ゴースト、角兎を仕留める。
ホーンラビットは普通の兎と違って草食性ではなく、雑食性だ。それでも植物を好んで食するが、周りに植物が無い場合は小さな鼠や鳥等を仕留めて貪る。
植物を好む雑食性から、多くは森の中に潜んでいるのだが、人の住む場所の近辺にも生息しており、その中でも多くの美味な植物が栽培されている農村付近に多く生息している。
その身軽さから、畑に仕掛けられた罠を掻い潜って作物を荒らすので昼間は人が見張りをする。夜はホーンラビットは昼行性なので眠りに入っているので被害は出ない。
ホーンラビットは人を見ると逃げる習性があるが、それはあくまで複数人や大人を見た場合であり、子供等弱そうな者を一人だけを見た場合はその限りではなく、額に生えた角の先を向けて、一気に跳躍して襲い掛かっていく。
角の一撃は当たり所が悪ければ致命傷になりかねないので子供は一人にならないようにと注意を促されている。
トウカが初めて生きたホーンラビットに遭遇したのが十二歳の夏であった。
その時は今以上に小さな子供であり、休憩時間の関係上一人で畑番をしていた所にホーンラビットはトウカへと襲い掛かった。が、トウカは跳び掛かってきたホーンラビットを避けて、手にしていた鎌を背中へと突き刺して仕留めた。
それは偶然の出来事であったが、トウカにとってそれが初のホーンラビット退治になり、ホーンラビットに対して恐怖ではなく少しの余裕を持てる動機となった。
それ以降、トウカはホーンラビットが襲い掛かって来ても冷静に対処をして仕留めてその日の夕飯の材料にした。十五歳になるとホーンラビットからは大人と判断されて見付けても直ぐに逃げ出すようになった。
なのでトウカはここ最近はホーンラビットを仕留めておらず、少々勘が鈍っているが、それでもホーンラビットくらいならば労せずに仕留められるだろうと楽観視している。
トウカは緊張していた体の力を少し抜き、フライパンを両手ではなく右手だけに持ち替える。
ホーンラビットがここまで至近距離でも逃げ出さないのは今の自分の姿を脅威と見なしていないのだろう、と軽く思いながらホーンラビットへと近付く。
対するホーンラビットは自身に近付いてくるトウカを凝視すると、僅かに後ろ脚を後退させ、前傾姿勢を作る。これはホーンラビットが攻撃態勢に入った合図であり、確認したトウカは近付くのをやめて、何時跳び出しても横に避けれるようにと軽く身構える。
暫しの静寂の後、力を溜め終えたホーンラビットが後ろ足で地面を力強く蹴り出し、トウカへと突撃していく。
「――――――――え?」
トウカは驚きを隠せなかったが、反射的に僅かにだが体を横に逸らす。
三メートル程の距離を一っ跳びで詰めたホーンラビットは頭を少しだけ傾げ角の角度を調節させてトウカの左上腕部を掠り、そのままトウカの後方一メートルの地点に前足から着地する。ホーンラビットの角が掠った傷口からはゴースト故に血が流れ出て来ないがぱっくりと割れており痛みが走る。
トウカは左上腕部の傷を隠すようにフライパンを左手に持ち替えて右手で押さえる。彼の額には汗がじんわりと滲み出している。
「……何で?」
自分の後ろにいるホーンラビットを肩越しに振り返り、トウカは有り得ないと言わんばかりに声を震わせてそう呟いた。
彼がどうしてそう呟いたのかと言えば、自分が今まで相対してきたホーンラビットよりも速かったからだ。人間であった頃に出会ったホーンラビットの軽く倍の速度を叩き出しているだろうとトウカは考えている。
これは体感なので実際はもう少し遅いのだろうが、それでもホーンラビットがここまで速い事に驚きを隠せないのだ。
低階層に生息するダンジョンモンスターは地上の同種モンスターよりも弱い。
それは現在トウカを傷付けたホーンラビットにも当て嵌まる事である。なので、先程の跳び掛かりの速度も地上のホーンラビットよりも遅いのだ。
なのに、トウカが速いと感じてしまったのには理由がある。それは現在の彼が十五歳の人間ではなく、まだ生まれて間もないゴーストだからだ。
人間の時に培われた力と動体視力はゴーストに生まれ変わった際に完全になくしてしまっている。先程避けれらたのは反射神経だけが生前から受け継がれたのではなく、生物に本来備わっている機能が発動しただけだ。
