貞大は秀吉を嫌っていた。しかしこれほどだとは思いもしなかった。



「し、しかしかの姫は大事な人質」


「人質などいくらでも居よう。下賤の娘の一匹や二匹、殺したところで差し支えあるまい。

 それより、ほれ。兵を進められよ。我らを邪魔だてする者は、もはやおらぬ」



 たしかに好機である。

 貞大の行為は褒められたものではないが、この好機を放置しておくほど、高次の、武将としての感覚は鈍くない。

 兵を進めるよう指示しかけて、しかし高次は命令を下すことができなかった。


 なぜなら。

 胸を射抜かれたはずの少女が、ゆっくりと立ち上がる。

 そんなあり得ない光景を、目の当たりにしてしまったのだから。



「京極さま。どうか退いてください」



 着物の胸の部分には、矢によるものだろう。破れた跡がある。

 だが、純白の打掛には、一切血が滲んでいない。

 幽鬼のごとき瞳を、向ける先は阿閑貞大。



「私の、大切な領域に土足で踏み込む……その男に、用がある」



 少女の周囲が揺らめいている。

 かがり火の熱気のためではない。濃密な殺気が、大気をゆがめていた。



「ふん」



 その直撃を受けながら、阿閑貞大は不遜に鼻を鳴らしている。

 並みの胆力ではない。だが、兵士たちはそうもいかない。ただでさえ、急場に集めた百姓兵が多いのだ。第一狙われているのは彼らではない。巻き添えで殺されてはたまったものではない。



「こ、こら! 静まれ!」


「ええい邪魔だ! 退かんか!」



 兵士たちが、桟を乱して逃げる。

 人の波に翻弄され、高次も貞大も、満足に動きが取れない。

 そんな鵜合の衆を丸ごと捕まえるように、少女は手を伸ばす。



「受けよ。羽柴の鬼姫が鬼門――“三途の川”」



 閻魔が判決を下すように、羽柴の鬼姫は宣言した。



 

 

 

 



 景子の声に、応えるように。

 おおん、と、地が震え啼くような音が夜天に響いた。


 音が死んだ。

 そうとしか思えぬ静寂があたりを支配した。

 同時に空気が変わった。哀しいほどに透明で、それでいて手で触れられるかと思うほどに濃い湿気を帯びた空気。地獄の川の大気。


 おおん、と、今度は天が啼く。

 琵琶湖が、あふれた。



「ひっ」


「ええい怯むな! わしに続け!」


「阿閑どの! 退かれよっ! この水に触れてはいかん!」



 押し寄せる水に構わず、なお攻めかからんとする阿閑貞大を、京極高次がいさめる。

 その間に。水の流れに巻き込まれた兵士たちが、次々に倒れ死んでゆく。貞大にとっては初めて見る光景だ。



「な、なんだこれは!?」


「阿閑どの、これなるは鬼姫が鬼門“三途の川”! 触ららば死ぬぞ!」



 流れ来る冥川から逃れながら、高次と貞大が叫びあう。



「馬鹿を言うな! まことに三途の川であれば、そのようなことは起こりえぬ!」


「では、これはいったい!?」


「わからぬ。彼奴目きゃつめの“鬼門”は、もっとおぞましい何かだ!」



 生者は皆、逃げ散ってゆく。

 死者は冥川に引きずり込まれてゆく。

 この世ならざる図の只中に、景子はただ立ちつくす。



「そうか」



 ぽつりと、少女はつぶやいた。

 阿閑貞大の言葉で、景子は気づいてしまった。

 己の鬼門が、三途の川とは似て非なるものなのだと。

 景子の記憶の片隅に、不思議とその知識はあった。



「――ステュクス川。西洋の冥川。それが、私の鬼門」



 日本とおなじように、西洋の冥府にも川が流れている。

 それがステュクス川だ。その川に身を浸したものは、不死を得るという。また、猛毒であるとも言う。



「そして、この記憶も」



 景子は悟った。

 ステュクスの支流に忘却の川がある。

 死者の記憶を溶かしたこの川の水から、景子は無自覚に記憶を引き出した。

 喪失した記憶を求め、本能的に鬼門を開いた結果、少女はひと塊の記憶を得た。


 名前も、どうやって死んだのかもわからない、ひとりの大学生の記憶を。



「なら、結局。私はこの時代の人間……なのですか」



 いままで心の片隅にあった、自分がこの時代にとっての異物だという思いが、淡雪のように融けてゆく。

 嬉しい、と、景子は思う。



「大好きなみんなと、私はおなじ時代に居るんだ」



 それだけで、心に温かいものがこみ上げてくる。

 だが、それも。



 ――終わり、ですか。



 引力を感じた。

 川が、引いて行く。

 その流れから、無数の手が生えて景子を琵琶湖へ引きずり込もうとする。


 開いた鬼門に引きずり込まれる。鬼の末路。

 抗う力など、景子にはもはや残されていなかった。



 ――母上、おばばさま、みんな御無事で。それから父上、武運の長久を。



 家族の顔をひとつひとつ思い浮かべ、景子は祈る。

 そして。琵琶湖に半ば身を沈めかけたところで、何故かひとりの少年の顔が浮かんだ。



 ――虎之助。



「景子ぉっ!」



 思い浮かべた幻は、何故か声をあげた。

 その形相は普段見たことがないくらい必死だった。

 馬から降りて遮二無二駆けてきた少年は、冥川の水を恐れず、絡んだ亡者の腕を振り払い――景子の体を、たくましい腕で抱え上げた。

 その感触は、まぎれもなく本物。



「とらのすけ……本物ですか」


「……おまえの、せっかく助けに来てやったのに、その言いぐさは何じゃ」



 久しぶりに見る少年の姿は、別人のように逞しく。

 しかしその声は、とても、とても懐かしいものだった。



 

