第51話 八万人の足止め
板穂区の御刻神社を飛び出し、レンが借りている黒いSUVのアクセルを踏み込んでから、およそ一時間が経過しようとしていた。
車は幹線道路に入ったものの、通勤ラッシュの真っただ中という最悪の時間帯に捕まり、絵に描いたような大渋滞の中に閉じ込められていた。
「おい……これ、マジでどうなってんだよ。なぁ、誰か切り方分かんねえのか」
運転席のレンが、ハンドルを握らない左手で、ダッシュボードに固定されたスマートフォンを何度も激しく叩いていた。
配信を終了するための赤い『LIVE終了』ボタンは、画面の右上に確かに表示されている。だが、レンがどれだけ指を押し付けようが、液晶は冷たくフリーズしたままで、一切の入力を受け付けない。それどころか、スマホ本体が異様な熱を持ち始め、ケース越しに熱い熱を放ち始めていた。
強制的に継続させられているライブ配信の画面。神社を出たときは5万人ほどだった同時視聴者数の数字は、この一時間の間に恐ろしいスピードで跳ね上がり、いまや8万人を突破しようとしていた。
平日の、それも朝の8時過ぎだ。普通なら学校や会社が始まり、スマホなど見ていられない時間帯のはずだった。しかし、コメント欄には不自然なほどの勢いで、リアルタイムの書き込みが殺到している。その内容をスクロールしていた賢人は、ある奇妙な共通点に気づき、背筋が寒くなった。
『てか、みんな何でこの時間に生配信見れてんの?』
『うちの大学、今朝になって急に一限からリモート講義に変更って連絡きたわ』
『それな。うちの高校もなぜか急に臨時休校になった。設備点検とかいう謎の理由で』
『俺の会社も、システムエラーとかで急遽今日だけ在宅ワークになった。だから家でこれ見てる』
『待って、私も今日たまたま仕事休んだんだよね……なんか怖くなってきた』
書き込んでいるのは、さっきレンがカメラに映した不在票を見てしまい、自宅のインターホンが鳴ったと騒いでいる視聴者たちだった。
怪異によって、8万人以上の人間が今、それぞれの自宅へ在宅させられている。
スマートフォンのスピーカーからは、もはや誰の家ともつかない「ピンポーン……ピンポーン……」というインターホンの合唱が、不協和音となって車内に漏れ出し続けていた。
「……腹減った。なぁ、なんか食おうぜ。頭回んなくなってきた」
後部座席で、大樹が力のない声で呟いた。胃の中はすっかり空っぽだった。賢人もまた、緊張と恐怖で喉がカラカラに渇いていることに気づく。
渋滞の列の先、左手に、どこにでもある見慣れた大手チェーンのコンビニの看板が見えてきた。
「……おう、そうだな。一回落ち着こう。電波も一回リセットされるかもしんねえし」
レンはすがるような思いでハンドルを切り、コンビニの広い駐車場へとSUVを滑り込ませた。
車を停め、エンジンを切る。しかし、ダッシュボードのスマホは、車の電源が落ちてもなお、自身のバッテリーを限界まで削りながら、車内の3人の姿を世界へ中継し続けていた。画面の向こうでは8万人の人間が、じっと彼らを見つめている。
「お前ら、ちょっと待ってろ。俺が買ってくるわ。……スマホ、置いてくぞ。一瞬でもカメラから離れたら、バグが直るかもしんねえ」
レンはそう言うと、スマホをスタンドに残したまま、逃げるように車外へ飛び出していった。
残された賢人と大樹は、カメラの画角から外れるように、後部座席で小さく身を縮めた。窓の外には、コンビニの自動ドアをくぐっていく一般の客たちの姿が見える。あまりにも平凡で、ありふれた朝の風景。なのに、自分たちがいるこの車内だけが、世界の理から完全に隔離されているようだった。
「……なぁ、賢人」
大樹が、自分の首の後ろを何度も何度も、落ち着きなく指先で弄りながら声を漏らした。
