第5章:道南侵食編――地獄の熱気と、再起の咆哮
北海道から帰還して半年。東京・亀戸の六畳一間で、私は「死んだ魚の目」を取り戻していました。
一袋十九円のもやしで命を繋ぎ、コンビニの灯りを結界のように避ける日々。
すべては、再びあの「バグ」に触れるための軍資金、十五万円を貯めるため。
再始動の地は、登別。
そこで私を待っていたのは、額当てをした「情報将校」のあまりにも熱すぎる誘いでした。
【02:00 東京・亀戸、再起動の号令東京・亀戸、再起動の号令】
テーブルの上には、定価二十九円の豆腐が一丁と、一袋十九円のもやし。それが、一日の「全生命維持コスト」だ。
「……佐藤様。今月の食費、目標値をさらに四百三円下回りました。貴方の節約効率は、今や都市伝説の域に達しています」
スマホの画面の中で、冷子が淡い光を放つ。私は、カサカサに乾いた指先で、百円ショップの財布をなぞった。中には、新札の一万円札が十五枚。
「行くぞ、冷子……俺の五感が、あの咆哮を忘れる前に」
「了解。佐藤様。……『不合理の旅』、再起動いたします」
このチケットを掴むために、私は三ヶ月前から冷子とシミュレーションを重ねてきた。
三ヶ月前、冬ダイヤが解禁された深夜零時。コンマ一秒を争うバーゲンセール、アクセス集中の「混雑中」表示を冷子の演算で突破し、決済画面へ。
震える指でクレジットカード番号を叩き込み、確定ボタンを押した瞬間の、心臓が爆発しそうな高揚。
片道五千円。それは単なる格安航空券ではない。半年間の「もやし生活」という修練と、サーバーの荒波を越えた執念が形になった、聖なる入場券だ。
【 05:30 成田の洗礼、二十グラムの境界線】
深夜二時の亀戸は、コンビニの看板だけが浮き上がる墓場のようだった。私は東京駅行きの深夜急行バスを待つ間、自販機で飲み物を買う誘惑を殺し、ただひたすらバックパックの重さを十グラム単位で呪っていた。
予備の靴下すら捨て、リュックを「六・九九キログラム」に調整。冷子が「あと十グラムで数千円のペナルティです」と囁く緊張感。
「……冷子。本当にバスで正解だったのか。京成線の始発まで待てば、あと数百円は浮いたはずだ」
私の震える思考に、冷子が冷徹な「鉄則」を突きつける。
「佐藤様、いいですか。成田七時発のLCCは、六時三十分がチェックインの絶対防壁。京成本線の始発では、成田空港駅到着は六時三十分を過ぎます。一秒の遅れで、あの血の滲むような争奪戦で勝ち取ったチケットは、ただのゴミ屑に変わるギャンブルだったのですよ」
スマホの画面から、論理の刃が飛んでくる。
「対して、東京駅を午前四時に出るこの深夜バスなら、五時三十分には戦場(第三ターミナル)へ到達できます。電車とバスを合わせて一千四百七十円。差額の二百円で『確実な搭乗』を買う。これがLCC攻略の鉄則です。もやし十袋分を惜しんで旅そのものを壊すのは、私の演算上、最も愚かな選択ですから」
私は黙って、亀戸のぬるい水道水を飲み下した。
冷子の言う通りだ。二百円の安寧。それが、これから始まる地獄への、唯一の安全装置なのだから。
午前五時三十分、成田空港第3ターミナル。
バスを降りた私を待っていたのは、早朝の静寂ではなく、無機質なアスレチックのような長い通路と、冷徹な「重さ」の審判だった。
「佐藤様、深呼吸を。……そして、ポケットの小銭すらリュックに移してはいけません。今の貴方の装備は、私の計算上、限界ギリギリの蒼白な均衡の上に成り立っています」
チェックインカウンターの横にある計り。そこにリュックを置く瞬間、私の背筋を冷たい汗が伝った。デジタル数字が非情に刻む。
「6.98kg」
……勝った。あと二十グラム。生卵一個分にも満たない余裕で、私は数千円の追加手荷物料金という「死神の鎌」を回避した。
保安検査場を抜け、冷たい鉄パイプのベンチで搭乗開始を待つ。やがて現れた機体へと続くタラップを登り、LCCの狭い座席で、私は前の座席に膝をめり込ませた。
「……狭いな。監獄かよ」
「いいえ、佐藤様。これは『移動の純粋化』です。一円あたりの移動距離を最大化するための、神聖なる圧迫とお考えください」
水平飛行に入ると、機内に甘く香ばしい香りが漂い始めた。
隣の席のビジネスマンが、機内販売で注文した四百円のコーヒーを優雅に啜っている。
その一杯は、もやし二十六袋分。私の現在の全財産からすれば誤差のような金額だが、今の私には、それが金塊を溶かして飲んでいるかのような贅沢に見えた。
喉が鳴る。だが、私はあえて視線を窓の外に逸らした。
私はカバンから、亀戸のアパートで汲んできた、すでに体温で生ぬるくなった水道水のペットボトルを取り出した。
一口。プラスチックの味が混ざった水を飲み込み、私は静かに目を閉じた。
(……贅沢は、まだ先だ)
