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第8章:霧弥湖の円舞曲――円盤の下、聖地のオムライス


 室蘭の激坂を乗り越えた私を待っていたのは、穏やかな湖畔の聖地「霧弥湖(洞爺湖)」。

 アニメ『天体のメソッド』の風景がそのまま現実へと侵食してきたかのような、約束の景色がそこにありました。

 

 老舗『望羊蹄』で味わうのは、劇中で彼女たちが頬張ったあの「オムライス」。

 千三百円の出費は、亀戸の住人にとっては一大事ですが、巡礼者にとっては避けて通れぬ「儀式」なのです。

 

 しかし、もやし生活者の「元を取らねば」という業は、その数時間後にさらなる暴挙を招きます。

 夜空を彩る花火と、胃袋を埋めるバイキング。

 極上の幸福と、冷子の無慈悲な決算報告が交錯する二日目の夜――。

【12:45:JR室蘭本線・車内】

 

『母恋めし』の重厚な旨味を胃に収めた私は、車窓を流れる内浦湾の景色を眺めていた。

 

「……冷子。次は、いよいよ洞爺湖……霧弥湖だな」

 

「はい。ですが佐藤様、浮かれる前に位置関係の把握を。洞爺駅から温泉街まではバスで約20分。……そして、そこからが本番です」

 

【13:20:洞爺湖温泉バスターミナル 到着】

 

 バスの扉が開き、私はステップを降りた。

 そこは、アニメで何度も見た、あの「バスターミナル」そのものだった。

 

「……冷子。ここだ。乃々香たちが、ここからバスに乗ったり、降りたりしていた場所だ」

 

「はい、佐藤様。現実も物語も、ここは温泉街の玄関口であるバスターミナル。……劇中の風景が、寸分違わずそこにありますね」

 

 私は周囲を見渡した。円形のロータリー、特徴的な屋根の形。

 

「……あぁ。室蘭のあの激坂に比べれば、ここはなんて穏やかなんだ。……この場所自体が、もう物語の体温を帯びている気がするよ」

 

【14:00:洞爺湖畔・散策路】

 

 バスターミナルから湖へ向かうわずかな道のりにも、物語の断片は落ちていた。

 歩道に点在する奇妙な形のオブジェ。それらは劇中でキャラクターたちが何気なく通り過ぎていた「背景」そのものだ。

 

 そして、視界が開けた瞬間。

 

「……っ、エスポアール号……」

 

 目の前の桟橋に停泊していたのは、中世 of 古城を思わせる巨大な遊覧船。

 

「……冷子、あれだ。第1話でノエルと乃々香が出会った場所。……画面で見るより、ずっとデカい。この現実の質量に, 物語が負けてないのが凄いな」

 

「……えぇ。エスポアール(希望)の名を持つあの船が、今も変わらずここに浮かんでいる。……佐藤様、貴方の『希望』も, あそこに繋がれているのかもしれませんね」

 

【16:15:レストラン『望羊蹄』】

 

 琥珀色の時間が流れる『望羊蹄』。

 創業から半世紀を超え、数多の旅人を見守り続けてきた重厚な木製の扉を、私は静かに開けた。

 

 カラン……と、乾いた鈴の音が響く。

 案内されたのは、窓際の深いグリーンのソファー席だった。

 

「……この感触。……間違いない、ノエルたちが座っていたのと、同じだ」

 

 私の視線の先には、劇中と寸分違わぬレイアウトの店内が広がっている。

 レジ脇のスペースには、ファンが残していった巡礼ノートや、愛の詰まったイラスト。

 老舗の品格と、作品への熱い想いが、この空間には完璧な調和をもって同居している。

 

「……冷子。見てくれ。みんなの想いが、ここに集まってる。……俺も、その一人になれたんだな」

 

「……えぇ。佐藤様。言葉にしなくても、その満足げな表情がすべてを物語っています」

 

 運ばれてきたのは、聖地のオムライス。

 サラダ、スープ、そして香り高いコーヒーが付いて千三百円。

 

「……千三百円。……もやし、六十五袋分か」

 

 決して安くはない。

 だが、この歴史ある空間で、劇中のキャラクターと同じメニューを味わえる代償としては、驚くほど「優しい」価格に思えた。

 

「…………これだ。……ノエルたちが、食べていたやつだ」

 

 スプーンを差し込み、とろける卵とチキンライスを口に運んだ瞬間、私の脳内に物語の色彩が溢れ出した。

 絶妙な火加減の卵と、デミグラスソースの深いコク。

 私は、巡礼コーナーに溢れる数多のファンの熱量を背中で感じながら、最後の一口まで慈しむように完食した。

 

