幕間 猫熊、獲物を狩ろうとする。
少々殺伐としてしまいました。
トウカとセイルがいる場所と正反対の方向にあるダンジョンの道。
そこではネコグマが徘徊している。
体長二メートル、熊よりも長い尻尾が特徴で、個体ごとに体毛の色、模様が異なる。骨格としては熊と猫を足して二で割ったような形をしており、猫の俊敏性、熊の攻撃性を程よく兼ね備えている。
猫のようでいて見方によっては熊にも見える顔はある種愛嬌を誘う風貌となっているが、決して愛玩動物とはならない凶暴性がぎらりと光る双眸に収められている。
ネコグマは、実質ここを含む複数のダンジョン地下一階から五階にかけての覇者として君臨している。基本的にネコグマと他のダンジョンモンスターが戦闘になった場合でも、ネコグマは頑丈な体毛によって傷一つ負う事も無く相手を蹂躙する。
ダンジョンへと潜り込んだ初心者がもっとも出くわしたくないモンスター堂々の一位でもあるネコグマは強者故に個体数が少なく、遭遇する事があまりないのが幸いとなっている。
このダンジョンの地下一階に生息しているネコグマの個体数は二匹であり、うち一匹であるこのネコグマは黒、茶、白の三毛の体毛に覆われている。
ネコグマは腹を空かせていた。いくら覇者と言えども空腹には耐えられない。好物はフリットサーディンであるが、熊のモンスター故に雑食性で、基本的に食べられるものならば何でも食べる。
餌を求めて重量二百キログラムを優にを超える体躯を維持する四肢で地面を踏み締め、重厚な、それでいて身軽な足音を天井と壁に反響させる。
空気の流れに乗ってくる臭いを嗅ぎ、近くに獲物がいる事が分かると、ネコグマは歩行を早めて、臭いのする方向へと進む。
決して焦らず、決して慌てず。
足音を消し、気配も消し、呼吸音も最小限にする。
ダンジョンモンスターは逃げる事はないが例外も存在しているので、出会い頭に逃亡されると言う事もある。ネコグマはそれを学習しており、出来うるならば逃げられないようにとぎりぎりまで気付かれないようにと細心の注意を払う。
ネコグマはれっきとしたハンターだ。ダンジョン外では主に山に生息している。そこでただ獲物を追うだけではなく、時には巧妙に隠れながら獲物を待ち、時には木の実等で獲物を誘い、時には獲物を崖へと追い詰めて落下させて仕留める。
知恵があり、力があり、素早さがある。
この三つが備わっているネコグマはダンジョン外でも驚異の対象として恐れられている。
無音の歩行をしていると、ネコグマは開けた空間へと出る。
その先には道が一本しか続いておらず、片隅には宝箱が置かれている。
ネコグマは宝箱のある方へと視線を向ける。
当然ながらネコグマは宝箱の中身なぞには毛頭興味も無い。あるのはその宝箱の近くにいる獲物だけだ。
獲物はネコグマに気付いている素振りも見せず、ただ宝箱の向こうにそびえている壁を凝視しているだけだ。
これは好機とネコグマはそのまま忍び足で獲物へと近付く。
一歩、また一歩と距離を縮め、残りが四メートルとなると獲物は奥へと続く道へと進もうと体を九十度右に向ける。そこで、ネコグマの存在に気付く。
獲物に気付かれたネコグマの行動は正に眼にも止まらぬものだった。
残り四メートルと言う距離を、一瞬の内、たったの一跳びでゼロにし、獲物を両前足で押し倒し、地面に縫い付けたのだ。猫の持つ機動性がこれを可能にした。
獲物はじたばた暴れる様子も見せずに、じっと自分を見下ろしてくるネコグマの目を見る。ネコグマの眼はただただ獲物へと向けられ、その瞳からは空腹を満たす事だけしか考えていない事が窺える。
ネコグマは両前足に体重を乗せ、獲物確実に逃げられないように固定する。獲物からばぎごぎゃと言う骨が粉砕される音が聞こえてくるが、ネコグマも、そして現在進行形で骨が砕かれている獲物も気にする素振りを全く見せていない。
ネコグマは口を大きく開き、牙を立たせて獲物の首筋に噛み付き、血を流させ、気道に孔を開け、頸椎を損傷させて息の根を止めようとする。
今まさにネコグマの牙が獲物の首に当たり、皮膚を貫かれそうになる。
しかし、獲物の皮膚は貫かれなかった。
ネコグマ自身が噛みつく事をやめたからだ。
どうして空腹であるネコグマは獲物御息の根を止める行為を中止したのか?
