ゴースト、ゴーストになったと自覚する。
「あの、ありがとうございます」
トウカが人魚と遭遇してから三十分後。ダンジョンの壁に背を預けた状態で座っている人魚は頭を下げてトウカに礼を述べている。人魚の頭部には包帯が幾重にも巻かれており、少し血が滲んでいる。
三十分前にトウカは人魚の肩を持って俯せの状態から仰向けにして、口に血溜まりが触れないようにし、そして喉がつまらないようにと気道を確保した上で頭部の怪我の程度を見た。
怪我をしている箇所は右こめかみよりの額であり、刃物で切られたような傷跡であったが、幸いな事に刀傷は骨にまで到達していなかったので大事には至っていなかった。
が、あまりにも出血が酷かったので傷口をまだ口をつけていなかった水筒の綺麗な水で洗浄し、長い金色の髪を巻き込まないように包帯で傷口を圧迫するように巻いて出血を抑えたのだ。
「あ、いえ。気にしないで下さい。それよりも、頭をあんまり下げない方が。圧迫してますけど血が出るかもしれませんし」
人魚の目の前でふわふわと浮いているトウカは彼女の肩をそっと掴んで上体を起こす。
「あと、それ全部飲んでいいですから。出血で水分を失っているだろうし」
トウカは人魚が右手に持っている彼の水筒を指差す。人魚が意識を取り戻した際にトウカは即座に水筒を手渡し、ゆっくりと飲むように促した。
人魚はすまなそうにしながらも、やはり出血によって喉が渇いていたのか、水筒に口をつけ、こくりこくりと飲んだ。現在では水筒の中身は半分程にまで減っている。
「すみません。貴重な水ですのに……」
人魚が視線を下げ、肩を落とす。このダンジョンでは今の所、トウカが通ってきた場所では水を見付ける事が出来なかった。
なので、確かに水は貴重な存在だろう。それに加えて、普通に飲める綺麗な水ともなれば、水が手に入らない状況下では価値が上昇する。
「気にしなくていいですから」
それでも、トウカは渋る訳でも無く、にっこりと微笑みながら人魚に自分の水を全て分け与える。
だが別に、彼は水分を必要としない身体になった訳ではない。幽霊モンスターと言えども、一個の生命なので水分を取り、食事を摂る必要がある。
実際、トウカも少しではあるが喉の渇きを覚え始めているので少しは水分を摂取しなければいけないだろう。
しかし、それでもトウカは自分よりも人魚を優先した。例え人外だったとしても、人と同じように思考し喋る存在が弱っているのを放っては置けなかったのだ。
「重ね重ね、御迷惑を掛けてすみません。ゴースト様」
「だから気にしないでってちょっと待って」
聞き捨てならない単語を耳にしたトウカは右手をばっと前に出して停止を促すように体で表現する。
「今、何て言いました?」
「はい。重ね重ね御迷惑を掛けてすみません、と」
「その後」
「その後、ですか? ゴースト様、と」
人魚は首を傾げながら一体何を言っているのだろう? と疑問符を浮かべながらきょとんとする。
そのゴーストと言う単語に、トウカは自身の耳を疑い、再度確認して訊き間違いではないと確信し、眉間に左の人差し指を当てて目を固く瞑る。
「えっと……ゴーストって、夜なんかに時々出るモンスターの事、ですよね?」
「はい。あ、昼でも難破船でよく見かけますよ」
人魚は思い出したように右の人差し指でダンジョンの天井を指差すように立てながら言う。
「難破船?」
海に出た事が無いトウカでも船の存在は認知しているが、難破の意味が分からずに、船の一種なのだろうか? とつい考えてしまう。
「はい。人間がいなくなってぼろぼろになった船内を徘徊してますね。ゴーストとはああ言った場所が好きなのでしょうか?」
人魚はトウカに質問をし返すが、トウカにとってもゴーストの生態は詳しく分からないので答えようがなかったが、今の彼女の言葉で難破船とは船の一種ではなく、壊れた船を指すのだろう事は窺えた。
「さぁ? 僕にもちょっと分からないな」
「そうですか。ゴーストであるゴースト様も分からないのですね」
「その言い方はちょっとややこしいような気がするんですけど。いや、そうじゃなくて」
トウカは頭を振って一旦思考をリセットする。
「あの、僕ってゴーストに見えます?」
人魚に改めて自分の外観を問うてみるトウカ。確かに、言われてみれば自分の外観はゴーストのものと一致する。