生まれて間もないゴーストであるトウカにとって、ホーンラビットは僅かにではあるが格上の存在だ。それはつまり、力量の差から言っても普通にやったのでは勝てない事を意味している。
ゴーストでもホーンラビットに勝てるのだが、その場合はホーンラビットが罠に掛かっている所を袋叩きにするか、弱っている所に奇襲を仕掛ける等で、真っ向勝負ではない。
自分の攻撃を躱されたホーンラビットは、再び前傾姿勢を作り、突撃の為の力を後ろ足に溜める。それを肩越しに確認したトウカは天井付近にまで上昇した。
ホーンラビットの跳躍力は水平方向にはあるが、垂直方向にはあまり期待出来ない。なので安全圏内である天井付近へとトウカは逃げた。
しかし、トウカは知らない。
ここが今までホーンラビットを退治してきた地上の畑付近ではなく、ダンジョンの中だと言う事で、本来のホーンラビットの動きが可能となっている事を。
力を溜め終えたホーンラビットは跳ぶ。しかし、それは単に天井まで昇ったトウカ目掛けてではなく、左にある壁へと向けて。
壁に向けて跳躍したホーンラビットは、空中で姿勢を正し、壁に接触する際に四つの足の裏が触れるようにする。そして、触れると重力によって地面への落下が始まる前に壁を蹴り、そのまま天井付近にいるトウカ目掛けて角を突き出す。
「うわっ!」
トウカは慌てて緊急下降をする。頭上すれすれをホーンラビットが通過し、そのまま地面に着地……はせずに、体をくるりと反転させて今度は天井に足をつけ、力を込めて蹴り出し、再びトウカへと突進を繰り出す。
その鋭利な角を持つ兎がまさか天井までも蹴るとは思えなかったトウカの左肩に深々と突き刺さる。
「ぐぁ!」
口から呻き声が漏れ、焼けるような痛みが訪れてもトウカは歯を食い縛って堪える。
トウカは直ぐ様札理腕の傷口に当てていた右手を放し、ホーンラビットの首根っこを掴んで地面に向けて叩き付けるように投げる。
ホーンラビットはまさかゴーストがこのような事をするとは思っていなかったので、受け身を取れず、背中をしこたま強打する。
ホーンラビットは暫し身動ぎをした後、よろよろと四足を地面につけて宙に浮いているゴーストを警戒するように睥睨する。
ホーンラビットは人里近くにも住みついているが、多くが森の中を住処としている。人里近くでは平坦な場所が多いので前方へと跳ぶだけだが、森の中で育ったホーンラビットは違う動きをする。
いや、むしろ森の中のホーンラビットの動きこそが本来の動きなのだ。
森のホーンラビットはただ前方に跳ぶのではなく、周りに生えている木々を利用する。目の前の獲物を仕留める際に逃げる獲物の意表を突く為に、または接近に気付いていない愚かな獲物に奇襲をかける為に森の木々の幹を踏み台にし、縦横無尽に森の中を飛び跳ねながら襲い掛かるのだ。
ダンジョンモンスターとなっているホーンラビットは更に厄介であり、森の中では森の幹だけを活用する跳び方を壁に使い、更には天井と言う森の中には存在しないものまでも活用し、動きは森のホーンラビットよりも軽快で縦横無尽となっている。
平地に潜んでいるホーンラビットしか知らない者であるならば、まず間違いなく動揺するだろう。
それはトウカも例外ではなく、彼はホーンラビット退治は畑近くの平地でのみ行っていたのだ。
ただ、トウカは驚きはしたが焦りは生じていない。
トウカは今目の前で起きた事象を頭に刻み込み、今まで退治してきた平地のホーンラビットの動きを記憶の奥底に封印し、先程体験した動きだけを頼りにホーンラビットを一気に仕留めようとする。
それには武器が必要であり、現在彼が持っている武器はフライパンのみ。
フライパンの柄をまたもや両手で掴み、眼前に構えてホーンラビットを睨みつける。
ふと、最初の一撃によってぱっくりと割れた左上腕部の傷が既になくなっており、先程貫かれた左肩の孔も既に塞がっているのが見て取れた。
その様子にトウカは不思議そうに眺めるが、今はその疑問を解消するよりも脅威となっているホーンラビットを仕留める事だけに集中する。
これはゴーストの特徴で、痛みやダメージまでは消せないが、外傷は見た目だけは直ぐに回復するようになっている。