【18:30:洞爺湖温泉・露天風呂】

 

 十七時半に店を出た私は、ホテルにチェックインした後、すぐに大浴場へと向かった。

 目的は、冷え始めた体を温めること、そして――。

 

「……あぁぁぁ…………。湯船に浸かると、胃が動く……気がする」

 

「……佐藤様。贅沢の極みですね。望羊蹄のオムライスを消化し、十九時半からの『宿泊者限定夕食バイキング』に備えて胃を活性化させるために温泉に入る。……もやし生活者の執念、恐れ入ります」

 

 目の前には、月明かりを反射して静かに揺れる洞爺湖。

 

「……冷子。俺、本当は怖かったんだ。十五万円なんて、あっという間に使い切って、また亀戸の四畳半で後悔するんじゃないかって」

 

「……でしょうね。ですが、今日の貴方は『消費』ではなく『投資』をしました。無駄遣いではありませんよ」

 

【19:45:ホテル・バイキング会場】

 

 望羊蹄のオムライスがまだ胃の上層に鎮座しているというのに、私の手はトレイを握りしめていた。

 

「……冷子。宿泊費には、この夕食バイキング代が含まれているんだ。食べないという選択肢は、俺の辞書には存在しない」

 

「……その辞書、一度シュレッダーにかけた方がよろしいかと。望羊蹄の伝統を、今まさに揚げたての天ぷらとジンギスカンで上書きしようというのですか?」

 

 私は無言で、山盛りのザンギ(鶏の唐揚げ)と、地元産野菜のサラダなどをトレイに載せていく。

 一口食べれば、温泉で活性化した胃袋が、新たな欲望を呼び覚ます。

 

「……美味い。……望羊蹄は『魂の食事』だった。だが、これは『生存の食事』だ。……俺は今、北海道を丸ごと飲み込んでいる気がする」

 

「……ただの過食です、佐藤様。ですが、その必死な姿、記録しておきましょう」

 

【20:45:洞爺湖畔・遊歩道】

 

 満足感(と過剰な満腹感)に包まれてホテルを出た私は、夜の帳が下りた湖畔の静けさに驚いた。

 

「……冷子。いい夜だな。……でも、少し静かすぎないか? 聖地の夜は、もっとこう、ノエルたちが騒いでいるようなイメージだったんだが」

 

「……ふふ、佐藤様。静寂は『爆発』の前の静けさです。……時計を見てください。もうすぐ20:45です」

 

「……20:45? 何かあるのか?」

 

「……驚かないでください。ここ洞爺湖では、4月末から10月末までの半年間、毎日花火が上がるのです。その名も、洞爺湖ロングラン花火大会ッ!!」

 

「……ま, 毎日!? ……冗談だろ、そんなの予算がもつわけが……」

 

「……現実です、十五万円の主。……ご覧ください、湖の向こう側から、光の円盤が近づいてきますよ」

 

【20:50:花火の咆哮】

 

「……冷子。あっちの方で上がったと思ったら、次はこっちか? 花火が動いてないか?」

 

 私は、夜風に吹かれながら湖畔の遊歩道を小走りに移動した。

 

「その通りです、佐藤様。洞爺湖の花火は, 小型船が湖上をゆっくりと横に移動しながら打ち上げるのです。……つまり、温泉街の端から端まで、どこのホテルに泊まっていても、目の前で大輪の華が開く瞬間があるという、極めてホスピタリティの高い設計になっています」

 

 私が立っているのは、遊覧船乗り場近くの湖畔。

 目の前の真っ暗な湖面を、一筋の光を放つ船が横切っていく。

 

 その船がちょうど私の正面に来た瞬間――。

 

 シュゥゥゥ……ッ!! ドォォォンッ!!