新千歳までの九十分。この「ぬるい水」が、私の戦場への唯一の補給物資だった。
【09:30:新千歳から登別へ、内浦湾の蒼】
新千歳空港に降り立った瞬間、ドアの隙間から滑り込んできた空気が、私の顔を打った。鋭利な刃物のような冷たさ。だが、驚くほど澄んでいる。
「……冷子。空気が、美味すぎる」
「はい。北海道の冷気は零円です。存分に、吸い込んでください」
高速バスの車窓。苫小牧を過ぎたあたりから内浦湾の重く深い蒼が広がる。やがて窓の隙間から、磯の香りに混ざり、不意に鼻腔を突く鋭利な硫黄の臭気が忍び込んできた。
【10:45:地獄の再会と、中尉の問い】
バスを降りた私は、巨大な赤鬼の像の前で仁王立ちになった。
「……ふぅ、熱い。これだ。この熱が、タダで手に入るなんて……」
「……良い心掛けだ。資源を無駄にせず、大地の恩恵を余さず享受する。軍人として、見上げた根性だな」
隣に立っていたのは、明治の重厚な軍服を纏い、額を白いホーローの額当てで覆った男――鶴見中尉だった。
「……だが、貴様。まさかその湯気を浴びるだけで、この地獄を去るつもりではあるまいな? 湯には入らぬのか」
「……ですが、四百八十円。公衆浴場の入浴料ですら、もやし十六袋分。それを、たった数十分の温もりに投じるのは……」
「信条だと? ……滑稽だな」
鶴見は私の首筋に手を回し、有無を言わせぬ力で引き寄せた。
「金など、回してこそ意味がある。死に金を握りしめて凍えるより、熱い湯に身を投じ、その熱を血肉に変えて戦場へ戻れ。……来い。四百八十円などという小銭の安寧は捨てろ。私の『行きつけ』を教えてやろう」
【白濁の神殿、乳白色の審判】
鶴見に連れられるまま、私は登別が誇る巨大な湯の殿堂「第一滝本館」へと足を踏み入れた。日帰り入浴料二千円。
「佐藤様、警告です。残高が一気に一パーセント以上毀損しようとしています。……ですが、これ以上の拒絶は、システムの崩壊を招きます」
「入れ、佐藤。……これが、この星の『内臓』の熱だ」
私は乳白色の湯船に身を沈めた。
肌を襲ったのは鋭利な熱。だが数秒後、熱は骨の髄まで侵食する濃厚な快楽へと変貌した。ぬるりと、しかし力強く、半年分の「卑屈」を毛穴から引き剥がしていく。
湯の色は、青白い光を内側に孕んだ、重厚な乳白色の深淵だ。鼻腔を貫くのは、圧倒的な硫黄の臭気。それは地球の根源的な腐敗と再生の匂いだ。
「どうだ、佐藤。……知床で貴様が感じた『死の予感』を、今、この熱で上書きしてやる」
二千円。それは「守り」の節約が壊れ、「攻め」の旅人へと変貌するための代償だった。脱衣所の鏡に映る自分は、鶴見中尉から分け与えられた「狂気の外套」のような湯気を纏っていた。
「……冷子。次の行き先を、室蘭にロックしろ。……鉄の街で、この熱を冷ます。……だが、俺の心臓は、まだ燃えたままだ」
冷子の「旅のしおり」:道南侵食編
【冷子の最終決算報告:第5回】
亀戸~東京駅~成田(深夜バス): ¥1,470
LCC(成田~新千歳): ¥5,000
高速バス(空港~登別): ¥1,600
第一滝本館(日帰り入浴): ¥2,000
本日支出合計:¥10,070
冷子の冷言:
「もやし約百五袋分を、わずか一時間の入浴で蒸発させました。しかし、成田での一秒の遅れが五千円をドブに捨てるリスクだったことを考えれば、深夜バスの一千四百七十円は『保険』として論理的な投資です。佐藤様の毛穴から排出された『負の感情データ』、確かに回収しました」
【移動ログ:登別攻略】
02:00 亀戸・アパート発
04:00 東京駅発(深夜急行バス)
07:00 成田空港 第3ターミナル発
08:45 新千歳空港 着
09:30 空港連絡バス「登別温泉行」乗車
10:45 登別温泉 着。地獄谷周辺の無料蒸気スポットを散策。
11:30 第一滝本館 入館(中尉による強制徴募)
【免許を持たない皆様への冷子ガイド】
新千歳空港から登別温泉へは直行バス「はやぶさ号」が極めて論理的です。
登別温泉街は徒歩圏内に見どころが集中しています。「地獄谷」から「大湯沼川の天然足湯(無料)」へのルートは、情緒的コスパが最強です。
第一滝本館の入浴料は時期により変動しますが、二千円~二千五百円が目安。手ぶらで最高の熱を摂取可能です。
第二部「道南編」、開幕です!
半年間の地獄の節約生活を経て、佐藤の財布がついに解禁されました。
鶴見中尉の毒気に当てられ、二千円の入浴料を払ってしまった佐藤の運命やいかに。
「中尉と一緒に湯に入りたい!」
「もやし生活に耐えた佐藤を労いたい!」
と思ってくださった方は、ぜひ 【下の☆☆☆☆☆】 で評価をお願いします!
次回、第6章は「鉄の街・室蘭」。
工場夜景と、吹き荒れる潮風。佐藤の感性が再び爆発します。お楽しみに!