 

 終章「鬼ふたり」

 

 



「虎之助」


「助けに来たぞ。景子」



 たがいに子供だった頃のように。そう言って、虎之助は笑った。

 精悍な笑顔を、景子はなぜか正面から受け止めることはできなかった。

 初めて虎之助に男を感じたかもしれない。景子の頬は、かがり火の炎以外の要因で朱に染まる。



「なぜです? 父上と一緒に居る筈では……」


「その藤吉郎さまに頼まれた。おまえの無茶はお見通しよ」



 誤魔化すように尋ねると、そんな答えを返される。



「さ、急ぐぞ」



 虎之助に抱えられたまま、景子は馬上の人になった。

 城内にまた兵の影がちらつき始めている。水が引いたのを確認して、京極高次や阿閑貞大が兵を戻し始めたのだろう。



「虎之助こそ、無茶が過ぎます。こんなところに単騎で突っ込んできて。どうやって逃げるつもりです?」



 景子はもはや“鬼門”が開ける状態ではない。

 そんなお荷物を連れて、虎之助ひとりで囲いを抜かねばならないのだ。



「逃げる?」



 虎之助は不敵に笑った。

 その笑みは、あの森勝蔵と同種のもの。



「破るんじゃ、敵陣をなぁっ! ――開けぇ“鬼門”!!」



 虎之助が吼える。

 それに応えるように開いた“鬼門”から、無数の影が飛び出してきた。

 武者だ。鎧兜を身につけた男たちは、揃って屈強無比。いずれもこの世ならざる気配を纏っている。亡者の類だ。



「“等活地獄とうかつじごく”。無限に斬り斬られる戦の鬼たちをこの世に顕すが、わしの“鬼門”よ」



 鬼の笑みを浮かべ、虎之助が馬を疾駆させる。

 一丸となった鬼武者どもとともに、虎之助は敵の重囲を噛み破ってゆく。



「ええい! 射よ! 射殺してしまえぇぃ!」



 阿閑貞大の命令も間に合わない。

 疾風となった一団は、ついに囲いを抜いて長浜を脱した。


 後の話になるが、光秀を破った後、阿閑貞大を捕えた秀吉は、彼を磔刑はりつけに処した。

 同じく長浜城を攻めた京極高次が後に許されたことを考えれば、長浜攻めでのふたりの態度が、両者を分けた原因のひとつなのかもしれない。


 かがり火の炎で朱に染まる長浜城が、見る間に遠くなってゆく。



「虎之助、あなたがなぜ、“鬼門”を」


「鬼武蔵にやられた時から、じゃろうな」



 呆然と尋ねた景子に対し、答えた虎之助はからりとしたものだ。



「――とうの昔に、わしは鬼よ」



 そこに何のてらいもない。景子などよりよほど鬼らしいと言えた。

 ふと、景子は勝蔵の言葉を思い出す。



「……鬼の伴侶は鬼、か」


「なんじゃ?」


「い、いえ、何でもありません」



 あわててごまかすように、少女は顔をそむけた。

 夜でよかったと景子は思う。昼間なら、顔が真っ赤になっているのがわかっただろう。



「……景子」


「な、何ですか?」



 しばらく馬を走らせてから、虎之助が口を開く。

 動揺の余韻を引きずっている景子はどもってしまった。

 そんな少女を知ってか知らずか、この若武者はこともなげにつぶやいた。



「わしも、鬼同士なら、うまくやっていけると思うぞ」



 その一言で、景子は思い切り取り乱した。



「き、聞いてたんですか!?」


「おお。聞いとった」


「ち、ちょっと待って。忘れて! いまのは忘れてくださいっ!」



 何かをかき消すように、ばたばたと両手をはばたかせながら、景子は虎之助に懇願する。

 若武者は、至極真面目な様子でこれを拒否した。



「いいや、忘れん」


「虎之助、意地悪を――」


「景子。好いとるぞ」



 言い訳を許さない、まっすぐな言葉だった。



「……もう、どうするんですか、これ。どうしたらいいんでしょうね、この感情……」



 ぶつぶつとつぶやきながら、景子は耳まで真っ赤になっている。



「この仕打ちのつけ、払ってもらいますからね。絶対」


「ああ。責任とって――藤吉郎さまが納得するような。羽柴の娘の婿にふさわしい立派な武者に、わしはなる!」



 ふたりは駆ける。明日に向かって。

 それを止めるものは、もはや何もなかった。



 

 

 鬼姫戦国行――了

 

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