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ゴースト、人間でありたいと願う。

 暗い。

 辺りは光なぞ差し込む余地さえも与えない程に真っ暗で、視界が完全に暗転している。

 そんな場所にトウカは横たわっている。

 トウカは漆黒の世界で身じろぎ一つせず、ただただ丸くなっている。いや、ただ丸くなっているのではなく、この暗い空間と同色のどろどろした粘体が全身を包んでいる。

 そのどろどろした粘体は重く、冷たく、そして肌を通してトウカの神経に突き刺さっていく。

 トウカはそれを払い除けようともせずに、甘んじてそれを受け入れている。

 本来ならば深い以外の何者でもない黒い粘体であるが、この重さこそが、この冷たさこそが、そして神経に突き刺さっていく感覚こそが、トウカにとって、自分の心を責め立てるのに必要不可欠な要因となっている。

「……僕、は」

 口さえも粘体で塞がれているトウカだが、緩慢な動作で口を上下させ、微妙に作られた隙間を伝って言葉が音となって発せられる。

「…………人、を、殺そうと、した」

 理由は何であれ、トウカはそれをさいなんでいる。

 もし、あのまま意識を失わなかったら、フライパンは男の背中に叩き付けられていた。ただ、それだけでは終わらずに、その後は次々とフライパンを脊髄の走っている箇所、脳を守っている頭蓋に向けて振り下ろしまくっていた事だろう。

 そこまで、人間の男をトウカは許せなかった。

 ここに来る筈が無かっただろうセイルは、男に襲われ、額を怪我し、転移陣とやらで無理矢理にこのダンジョンへと来させられてしまった。

 男がいなければ、セイルは今も海で家族と共に過ごしていた事だろう。

 男がいなければ、セイルはこんな辺鄙な場所に来る事は無かっただろう。

 それが無性に腹が立って、胸がむかむかして、そして――感情が一気に冷めた。

 怒りも憤りも感じなくなったトウカは、機械的に目の前の脅威となっている、そしてセイルに絶対に会わせてはならない男をダンジョンからどのような手段を用いてでも消そうとした。

 その手段とは、出口へと追いやるだけでなく、命を絶たせると言う意味合いも含まれている。

 感情を取り戻したトウカは、人を殺そうとした自分が怖くなった。いくらセイルをダンジョンまで飛ばした輩だろうと、いくらセイルを傷付けた輩だろうと、人を殺していい道理ではない。

 ただのゴーストとして生まれ変わっていたのなら、人間を殺す事に躊躇いなぞ生じる事は無かっただろう。

 しかし、トウカは生前人間であった頃の記憶を有してゴーストに生まれ変わった稀有な存在だ。人間としての知性も、そして理性も持ち合わせている。

 人間同士でも殺し合いは平気でするのだが、トウカは殺し合いとは無縁の世界、それも、トウカ自身他人に暴力を振るわなかった子供だ。そんなトウカが躊躇いも無く、人魚がダンジョンへと来てしまった元凶を殺そうとした。

 感情が消え失せ、理性も失い、ただただ、一つの使命感によって殺そうとした。

 それが、怖いのだ。

 まるで、自分が人間ではなくモンスターになってしまったようだ、と。

 トウカはもう既にゴースト――れっきとしたモンスターだ。なので、彼の思いは間違いではないが、彼が言いたいのはそうではない。中身がモンスターになってしまったようだと思ったのだ。

 そこらの虫を潰すかのように感情なぞ表わす事も無く人を殺す。トウカのイメージしているモンスターの大部分はそれだ。なので、男を攻撃していたトウカ自身はまさに彼が想像しているモンスターと同じだった。

「…………僕、は」

 トウカの眼の端からは涙が一筋零れ、黒い粘体へと触れる。

「……人、で、い、たい……っ」

 例え体はゴーストになったとしても、心だけは、人間のままでありたい。心が人間だからこそ、今の自分があるのだ。トウカにとってそこだけは、割り切る事も、切り替える事も出来ない部分である。

 トウカをトウカたらしめる人間的な部分を失ってしまえば、事実上、トウカは完全に消え去ってしまう。

 完全に消え去ってしまったら、自分はどうなるのだろう? そして、どのような行動を仕出かすのだろう? トウカは考えたくなくともいやでも考えてしまう。

 目を細め、押し出されるように流れる涙で頬を濡らしながら、トウカは必死で口を動かす。

「助、け、て」

 自分一人ではどうしようもない。自分一人だけでは抱え込むだけにとどまり、何時か確実に爆発し、トウカと言う個が消え失せてしまう。

 何かにすがるように、求めるように、黒い粘体にまみれた腕を伸ばす。けれども、それを掴みとってくれる者はおらず、粘体が更に絡まり腕を羽交い絞めにして引き摺り戻そうとする。

