第1章:知床・アシㇼパ風少女編――「天に続く道」と、カムイの足跡
はじめまして。都内の築四十年アパートで、日々「もやし」を主食に生き延びている佐藤と申します。
この物語は、私が半年間の血の滲むような節約生活で貯めた「十五万円」を握りしめ、北海道へと旅立った記録です。
お供は、私のスマホに住まう毒舌旅行ガイドAI「冷子」。
そして、なぜか知床の展望台で出会った、どこからどう見ても某人気漫画のアシㇼパさんにしか見えないアイヌの少女(自称・アシㇼパ)。
予算が尽きるのが先か、私の心が北海道の絶景に焼き尽くされるのが先か。
「一円単位の絶叫」と「聖地への祈り」が交錯する旅路、どうぞお付き合いください。
【05:30:東京・亀戸、出発の号令】
東京・亀戸、午前五時三十分。
築四十年の木造アパートに、隙間風とスマホの無機質な声が響く。
「佐藤様、起床予定時刻から三分経過。羽田行きのバスを考慮すると、あと十二分以内に家を出るのが論理的です。なお、現在のあなたの心拍数は通常時より15%上昇しています。遠足前の小学生並みの興奮状態ですね」
私のスマホに住まう旅行ガイドAI、冷子の指摘は、いつだって正論で、連休初日の浮かれた気分を適度に冷やしてくれる。
半年間、飲み会を断り、昼飯をワンコインの牛丼で済ませ、ようやく掴み取った三泊四日の「知床・第一陣」。
【09:30:女満別空港、白いヴィッツで出発】
私は女満別空港で白いヴィッツを借り、まずは斜里町へと向かった。
空港を出て数十分。視界を遮っていた防風林が途切れた瞬間、目に飛び込んできたのは、見渡す限りの「ジャガイモの花の白」と「麦の黄金色」が織りなすパッチワークの丘だった。
道は定規で引いたように真っ直ぐで、対向車もまばら。フロントガラス越しに見える空は、東京のそれよりも一段階濃い、突き抜けるような「コバルトブルー」に染まっている。
「……空気が、軽いな。冷子、窓を開けてもいいか?」
「佐藤様、現在の車速は時速60キロ。窓を開放した場合、空気抵抗により燃費が0.8%悪化しますが……現在のあなたの情緒的充足を優先し、許可します。ただし、虫の飛び込みにはご注意を」
窓を全開にすると、乾いた土の匂いと、時折混じる潮の香りが一気に車内に流れ込んできた。
東京のコンクリートが放つ熱気とは違う、草木の呼吸そのものを吸い込んでいるような感覚。アクセルを踏む足が、少しだけ軽くなる。
【11:00:天に続く道、アシㇼパとの邂逅】
国道三三四号線から少し逸れ、斜里の丘を登りきった場所で、私は思わずブレーキを踏んだ。
そこには、物理法則を無視した一本道が横たわっていた。
一直線に伸びたアスファルトが、地平線の彼方、空の青と溶け合う一点に向かって、まるで天へと駆け上がる階段のように突き抜けている。あまりのスケール感に、遠近感が狂いそうだ。自分が運転しているヴィッツが、巨大なジオラマの中を走るミニカーのように思えてくる。
「佐藤様、前方の『名もなき展望台』に駐車スペースを確認。ここで一枚撮影しておくのが、いわゆる『インスタ映え』……いえ、自己満足には最適です。なお、展望台からはオホーツク海の水平線と、知床連山の峻険な嶺々が180度のパノラマで展開されます。佐藤様の乏しい語彙力を補って余りある絶景です」
「……冷子、最後の一言は余計だ。でも、確かにこれは……撮らなきゃ損だな」
車を止め、展望台の柵に手をかける。
目の前には、鏡のようなオホーツク海。そしてその右手には、まだ白い雪を頂いた羅臼岳が、王者のような風格で鎮座していた。海から吹き上げてくる風は、冷気を孕んでいて、シャツ越しに肌をピシャリと叩く。
ふと、背後に気配を感じた。
風が止まったわけではない。だが、まるで周囲の空気がそこだけ「静止」したような、奇妙な感覚。ゆっくりと振り返ると、私の白いヴィッツの後部座席に、**「それ」**は座っていた。
紺色の布地に、白く細やかなアイヌ文様の刺繍が施された衣装。頭にはエゾシカの毛皮で編まれた鉢巻き。そして、何より私の視線を釘付けにしたのは、その瞳だ。知床の冬の夜空をそのまま閉じ込めたような、深く、吸い込まれそうなほど澄んだ青い瞳。
彼女は、まるで最初からそこにいたかのように自然な動作で、窓の外を眺めていた。
「……あ、あの。……どちら様、でしょうか?」
