第2章:神秘の湖編――断崖の咆哮と、摩周ブルーの誘惑
二日目、舞台は世界遺産・知床から、神秘のベールに包まれた摩周・阿寒へ。
しかし、旅の情緒を楽しむ私の前に、北海道の「物価」という名の巨大な壁が立ちはだかります。
一万円の遊覧船、五百円の温泉卵……。
亀戸のワンコイン牛丼で鍛えた私の金銭感覚が、知床の潮風に吹き飛ばされる絶叫の記録です。
【08:30:ウトロ港、二万円の決死圏】
二日目の朝、ウトロの港は、昨日までの穏やかな表情とは一変していた。
オホーツク海から吹き付ける風が、観光船の旗を激しくなびかせている。私はチケット売り場の窓口で、掲示された料金表を見上げたまま石のように固まっていた。
「佐藤様。緊急事態につき、論理的思考回路の再起動を推奨します。知床岬コース、大人一名、1万円。二名分で合計二万円。……聞こえていますか? 二万円です。これはあなたの月の小遣いの六割に相当します。論理的に考えて、ここで二名を送り出すことは、旅の後半における『飢餓状態』を確定させる自殺行為です」
「……わ、分かってるよ冷子。でも、ここまで来て岬を見ないなんて……。残業代三日分がこの三時間に消えると思うと、確かに胃が痛いが」
「冷静になってください。一人は『明治時代の狩人』、いわゆる実体の定まらないゲストキャラです。チケットを買う必要があるのかさえ不明な存在に、一万円を投じる。これは投資ではなく、ただの『お人好しの暴走』です。佐藤様、あなたは亀戸の狭い部屋で、何を糧に一ヶ月を過ごすつもりですか? もやしですか? 水ですか?」
冷子の無機質な声が、イヤホン越しに鼓膜を刺す。私は、横に立つアシㇼパの方を向き、おずおずと相談を持ちかけようとした。
「あ、あの……アシㇼパさん。実はちょっと、その、軍資金の協議が必要で……」
だが、そこにはもう、誰もいなかった。視線を桟橋の方へ向けると、紺色の刺繍衣装が潮風に軽やかになびき、彼女は既にタラップを軽快な足取りで駆け上がっていた。
「サトウ! 何をしている! 早く来い、潮の匂いが変わったぞ。沖にはもっと旨そうな獲物がいる気配がする!」
「佐藤様、おめでとうございます。協議の結果を待たずして、ゲストは乗船を完了しました。……佐藤様、今すぐ窓口へ。そして、血の涙を流しながらカードを提示してください。あなたの残高という名のカムイが、今、昇天しました」
「……冷子、もう何も言わないでくれ。一万円の予算オーバーくらい、帰ってからのもやし生活で取り戻してやるよ……」
【09:00:知床遊覧船:五感の咆哮】
船がウトロ港の防波堤を越えた瞬間、世界から「静寂」が消えた。
**「ゴォォォーッ」**と唸りを上げる重低音のエンジン音が、足の裏から内臓を直接揺さぶる。頬を打つのは、冷たく、強烈な潮の礫だ。霧状になった海水が肌にへばりつき、唇を舐めれば、尖った塩の味が舌を刺す。
ふと見上げれば、そこには数千年の歳月が削り出した「断崖の迷宮」がそびえ立っていた。赤茶けた溶岩の層と、黒く湿った泥岩の重なり。その複雑な地層の隙間から、「カムイワッカの滝」が激しく躍り出ている。数百度の熱を持って生まれた岩肌を、氷のように冷たい雪解け水が洗い流し、その飛沫が太陽光を乱反射させて虹の断片を空中に撒き散らしていた。
「サトウ! 鼻を動かせ。陸の匂いと、海の匂いがぶつかり合っているぞ!」
潮臭さの奥に、深い森が吐き出す「腐葉土の重い香り」と、野生の獣が持つ「生臭い獣脂の匂い」が混ざり合っている。
「佐藤様。ヒグマの親子を視認。一万円の元を取るために、瞬きを禁止することを強く推奨します」
「……言われなくても、一秒も逃さないよ」
知床を後にし、私たちはヴィッツをさらに南へと走らせた。景色は徐々に険しい岩肌から、深い森のグラデーションへと変わっていく。そして辿り着いた、摩周湖。
【14:00:摩周湖:五感の沈黙】
第一展望台の柵に手をかけた瞬間、私は自分の呼吸音が「うるさい」と感じた。それほどまでに、この場所には「音」がない。風さえも深い紺碧に吸い込まれたかのように、森のざわめきすら届かない完全な無音の世界。
視界を埋め尽くすのは、「摩周ブルー」という名の、透明な暴力だ。吸い込まれそうなほど深い紺。水面には一点のさざ波もなく、空の白雲だけが本物の雲よりも白く、輪郭が鮮明に縁取られて映り込んでいる。
「……空気が、痛いな」
アシㇼパが呟いた言葉が、私の心拍音と重なる。肺に吸い込む空気はナイフのように鋭く、鼻腔の奥をツンと冷やす。そこには生命の匂いがない。ただ清冽な、あまりにも純粋すぎる「水の気配」だけが支配している。
「佐藤様。現在の私のマイクが拾っている環境音は、マイナス10デシベル。あなたの耳元を流れる血液の音すら、ここではノイズになります」
「サトウ。ここには、カムイの他には誰もいない。私たちも、長くいてはいけない場所だ」