しかし、だからと言ってそれは信じられないと言うものだった。トウカは紛れもなく人間であったのだ。なので、目を覚ましたらモンスターになっていたなど夢物語でもあるまいし、有り得ないと思ったのだ。
「はい。紛れもなくゴーストに見えますが?」
しかし、疑問符を語尾に付けたとは言え、人魚の放った答えによって有り得ない事ではないのだと事実を突き付けられた。自分では認めなくとも、他者に言われてしまえば認めざるを得ない。
「そう……ですか。…………ゴースト」
トウカは自分の身に何が起きているのかを完全に把握出来ていないが、少なくとも人間ではなくなってしまった事は理解している。
人間からゴーストへと変化した過程までは分からないでいるが、彼がそれを知るにはこのダンジョンにあるであろう人間トウカの死体を見付ける他ない。
しかし、死ぬ間際の記憶は頭部に受けた衝撃により損壊しているので自分が一度死んでしまっているとは知らないでいる。
なので、自分の死体がダンジョンの何処かにあると言う考えまでは伸ばせないでいるので、トウカは一度死んでしまった事さえも知らないで生きていく事となるだろう。
暫し、言葉を失くして虚空を見つめるトウカ。人魚は何か失礼な事でも言ったのだろうか? と不安になり、水筒を両手で握り締めておろおろとする。
「…………こんな姿じゃ、村に帰れないな」
ぼそりと呟く。上半身はトウカそのものであるが、それでも空中に浮いており、半透明な体、足が一つでひらひらしていれば顔を見るまでも無くゴーストと判断され、村に入ろうとすれば危害を加えに来たと村人に誤解させてしまい、攻撃されるだろう。それくらいはトウカでも分かる。
実際に村にゴーストが入って来た時は村の男手が片手に斧や鍬、鉈を持ってゴーストに切り掛かって退治をした。なので、村に入れば歴代のゴーストたちの仲間入りをする事になるだろう事は嫌でも分かったのだ。
村に帰れないとすると、両親と兄弟にも会えなくなると言う事だ。トウカは、それが悲しいと胸がずきりと痛む。
トウカは五兄弟の二男として生を受けた。上には兄が、下には二人の妹と一人の弟がおり、兄弟仲は悪くはなく、喧嘩もするが兄弟の誰かが怪我をすれば心配するし、風邪を引けば代わり代わりに看病もする至って一般的な関係である彼は思っている。
トウカの両親は厳しいと言う訳ではないが、甘やかす事はしていなかった。しかし、兄弟にきちんと愛情を注いで育てていたので例え叱られたとしてもトウカを含む兄弟は両親を嫌いにはならなかった。
トウカは家族と毎日朝食を食べ、畑で仕事をし、夕飯を食べて風呂に入り一日の疲れを洗い流して就寝する生活を送っていた。
それはあまり変わり映えする生活ではなかったが、十五年も同じ家に住み、物心ついた時からの生活なので彼の中では当たり前の日常となっていた。
なので、その生活が送れなくなる事に寂しさともの悲しさが胸の内から滲んでくる。
また、自分が帰らなければ家族に心配させてしまう。そう思うと今直ぐに帰りたいと焦りが生じるが、ゴーストとなった自分が家族に会ってしまえば、その後どうなるか分かったものではない。
最悪、家族に恐怖を抱かれ、攻撃されるかもしれない。自分が家族に攻撃されるのは嫌だと思う以上に、トウカは家族に恐怖を与えたくないと思っている。
なので、トウカには村に帰る、家族に会うと言う道は閉ざされてしまっている。
「………………まぁ、なっちゃったものは仕方がない、か」
トウカは気持ちを切り替える。人間ではなく、ゴーストにどう言う訳かなってしまって、村に帰れなくなった。ならば村に帰らずに今を生きなければならない。
少なくとも、人間のいる場所以外での居住する場所を探さなければいけないだろう。
ゴーストとは言え疲労もするし眠くもなる。外敵もいない訳ではないので安心して休める場所が必要となってくるのだ。
「あの、ゴースト様。大丈夫ですか?」
人魚は心配そうにトウカの顔を覗き込む。
「あぁ、何でもありません」
トウカは少々弱いが目の前の怪我をしている人魚に心配を掛けさせまいと笑みを浮かべる。自分の身に起きた事に対しての機微を表に出して全く関係の無い人魚の負担とさせたくなかったのだ。
その笑みは明らかに無理をして作っていると人魚にも分かったが、彼女は自分の為に笑っているのだと感じ、気付かない振りをする。
「所で、……あの、失礼ですが名前は何て言うんですか?」
トウカは人魚に問い掛けようとしたが、彼女の名前はおろか種族も知らないのでどう呼び掛ければいいか分からず、素直に名前を訊く事にする。