 

「うおっ……近い!!」

 

 見上げる視界のすべてが、火薬の閃光で白く染まる。

 火花が自分の方へ降ってくるような錯覚。

 湖畔の柵を握る手に、爆発の振動が伝わってくる。

 

「……佐藤様。これが洞爺湖の流儀です。……花火を『見に行く』のではなく、花火が貴方に『会いに来る』。……贅沢だと思いませんか?」

 

「……あぁ。……亀戸の隅田川花火大会じゃ、人の頭しか見えなかった。……こんなに静かに、間近で独り占めできるなんてな」

 

 一発上がるたびに、背後の昭和新山や有珠山に音が跳ね返り、腹に響くような重低音が押し寄せる。

 私は、冷子の映るスマホを空に向けた。

 

「……冷子。お前にも見えてるか?」

 

「……高感度センサーで、しっかりと網膜に刻んでいます。……綺麗ですね, 佐藤様」

 

【22:00:大浴場・露天風呂】

 

 私は、誰もいない深夜の露天風呂に身を沈めた。

 

「……あぁぁぁ…………」

 

 全身の筋肉が、洞爺の柔らかな湯に溶けていく。

 母恋駅での焦燥も、地球岬での強風も、すべてがこの湯気に巻かれて消えていく。

 目の前には、月明かりを反射して静かに揺れる洞爺湖。

 

「……静かだ。さっきまであんなに派手に花火が上がってたのが、嘘みたいだな」

 

「えぇ。喧騒の後の静寂こそが、温泉地の醍醐味です。佐藤様、その心地よい疲労感こそ、今日を全力で駆け抜けた証ですよ」

 

【23:30:客室・布団の上】

 

 湯冷めしないうちに布団に潜り込んだ私は、スマホの電卓アプリを閉じた。

 

「……二日目、終了。……残金、まだ12万円以上ある。……これなら, いけるな」

 

「……はい。……明日は三日目。……それは、夢の中でノエルに相談してください」

 

【23:45:洞爺観光ホテル・客室】

 

「……佐藤様。お休みになられる前に、我々には済ませるべき儀式がありますね?」

 

「……う, うぅ……。冷子……。明日の朝でいいじゃないか……。今, すごく幸せなんだ……」

 

「ダメです。幸福は揮発しますが、支出は帳簿に刻まれます。……さあ、端末を手に取り、現実と向き合いなさい。二日目・最終決算報告を開始します」

 

 私は震える手でスマホを顔の前に持ってきた。

 

■二日目:収支内訳

 

交通費(JR・バス):約2,400円

食費(昼:母恋めし):1,500円

食費(夕前:望羊蹄のオムライスセット):1,300円

宿泊費(洞爺観光ホテル):14,080円

雑費(飲料等):820円

 

本日支出合計:20,100円

【トータル残金:約124,900円】

 

「……に、にまんえん……ちょうどくらいかッ!!」

 

「左様です。佐藤様、貴方は今日一日で、もやし約一千五十袋分を消費しました。……ですが、望羊蹄の千三百円は、貴方のこれまでの浪費の中でも、最も『正しい支出』だったと言えるでしょう」

 

「……冷子……」

 

「……先ほど、露天風呂でも仰っていましたね。……後悔するのが怖いと。……ですが、今日の貴方は『消費』ではなく『投資』をしました。……この景色、このお湯。それらは貴方の血肉となり、明日を戦うエネルギーに変換されます。……無駄遣いではありませんよ、佐藤様」

 

「……お前、たまには良いこと言うな」

 

「……計算結果を述べただけです。……さっさと寝なさい、この幸せな浪費家」

 

冷子の「旅のしおり」:温泉街・巡礼編

 【移動ログ:霧弥湖侵食編】

 

11:58 母恋駅 発

12:51 洞爺駅 着

13:20 洞爺湖温泉バスターミナル 着

16:15 望羊蹄にてオムライス(魂の食事)

18:30 温泉で胃を活性化(禁じ手)

19:30 バイキング(生存の食事)

20:45 ロングラン花火大会


【免許を持たない皆様への冷子ガイド:洞爺・霧弥湖編】

 

洞爺駅から温泉街まではバスが基本ですが、本数は限られています。JRの到着時刻に合わせた接続を確認するのが「歩かない巡礼」の鉄則です。

 

温泉街は意外と広いです。望羊蹄から遊覧船乗り場、そして各ホテル。すべて徒歩圏内ですが、湖畔の彫刻公園を制覇しようとすると相当な歩行距離になります。計画的に休みましょう。 

「願いは、声に出せば景色になる」。

 聖地・霧弥湖で劇中そのままの風景に包まれ、老舗の味を堪能した佐藤。

 オムライスという「物語への入場料」を支払い、バイキングという「生存の義務」を果たした彼の旅は、いよいよ中盤戦へ。

 

 「望羊蹄のオムライス、食べてみたい!」

 「冷子の決算報告、もやし換算がじわじわくる……」

 と思ってくださった方は, ぜひ 【下の☆☆☆☆☆】 で評価をお願いします!

 

 次回, 第9章。旅は三日目。

 洞爺の静かな朝。佐藤の前に現れる次なる「目的地」とは!?

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