なので、ゴーストを切り付けたとしても切り傷を与えられないと錯覚し、攻撃を躊躇わす事が出来るのだが、それは無駄に知識のある人間のような相手に有効であり、本能のまま動く今目の前にいるホーンラビットのような輩は攻撃を躊躇する事はない。
トウカはホーンラビットの一挙手一投足を見逃すまいと凝視し、何時でもフライパンを動かせるようにと無駄な力を抜くように努力する。
一回外したとしてもチャンスはあるだろうが、出来る事ならばこの一撃によって全てを終わらせたいとトウカは願っている。
回数を重ねれば目が慣れ、段々と動きについて行く事が出来るのだろうが、現在のトウカは水分を摂取して喉の渇きは覚えていないが、空腹感を覚えてしまっている。
故に、あまり回数を重ね過ぎると空腹感が集中の邪魔をしだしてしまう恐れがある。なので、トウカは次の一撃に懸ける事にした。
トウカが決意を固めたとは知らないホーンラビットは叩き付けられてしまった背中の痛みを無視して三度、後ろ足に力を溜めて前傾姿勢となるが、先程よりも屈み具合が浅いのはそれ以上傾けると背中の痛みが増してしまうからであり、これにより、突撃の威力が減る事となる。
それをトウカは知らないでいるが、またとないチャンスである。
ホーンラビットが構えた瞬間に、トウカは再び天井付近へと上昇する。
上へと昇るトウカを確認したホーンラビットは壁に照準を定めてそちらへと跳び、くるりと体を反転させて壁を蹴り、天井付近にいるトウカへと角を突き出す。
トウカがわざわざ跳び上がったのには訳がある。それは、壁を蹴って跳ぶ速度は、単に地面を蹴って跳ぶ速度よりもやや遅くなるからだ。
地面では力を溜めるので速くなるが、壁や天井では重力が邪魔をするので力を溜める事が出来ずにただ蹴るだけだ。なので速度がどうしても遅くなってしまう。
僅かでも速度が遅くなれば、トウカが今行おうとしている事が成功する確率が上がるのだ。なので、トウカは一度天井近くまで上がったのだ。
「うりゃ!」
自分目掛けて突進してくるホーンラビットの角のある額に向けて、トウカは渾身の力を込めてフライパンを勢いよく振り下ろす。
それはタイミングが合わなければ振るのが早過ぎて空振りをしてしまったり、振る前にホーンラビットの角に貫かれてしまう。そうならない為にも、タイミングを合しやすいようにわざわざホーンラビットに壁を蹴らせて速度を遅くさせたのだ。
タイミングは僅かに逸れてホーンラビットの背中を打ち付けた。ホーンラビットの角がトウカの胸を軽く貫いたが、それは先だけで致命傷とは程遠かった。
振り下ろされたフライパンに空中では抗う事も出来ずにホーンラビットはその力と重力を受けて地面へと叩き付けられる。が、まだ生きはある。
トウカは元々この一撃だけでホーンラビットを仕留めようとは思っておらず、この攻撃によって動けなくなった所をフライパンで頭を重点的に滅多打ちする作戦を立てていた。
「ってあららららららららららららららららっ!?」
と、ここでトウカにとって予想外の事が起こった。いや、予想は立てられたのかもしれないが、生憎とそこまで頭が回らなかっただけなのだ。
生まれたてゴーストのあるあるである空中縦回転が始まってしまった。どうしてなってしまったのかと言う訳は、力一杯フライパンを真下へと振り下ろしたからだ。
振り下ろした相手も空中にいてそのまま地面に叩き付けられたのだが、それ故にフライパンは綺麗に振り下ろされ、そのまま勢いを殺せずに空中を縦回転する羽目となったのだ。
ただ、この空中縦回転は前回の二回とは違い、前方や後方へと進む事は無かった。代わりに、真下へと落下するように向けて勢いよく直進した。
そして幸運な事に、体と同じように手にしたフライパンは遠心力を得ており、威力が増大された。
そのフライパンの軌道上には、地面に臥せっているホーンラビットがいる。トウカが地面に激突寸前に、フライパンの強烈な一撃がホーンラビットの脳天に炸裂する。
「ぶぼっ!」
トウカは顔面を打ち付けて、大の字ならぬ十の字で伸びてしまう。
しかし、彼の身の危険はもう無くなった。近くに他の生物の気配はなく、ホーンラビットは遠心力を得たフライパンの打撃を頭部に貰い、息絶えたのだから。