「痛くはねえんだけどさ。さっきからずっと、首の後ろがチクチクすんだよ。ほら、服の裏のタグがずっと当たって痒い時みたいな、あんな感じの。……なぁ、なんか赤くなってねえか?」
大樹が首をすくめながら、Tシャツの襟元を少し引っ張った。
賢人がその首筋を覗き込んだ瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。
大樹のうなじのあたり、ちょうど髪の生え際の下に、薄い灰色の線が浮かび上がっていた。
それはただの線ではない。ごく規則正しい間隔で隙間が空いた、うっすらとした点線だ。影のように淡いが、その左端には、小さな、しかし明確なハサミのマークが、まるで最初からそこにあったタトゥーのように、皮膚の表面に印刷され始めていた。
「大樹、お前……それ」
「え、何? マジでなんかあんの?」
大樹が慌てて自分のスマホを取り出し、内カメラで首の後ろを映そうとした、その時だった。
車のドアが開き、ビニール袋を抱えたレンが戻ってきた。その顔は、コンビニに行く前よりも、さらに青ざめていた。
「……おい、お前ら、これ、食え」
レンが後部座席に放り投げてきたのは、おにぎりと、数本のミネラルウォーターだった。
賢人がそれを受け取ろうとした瞬間、レンの目が、バックミラー越しに二人の首筋を捉えて動きを止めた。大樹だけではない。大樹の横に座る賢人の首筋にも、全く同じうっすらとした点線が、まるで事務用品の切り取り線のように綺麗に浮かび上がり始めているのが見えたのだ。
「……おい、お前ら、それ何だよ」
レンのビニール袋を持つ手が、ガタガタと小刻みに震え始める。
「何だよその首のマーク! 冗談だろ? 仕込みじゃねえよな!? 触るな、それ以上触るな!」
パニックに陥ったレンは、助手席のドアポケットへ乱暴に手を突っ込んだ。引っ張り出してきたのは、以前の心霊スポット配信で使い残した、市販の清めの塩の大パックだった。
「これ、浴びろ! ぶちまけろ! 頭から被れ!!」
レンはキャップを引きちぎり、振り返りざまに後部座席へ向かって、真っ白な塩を狂ったように振り撒いた。
「うわっ、ちょっと、レンさん何すんだよ! おにぎりにかかる!」
「いいから浴びとけって! 呪われてんだよお前ら! 配送先がどうのって、首持ってかれるってことだろそれ!!」
狭い車内に激しく塩が舞い散る。賢人と大樹は腕で顔を覆いながら、頭から塩を被った。
しかし、塩が皮膚に触れても、何の劇的な変化も起きなかった。ただ、首筋のあの「チクチク感」が、塩の粒が触れたことで、まるで衣服の繊維が擦れるような、僅かな違和感を伴ってそこにあり続けるだけだった。痛くない。全く痛くないのが、かえって「これは物理的な傷ではない」「すでに配送手続きが完了している」という絶望を、二人の心に定着させていく。
「……無駄だよ、レンさん。こんなのじゃ、消えない」
賢人は髪についた塩を払いながら、力なく呟いた。おにぎりを口に運ぶ気力さえ失われていた。
ポケットの中のスマホが、ジリジリと細かく震えている。画面には、あの『一括配送を開始します』という文字が、液晶の裏側から焼き付いたまま消えない。
「行くしかないんだ。あの資料にあった分室に。……あそこに、全部の荷物が溜まってる」
レンは8万人を超えてなお跳ね上がる配信の数字を見つめ、もう一度イグニッションキーを回した。エンジンが目覚めると同時に、カーナビの画面がパチパチと明滅し、電波が死んでいるはずなのに、ただ一本のルートだけを画面に映し出し始める。
「……クソが。行ってやるよ、その分室ってところにさぁ!」
出発して一時間。車は渋滞の続く国道を抜け、徐々に建物のまばらな、山沿いの地方道路へとその鼻先を向けていった。目的地であるあの慰霊碑までは、まだ二時間以上の道のりがある。