それはバランスを崩し、顔面を地面に打ち付けてしまったからだ。
ネコグマは自分がバランスを崩してしまった事に対して疑問に思い、次の瞬間には右前足に痛みが走る。
ネコグマはそれとなく視線を右前脚に向けると、手首から先が存在していなかった。傷口はまるで無理矢理に引き千切ったかのようで筋繊維、血管、神経がずたずたとなっており、血が滴り落ちている。
次に、左前足にも同じような痛みが走った。こちらは手首から先ではなく、肘から先である。つまり、肘から先を無理矢理引き千切られたのだ。
覇者であるネコグマ。その体毛は他を寄せ付けない程に強固であるが、体を引っ張られる事に関しては防御力を見い出せていない。
しかし、いくら体毛の防御をすり抜ける方法であったとしても、ネコグマの筋肉はしなやかさと頑強さを兼ね備えているので、生半可な力では引き千切る事なぞ不可能なのだ。
ぐちゃっ。
開けた空間に生々しい音が響く。
ネコグマは音のする方へと首を向ける。
そこには先程までネコグマが骨を砕き、地面に縫い付けていた獲物が平然と立っている姿があった。
また、その獲物の周りにはネコグマの右手と左前腕部が転がり落ちており、何かを咀嚼しているらしく口を上下に動かしている。
獲物の口が上下に動く度に、そこから生々しい音が聞こえる。
獲物は引き千切ったネコグマの腕の肉を食らっているのだ。
ダンジョン上層部の覇者であるネコグマの肉を、だ。
その光景に、ネコグマは戦慄を覚え、手首から先の無い右腕と前腕部が消失した左腕の傷口を地面に当てるようにして体を起こし、熊と同じように二足歩行となって獲物に向かって吠え、威嚇する。
覇者に相応しい雄叫びであるが、ネコグマの耳は下に下がってしまっている。つまり、自分を下位に見立ててしまっているのだ。
力では勝てない。そして、気付かぬうちに両腕をやられたので素早さでも勝てない。
ネコグマは一瞬でそれを悟ってしまい、出来る事は威嚇しかなかった。
逃げる事は最初から考えに入っていない。それはダンジョンモンスターであると言うのもあるが、それ以前に覇者としてのプライドが逃げる事を許さなかったのだ。
ダンジョン自体を震わせるような大音声を間近で鼓膜に響いているであろう獲物は、動じる事も無く一歩、また一歩とネコグマへと近付いて行く。
ネコグマはそれに硬直してしまったが、次の瞬間には後ろ足を曲げ、軽く前傾姿勢を取り、前足が使えない分長い尻尾でバランスを保ち、獲物へと跳び掛かった。
事は一瞬で終わってしまった。
ネコグマの体はどさりと音を立てながら地面に倒れ落ちる。
その身体には、首から上が存在していなかった。その傷口もまた、無理矢理引き千切られたかのようにずたずたである。
失われたネコグマの頭部は何処にあるのか?
それは、胴体の直ぐ近くに落ちている。生の輝きが失せた濁った瞳はただただ、目の前にいる咀嚼を繰り広げている獲物へと向かれている。
獲物――いや、獲物であった何かは地面に横たわるこのダンジョン地下一階の覇者であったネコグマに興味が失せたのか、踵を返してダンジョンの奥へと向かっていく。
残されたネコグマの死骸は数十分後、自身よりも弱いダンジョンモンスターであり、好物であったフリットサーディンの群れにに左前腕部分を食い尽くされる。
その後に、雑食であるホーンラビットに右手を何処かへと持って行かれ、そこで時間を掛けて食される。
開けた空間に蔓延する濃い血の臭いに惹かれてシェードバットが数匹やってきて、胴体に牙を立てて血を全て吸い尽くす。
他にティアーキャタピラーがネコグマの頭部に埋まっている眼球と脳髄を吸い出して自らの栄養とする。
ヒトリギツネが五匹、入れ違いにやって来ては胴体の肉を食い漁っていく。うち一匹は頭部にある肉をがりがりと貪る。
そして、このダンジョンにもう一匹存在する別のネコグマも出現し、死した同胞の亡骸に食らい付き、骨までも胃に収めてしまう。
三毛のネコグマの死骸が横たわっていた場所には、散り散りになった体毛と血液、そして骨の欠片しか残されていない。
もし、三毛のネコグマがあれを獲物としなければ、今も覇者として地下一階に君臨出来ていた事だろう。
全ては運が悪かった。
全ては間が悪かった。
ネコグマ自体は何も悪くない。
悪いのは、あれを生み出してしまったダンジョンそのものだ。