「……助…………」

 黒い粘体は口付近にあった僅かな隙間さえも無くし、これ以上トウカに何もさせないようにする。

 その時だ。

 微かにだが、トウカの耳に音が入り込んできた。

 それと同時に彼の全身を覆い尽くしていた黒い粘体が徐々にではあるが、トウカの身体から離れて行ったのだ。

 粘体が離れる程に、鼓膜を打つ音は次第に大きくなり、そして視界も、黒一色から徐々に光を取り戻していくかのように白が侵食を開始していく。

 黒から眩い程の白が世界を完全に掌握すると、黒い粘体は微塵も残さず消え失せる。

 トウカの耳には、鈴のような音……いや、声が届き、彼の体は何かに抱き締められる。

 それがとても暖かくて、とても優しくて、とても安心出来るものであった。

「…………あ……」

 トウカは、その安らぎに抱かれたまま、涙にぬれた眼を閉じて、また開く。

 すると、景色が変わっていた。

 黒から白一色へと変化した世界は、白い雪のような光が舞い落ち、そして舞い上がり、四色の花が周りを彩り、竜のような樹木が入り乱れた場所を描いている。

 体がひんやりと冷やされるような箇所が存在する事から、トウカは隠し部屋の池の底にいるのだと理解するが、どうして自分はここにいるのだろう? と疑問に思う。

 そんな彼の耳元では、途切れる事も無く歌声が響いている。歌詞は、どんなに辛くとも、一緒に歩いていこうと励まし合いながら旅を続けていく男女の心情を描いたものだ。

 トウカは首を僅かに横に向けて、歌声のする方を見る。そこには金色の長髪が水に漂っている様子しか分からなかったが、そこにセイルがいる事は見て取れた。

 そして、冷たさだけではなく、温かさと圧迫感があるのはどうしてだろう? と思い、トウカは視線を下に向けようとして首を動かすが、顎に固い部分もあるが柔らかく、そして温かいものが当たってそれ以上下に向けなかった。

「……トウカ様?」

 顔が見えない位置で歌っていたセイルは、ぷつりと歌をやめて、トウカの眼前に顔を持ってくる。その動作によって、トウカの顎が触れていた部分は彼女の肩であった事が分かった。

 セイルの顔は何処か肉が落ちているようにも見えて、目の下には隈が、そして、目が充血していた。

「トウカ様っ!」

 トウカが目を覚ました事を認識すると、セイルはくしゃっと顔を歪ませ、強く、それでいて優しく彼を抱き締める。

「トウカ様……トウカ様……っ!」

 震える声で何度も何度もトウカの名前を呼ぶ。

 トウカはセイルの様子に、あぁ、やってしまったな、と思ってしまう。

 どうしてだかダンジョンの出口付近から隠し部屋の池の底まで無意識のうちに移動し、もしくは意識のない状態の時に移動させられ、見た目は無事だが満身創痍な状態を見ただろうセイルに要らぬ心配をさせてしまった事に、トウカは胸が痛む。

「セイルさん」

 だから、トウカはセイルを宥めるように彼女の耳に優しく囁き掛ける。

「僕は、大丈夫ですよ」

 安心させるように笑みを作る。セイルはトウカの言葉で抱き寄せていた体を放して、再び彼の顔を見る。

 そして、無言でトウカの頬に平手打ちをかました。

「…………え?」

 じんじんと痛む頬に手を添えるトウカは何が起きたのか理解出来ていない。

「……何が」

 トウカに平手打ちをかましたセイルは眉間に皺をよせ、眉尻を上げ、怒りを抑えずに表に出している。

「何が、大丈夫ですかっ!」

 口を大きく開き、水の中と言えども響き渡るような大音声で怒鳴る。

 そんな彼女の眼は潤んでいるが、決して水の中だからではない。セイルはしゃくりあげながら、トウカの眼をじっと見る。

「トウカ様がここに運ばれてきた時には全然意識が無くて、呼吸すらしていなくて、このままずっと目を覚まさないかもしれないって心配してたんですよっ! そんな状態が一週間も続いて、大丈夫な筈がありませんっ!」

 それに、とセイルは怒りの表情を徐々に悲しむように眉尻を下げ、口角をも下げる。

「そんな泣きそうで、辛そうで、そして何かを堪えすぎているような顔をしながら、笑おうとしているトウカ様は、やはり、大丈夫には見えません! もう、無理をなさらずに、ありのままの感情を吐き出して下さい!」