情けないほど裏返った私の声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「――チタタㇷ゚か?」
「えっ? ……ちた、たぷ?」
その少女は、北の大地を舞台にした某金塊争奪戦漫画からそのまま抜け出してきたような格好で、私のヴィッツの後部座席に座っていた。
「……いや、すまん。お前があまりに『旨そうな顔』をしてこの道を眺めていたからな。思わず、獲物を解体する時の合言葉を口にしてしまった。私はアシㇼパだ。この『天へ続く道』を登れば、カムイの住む世界へ行けるのかと思って乗せてもらった。サトウ、と言ったか。お前、面白い鉄の馬に乗っているな。窓から入る風の匂いが、少しずつ山のものに変わっていくのがわかる」
「佐藤様。……解析不能です。彼女の外見的特徴は著作権の境界線を反復横跳びしていますが、実体としてそこに存在します。……今の佐藤様に必要なのは、論理的な整合性ではなく、ヒグマを避け、ヒンナを共に喜べる相棒ではありませんか?」
ふと見ると、展望台の脇にある小さな売店が目に入った。そこには『濃厚・知床の恵みソフト』の看板と、地元の『手作り木苺のジャム・クッキー』が並んでいる。後ろに座るアシㇼパの瞳は、オホーツクの海よりも深く、純粋な好奇心に満ちていた。
「サトウ。これは、なんだ? 太陽の匂いと、森の果実の匂いが混ざっているぞ。……ヒンナか?」
その真っ直ぐな視線に、私の理性が音を立てて崩れた。
「……すいませーん、これ一つ。あ、あとそのソフトクリームも!」
「佐藤様!! 非論理的な支出を確認! 感情に流されて予算の防衛ラインを突破するとは……。あなたの貯金残高が泣いていますよ」
「いいんだよ冷子! こんなに空が青くて、連れが美味そうな匂いだって言ってるんだ。ここで買わなきゃ、何のために亀戸で残業してきたのか分からなくなるだろ!」
手渡されたクッキーのバターの香ばしい匂い。アシㇼパが恐る恐る齧り、その瞬間、花が咲くような笑顔を見せた。
「…………ッ!! サトウ、これは……凄いな! サクサクとして、口の中でカムイの恵みが弾けるようだ。ヒンナだ、これは本当にヒンナだぞ!」
最新AIと明治の狩人が同乗する、贅沢なドライブが始まった。
【13:30:知床五湖、緑の解像度】
ウトロのセイコーマートで『ホットシェフ』の巨大なおにぎりを買い込み、私たちは知床五湖へと向かった。
レクチャー室で「ヒグマ遭遇時の対処法」を学ぶ。
「甘い! 甘すぎるぞサトウ!」
アシㇼパが小声で鋭く突っ込む。
「背中を見せれば追ってくるのは道理だ。そもそも、風上から自分の匂いを知らせて、自分たちがここを通るぞ、とカムイに道を譲ってもらうのが、この森の作法だ」
「アシㇼパ様、静粛に。佐藤様、彼女の助言は『上級者向け』です。あなたの現在の脚力では、転倒する確率が68%です」
重い扉が開き、「地上遊歩道」へ一歩踏み出した瞬間、空気が一気に重さを増した。アスファルトの熱気は完全に消え、濡れた土と、濃密な生命の匂いが立ち込める。
目に飛び込んできたのは、圧倒的な「緑の解像度」だ。
湿り気を帯びて黒光りするトドマツの樹皮、その深い裂け目にへばりつく鮮やかなエメラルド色の苔。足元を見れば、腐葉土の合間から顔を出すマイヅルソウの葉が、透過する日光を受けてライムグリーンに発光している。
ミズナラの巨木の枝が、複雑な幾何学模様を描いて空を切り取り、その隙間からこぼれる光が、空中に舞う細かな胞子や塵を黄金色に浮かび上がらせていた。
「サトウ、足元を見ろ。フキの葉が不自然に揺れている。風じゃない、何か小さな獣が通った跡だ。耳を澄ませろ。森が話しているぞ」
アシㇼパの声に足を止める。遠くで響くキツツキが幹を叩く乾いた「コン、コン」という音。足元の泥が靴底に吸い付く「むにゅり」とした感触。東京の喧騒では決して聞こえなかった、地球の鼓動のような音が、鼓膜を震わせる。
「佐藤様、右手のミズナラの幹を見てください。樹皮が剥げ、黒い泥が付着しています。……アシㇼパ様、これは?」
「……ヌタ場帰りだな。ついさっきまで、大きなキムンカムイ(ヒグマ)がここで背中を擦り付けていた証拠だ」
大人の太ももほどもある、巨大な泥の足跡。その生々しさに、背筋に冷たいものが走る。
「……冷子、やっぱり引き返そう! 安全な『高架木道』があるじゃないか!」
「佐藤様、冷静な判断を。アシㇼパ様が、すでにあなたの背中をグイグイと押しています。彼女は好奇心の塊です」