アシㇼパの一言で、私はようやく、止まっていた呼吸を大きく吐き出すことができた。
【15:30:硫黄山:大地の咆哮と死の彩り】
原生林の緑が、ある一点を境に、まるで剃刀で切り取られたように途絶えた。車を降りた瞬間、鼻腔を突いたのは暴力的なまでの「腐った卵の匂い」……濃密な硫黄の臭気だ。
足元を見れば、岩肌の至る所から、鮮やかな「レモンイエロー」の結晶が噴き出している。その噴気孔に耳を寄せれば、**「シュルルルッ!」「ボフッ!」**という、大地が地底から何かを絞り出すような不気味な鳴き声が、絶え間なく響いている。
「サトウ! 大地が怒っているのではない、これは生きている証拠だ。足元に気をつけろ、この煙に巻かれたら魂まで黄色く染まるぞ!」
アシㇼパが、警戒しながらも楽しげに、ゴツゴツとした岩場を跳ねるように進んでいく。
「佐藤様、注意してください。噴気孔付近の温度は摂氏百度を超えています。……あ、売店に『温泉卵』を発見。一袋五個入り五〇〇円……。先ほどの一万円の支出を考えれば、本来は我慢すべき点ですが……」
「冷子、これは伝統なんだよ。硫黄山に来て卵を食べないのは、江戸っ子が蕎麦をすすらないのと同じだ」
熱々の殻を剥くと、指先から硫黄の温もりが伝わってくる。白身はほんのり茶色く色づき、口に運べば、濃厚な黄身の甘みと、鼻に抜けるかすかな硫黄の香りが絶妙なハーモニーを奏でた。
「サトウ。大地が焼いた卵か……ヒンナだな!」
ハフハフと白い息を吐きながら、アシㇼパが幸せそうに目を細める。
【17:30:阿寒湖の夜、中間決算報告会】
阿寒湖の温泉街に夜の帳が下り、硫黄の香りが微かに漂う民宿の和室。
私は浴衣に着替え、座椅子に深く腰を下ろして、今日一日の絶景を反芻していた。
「佐藤様。今すぐスマホを鏡台の前に置き、その場に正座してください。これから本日の『第ニ回・緊急収支報告会』を執り行います」
私は反射的に畳の上で姿勢を正した。スマホの画面には、非情な数字が並ぶ。
【冷子の最終決算報告:第2回】
知床遊覧船(2名分):¥20,000(残業代3日分の喪失)
硫黄山・温泉卵:¥500
摩周湖駐車場:¥500
阿寒湖民宿(夕朝食付):¥11,000
ガソリン代:¥2,200
本日支出合計:¥34,200
「……うっ。分かってるよ冷子。予算は厳しいが、あの景色を見たら後悔はないんだ。一万円の価値は、あの知床岬の風の中に確かにあった」
一瞬の沈黙。スマホの画面の中で、冷子のアイコンが小さく明滅する。
「……そうですね、佐藤様。今のあなたの顔は、亀戸で死んだ魚のような目で残業していた時の三倍は、人間らしい血色が通っています。二万円の支出と引き換えに、停止していた感情回路が活性化したのであれば、AIとしても『必要経費』として受理せざるを得ませんね」
「……そうか。冷子に褒められると、なんだか調子が狂うな」
「褒めてはいません。単なる事実の観測です。……佐藤様、消灯してください。明日は阿寒の森を抜け、十勝の広大な平野へと移動します。あなたの財布は悲鳴を上げていますが、心の方は、まだ何かを求めているようですから」
私は電気を消し、布団に潜り込んだ。
窓の外では、阿寒の深い森が静かに呼吸している。明日は、いよいよこの神秘の世界から、人間たちの生活が広がる場所へ。
アシㇼパさんとの旅も、その終わりが近づいているような気がして、私は少しだけ切なくなった。
冷子の「旅のしおり」:神秘の湖編
【レンタカー・移動ログ】
09:00 ~ 12:00:知床遊覧船クルーズ(ウトロ港発着)
12:15 ウトロ港 発 ~ 14:00 摩周湖:国道334号~391号経由。
14:00 ~ 15:10 摩周湖(第一展望台):静寂の摂取。
15:10 摩周湖 発 ~ 15:30 硫黄山:極至近距離。
15:30 ~ 16:30 硫黄山(噴気孔):温泉卵の摂取。
16:30 硫黄山 発 ~ 17:30 阿寒湖温泉:国道241号(足寄国道)経由。
【免許を持たない皆様への冷子ガイド】
ウトロから阿寒湖、摩周湖周辺を回るなら、運行期間を確認の上「東北海道エクスプレスバス」が最適解です。
観光スポットを経由しながら移動できるため、効率的な「情緒的摂取」が可能です。
硫黄山の温泉卵は2024年現在、2個入り等で販売中。殻が非常に熱いため、剥く際の火傷に注意してください。
二日目にして早くも予算の防衛ラインが崩壊し始めました。
一万円をタラップの上から笑顔で手招きするアシㇼパさんに、断る術はありませんでした。
もし「二万円の価値はあった!」と思ってくださる方がいれば、ぜひ 【下の☆☆☆☆☆】 をクリックして佐藤の決断を肯定してやってください!
次回、第3章は「十勝移動編」。まさかのあの方がトラクターに乗って登場します!? お楽しみに!