 嗚咽を漏らしながら、セイルはトウカに懇願する。

「あの日の夜に何があったのかは私には分かりません! ですが、トウカ様にとってはどうしても、辛い事があったのだろう事は、想像がつきます」

 声も徐々に音量が下がっていき、ついには蚊の鳴くようなか細い声になってしまう。

「トウカ様は、無理をし過ぎです。私の為にとやり過ぎです。このままでは、トウカ様は壊れてしまいます」

「壊、れる……」

「私を助けて下さったトウカ様は自分の内に何かを抱え込んだまま、私の為にと出口を探して下さっていました。そして、今のトウカ様は更に何かを悩んでいるように見えます。私は、そんなトウカ様の負担を減らしたい、役に立ちたいと思っています」

 ですから、とセイルは三度、トウカの体を抱き寄せる。

「私に胸の内を打ち明けて下さい。まだ出逢って間もなく、お互いの事なぞあまり知りませんが、少しずつでいいです。ほんの僅かでも構いません。トウカ様の内に抱え込んだものを表に出して下さいませ。少しでも他人に打ち明ければ、その分、軽くなります」

 まるで母が子をあやすように優しく、そして慈しむようにセイルはトウカをぎゅっと抱き締める。

「トウカ様は一人ではありません。私が、ついています」

 セイルに心配を掛けさせぬよう、セイルに怪我をさせぬよう、セイルを無事に海へと帰そう。そう思いながら自分の家族に会いたい、家に帰りたいと言う想いを原動力に変えて突き進み、そして過程はどうあれ人間を殺しそうになり、このまま人間としての心を失ってしまうのではないかと恐怖しているトウカは、セイルの行為によって、それを表には出すまいと張っていた壁が崩れ去るのを感じ取った。

「……ぅ、うぁぁああああああああああああああああああああ!」

 トウカは次第に顔を歪め、口を横一文字に閉じて漏らさまいとするも、それは叶わずに、泣きじゃくる。

「僕、僕はっ!」

 大粒の涙を水中に溶かしながら、トウカは胸の内に溜まってしまっていたものを一気に吐き出す。

「セイルさんを、無事に家に帰そうと、ここの出口を捜しましたっ! セイルさんを無事に帰そうとしたのは、理不尽な目に遭ったからと言うのと、僕と、同じような思いをして欲しくなかったからです! 僕は、家に帰れません! 家族に会う事も出来ません! 帰れなくなったのは、僕がゴーストになったからです! 僕は、元々人でした! ですから、ゴーストとなった僕が家に帰れば、家族は怖がり、僕を殺そうとします! 家族に会えない、こんな悲しい思いを、焦がれる思いを、セイルさんにも味あわせたくなかったんです! だから、出口を捜しました! そして、出口を見付けました! でも、僕は外へ出ようとしたら、縫いとめられたかのように動く事が出来ませんでした! これで、完全に家に帰る事が出来なくなりました! 家を一目だけでも見ようと言う気持ちすらも、打ち砕かれました! だから余計に、セイルさんを早く家に帰さなきゃって思いました! 出口付近で、セイルさんを襲った人にも会いました! その人は僕を切り付け、地図を手にするとセイルさんを捕まえて虐めるのが趣味な人に売ろうと奥へと行きそうになりました! 僕は、それを阻止する為に、感情を失くしてその人をフライパンで叩きました! その人の顔が恐怖に彩られても、フライパンを振るおうとしました! それが怖かった! 人を殺そうとした自分が怖くなりました! 心が、人でなくなりそうで怖かったんです!」

 泣きじゃくるトウカの言葉に、セイルは信じがたい事実があった事をきちんと耳に入れている。

 トウカは、人間であった。あの、自分を襲った恐ろしい種族であったと、彼は口にしたのだ。

「……トウカ様」

 セイルはトウカの後頭部を優しく撫でる。

「私なんかよりも、ずっとずっと辛い思いを、悲しい思いを、怖い思いを胸に抱えていたのですね」

 トウカが人間であったと知っても、セイルは彼を恐怖の対象として見なかった。

 例えトウカが人間であったとしても、トウカはトウカだ。

 いくら恐ろしい人間だったとしても、トウカが怪我をした自分を助けてくれた事、裏表なく自分の為にしてくれた事、胸の内に抱え込んでいた辛い思い、悲しい思いを表に出さないようにしていた事、それをセイルは知っている。

 トウカを元人間として見るのではなく、トウカ個人として見ている。

 今はゴーストでも、前は人間でも関係ないのだ。

 セイルにとって、トウカがトウカである事が大事なのだから。

 そんな彼だからこそ、迷惑を掛けたくないと思い、負担を減らしたい、役に立ちたいとも思えたし、そして何より、一緒にいたいと思うようになったのだ。

「安心して下さい。トウカ様がこれ以上辛くならないよう、悲しまないよう、怖くないように、私が、何時までも一緒にいます。ですから、もう、無理をなさらないで下さい。私が、いますから」

 セイルの優しい声音に、トウカより一層声を張り上げて泣いた。


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