私は震える手でカメラを握り直し、黄金色の木漏れ日の中へと歩き出した。
ようやく辿り着いた「一湖」。
目の前に広がるのは、巨大な「紺碧の鏡」だ。
風が完全に死んでいる。湖面には一点のさざ波もなく、正面にそびえる知床連山が、上下寸分違わぬ精度で水面に写り込んでいる。水際のクマザサの鮮やかな黄緑色が、水面ではより深く、しっとりとしたエメラルドに沈み込んでいる。
「サトウ。ここはヌチカッパ(私たちの顔)を映す鏡だな。この静けさは、カムイが眠っている証拠だ」
沈黙の中、私はセコマで買っておいた『北海道クリーミーミルクチョコ』を差し出した。
「甘いですよ。……『ヒンナ』だといいんだけど」
アシㇼパが一片を口にした瞬間、彼女の瞳が、冬の夜空の星のようにカッと見開かれた。
「…………ッ!! ッヒ、ヒンナだ!! サトウ、脳が震えるような甘さだぞ! この鉄の馬の旅、お前に付いてきて正解だった!」
「佐藤様、補足します。アシㇼパ様の幸福度が上限に達しました。なお、このチョコ一切れを『ヒンナ』していただくために、あなたは展望台での駐車場代に続く『情緒的支出』を重ねています。論理的なトレードオフですね」
「冷子、そこまで計算しなくていいんだよ……」
西日に照らされた連山を背に、私たちはしばらくその「甘み」を噛み締めた。
【17:00:ウトロ温泉 民宿、冷徹な監査】
午後八時三十分。ウトロ温泉の民宿。
「ふぅ……極楽だ。やっぱり知床に来たら、この塩気のある温泉に入らないとな」
浴衣に着替え、畳にひっくり返った。隣の部屋では、さっきまではしゃいでいたアシㇼパが、既に泥のように眠っている。
「佐藤様、感動の余韻を遮って恐縮ですが、本日の収支報告会を執り行います。背筋を伸ばしてください」
冷子の声が、静かな部屋に響く。画面には、今日の支払いの詳細が非情なまでに並んでいた。
【冷子の最終決算報告:第1回】
往路フライト(羽田~女満別):¥12,800
(※三ヶ月前の『早割』にて、震える手で確保した座席です)
レンタカー代(按分):¥4,500
知床の恵みソフト&木苺クッキー:¥850
駐車場・チョコ・おにぎり雑費:¥2,500
宿泊費(民宿):¥7,500
本日支出合計:¥28,150
「……成田まで行く気力がなかったんだ。羽田の方が、少しだけ旅の始まりが『贅沢』な気がして……」
「……佐藤様。成田便との差額『七千八百円』があれば、亀戸でもやしが約三百九十袋買えた計算になります。アクセスの利便性に甘んじたその『五十分の短縮』が、最終日の十勝での食生活にどう響くか。……監査AIとしては、非常に興味深い観測対象です」
「……だって、あんな景色見たら、買っちゃうだろ」
「その結果、明日の知床遊覧船のチケットを購入した場合、十勝での予算が逼迫します。……佐藤様、いいですか。もし今後の道中で不慮の事態、例えばエゾシカの飛び出しによる急ブレーキ等で燃費が悪化した場合。最終日の十勝でのソフトクリームが一本、確実に消滅します。よろしいですね?」
「……冷子、脅かすなよ。……俺のソフトクリーム……」
窓の外では、知床の満天の星が、都会では決して見られない輝きで私を見下ろしていた。
冷子の「旅のしおり」:知床編
【レンタカー・移動ログ】
09:30 女満別空港 発 ~ 10:45 斜里市街: 約1時間15分。国道334号線を直進。
11:00 ~ 11:30 天に続く道(展望台): 滞在・撮影。
11:30 斜里 発 ~ 13:00 ウトロ市街: 約1時間30分。エゾシカの飛び出しに警戒を。
13:30 知床五湖 着 ~ 16:30 知床五湖 発: 地上遊歩道散策。
16:45 ~ 17:00 ウトロ温泉: 約15分。
【免許を持たない皆様への冷子ガイド】
女満別空港~ウトロ間は「知床エアポートライナー(網走バス)」が便利です。
知床五湖へもウトロ温泉バスターミナルから路線バスで約20分。
地上遊歩道はヒグマ対策のレクチャー受講(有料)が必須ですので、時間の余裕を持って行動を。
【作者よりお願い】
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皆さんの応援が、佐藤の三日目のソフトクリーム代に変わる……かもしれません!
次回、第2章は「神秘の湖編」。知床の海で二万円が消える絶叫回です。お楽しみに!