「あ、すみません。私は人魚のセイルと申します」
名前を訊かれた人魚――セイルは自分の名前を口にすると居住まいを正して頭を下げるが、先程下げない方がいいと言われた事を思い出したので直ぐ様頭を上げる。ここでトウカは彼女が人魚と言う種族だと初めて知る。
「セイルさんですね。僕はトウカと言います」
トウカもセイルに自分の名前を告げる。
「トウカ様、ですね」
「あの……様はつけなくていいです。僕は領主様じゃありませんし」
「いえ、助けていただいたのでそれ相応の敬意を表しませんと」
セイルはきりっと顔を引き締めてトウカの顔を真っ直ぐに見る。あまりにもぶれずに見てくるので、トウカはどう言っても様をつけるのだろうと思い、諦める。
「じゃあ、それでいいですけど。……セイルさんはどうして血を流して倒れてたんですか? 誰かに襲われました?」
トウカの質問にセイルの方がびくんとはねる。そして顔に陰を落として若干俯き加減になる。
「…………はい。人間に、襲われました」
セイルはそれだけを言うと口を横一文字に閉ざし、水筒をきつく握り締める。顔が青ざめ、その手がかたかたと震えているのをトウカは見逃さなかった。
「あ、その……御免なさい。嫌な事思い出させちゃって」
「いえ」
セイルは首を横に振るが、それでも青くなった顔色はよくならない。彼女の心に根付いてしまった恐怖を呼び覚ましてしまったトウカはそれを少しでも和らげようと彼女の肩に優しく触れる。
セイルはぴくんと肩を震わせるが、トウカの手から伝わってくる冷たさが心地よく、次第に恐怖が奥へと引っ込んでいくが、それでも完全に消え去った訳ではないが幾分か楽になった。
しかし、トウカは恐怖を和らげてしまった手前であるが、更に質問をしなければならなかった。
「あの、セイルさん。人間に襲われたって事は、近くにまだ人がいるって事ですか?」
そう、セイルは人間に襲われたと言ったのだ。額の傷からして、相手は刃物を所持している。
武装した人間がこの近くにまだいるのであれば、またセイルが襲われるかもしれない。そう思うと一刻も早くここから離れた方がいいだろうとトウカは考える。
「あ、いえ。襲われたのはここではないです。浜辺近くの岩場に上がって空を見ていた所を急に襲われて、そこで意識を失ったんですが…………目を覚ましたら岩場ではなくここにいたんです」
セイルはトウカの意図を汲み取り、言いにくいながらも襲われた場所がここではない事を説明する。
「浜辺って、あの海にある?」
「はい」
トウカは呆けたように口を開ける。ここは海から遠い場所にある農村付近の山にあるダンジョンだ。トウカはダンジョンだと知らないが、それでもセイルが海からこんな山奥にまでどう言う訳か来てしまった事に不可思議さが溢れてくる。
そして、セイルが海の近くに住んでいたのかと少々羨む。農村で山育ちのトウカにとっては海は憧れの場所であり、一度は行ってみたいと思っている場所なのである。なので、セイルが海の近くに住んでいる事が羨ましいと感じてしまったのだ。
ただ、少し誤解があり、セイルは海の近くではなく海の中に住んでいる。人魚と言う種族を知らないが故に出た誤解であった。
「じゃあ、ここにいても襲われる事はない……かな」
が、直ぐに頭を振って羨む気持ちを振り払い、セイルの身の安全について考える。襲われた場所がここから遠く離れた場所ならば、同一人物に襲われる心配は皆無だ。
そうなると今優先すべき事は近くで安静に休める場所を探す事だ。村に帰れないのでトウカの家のベッドで休ませる事は出来ない。
それ以前に血を流し過ぎているのであまり移動しない方がいいだろうと考えたトウカはこのダンジョン内で休める空間を捜す事に決めた。
いくら同一人物に襲われないからと言ってもセイルは怪我をしているのでなるべく他の誰にも邪魔をされないような場所を見付けてそこで怪我の回復を待たなければいけないだろう。
セイルが家に帰るのだとしても、まずは傷を癒してからでないと始まらない。
「あの、セイルさん。もう少し休んだら、別の場所に移動して休もうと思うんですがいいですか? ここだと少し危ないと思うので。あと、水分もきちんと取って下さいね」
「はい、分かりました」
セイルは頷き、トウカに促されたので水筒に口をつけて、残り半分の水を少しずつ喉の奥へと流し込んでいく。




