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006話

【頑鉄工房】の引き戸を閉めた瞬間、俺の背中にはずっしりとした重圧がのしかかっていた。それは、空っぽになった財布の重みであり、今後の生活への不安であり、そして何より、隣に立つ少女の存在そのものだった。


俺が地面の石ころでも数えるようにうなだれていると、ユキは手にしたばかりの無銘の刀を鞘に収め、満足げに頷いた。そして、こともなげに、とんでもないことを言い放ったのだ。


「さあ、さっきの依頼に行くぞ」


「……へ?」


「ギルドで見た、翼を持つ竜の討伐だ」


「や、やる気満々だねユキさん……」


もうユキが何を言いだしても驚かない。そう心に誓ったはずだった。だが、俺の顔はみるみるうちに青ざめていくのが自分でも分かった。ドレッドワイバーンの討伐。Aランクの、それも緊急討伐依頼。正気じゃない。


「この刀の値段分の働きはしなければな。1000ゴールドは安くない」


「それは、そうなんだけど……もっと地道に、例えばゴブリンを1000匹狩るとか、そういうので返してくれてもいいんだよ!?」


「問題ない」


「だから問題が山積みなの! アナライザー評価Eランクの鉄の刀一本で、どうやってAランクの竜種と戦うんだよ!」


俺の悲痛な叫びは、しかしユキには暖簾に腕押しだった。彼女は俺の抗議を綺麗に聞き流すと、さっさとギルドの方角とは逆、街の北門へと向かって歩き出す。ヴォルカノン溶岩地帯へは、そちらから向かうのが一番早い。


ああ、もうダメだ。この子の頭の中には、「不可能」という文字が存在しないらしい。

俺は半泣きになりながらも、その小さな背中を追いかけるしかなかった。財布役から、今度は自殺志願者の付き人へとジョブチェンジだ。まったく、笑えない。


ヴォルカノン溶岩地帯は、その名の通り、灼熱地獄だった。

地面のあちこちから噴き出す蒸気は硫黄の匂いをまき散らし、足元を流れる溶岩は、空気を陽炎のように揺らめかせている。C級ダンジョン『嘆きの洞窟』とは比べ物にならない、肌を焼くような殺気と圧力が、ダンジョン全体に満ち満ちていた。


「ひぃ……あ、熱い……」


俺は携帯用の冷却ポーションを呷りながら、必死にユキの後をついていく。ユキはと言えば、この灼熱の中でも涼しい顔一つせず、淡々と奥へと進んでいた。彼女の周りだけ、空気が違うようにさえ感じられる。


道中、俺たちは奇妙な光景を目の当たりにした。

本来であれば、このダンジョンの道中にはファイア・リザードやヘルハウンドといった、厄介なモンスターがうろついているはずだった。だが、俺たちの進む道には、それらのモンスターがことごとく打ち倒され、転がっているだけだったのだ。そのどれもが、巨大な刃物で一刀両断にされたかのような、見事な斬り口を残している。


「こ、これは……『豪腕』の牛田さんたちが通った後か……」


さすがはAランク探索者。道中の雑魚モンスターなど、物の数ではないらしい。

しかし、ダンジョンの最深部に近づくにつれて、その痕跡はより激しいものになっていった。抉れた地面、砕け散った岩壁。そして、遠くから聞こえてくる、轟音。


ゴォォォォッ!

ガギィィィンッ!


空気を震わせる、爆発音と金属音。それは間違いなく、激しい戦闘の音だった。

その音を聞いた瞬間、それまで淡々と歩いていたユキが、ぴたりと足を止めた。


「……急ぐぞ」


彼女の蒼い瞳が、鋭く前方を射抜く。


「この音、苦戦しているようだ。このままでは、あの女が死ぬ」


そう言い終わるか否か、ユキの姿がブレた。

次の瞬間には、彼女はすでに数メートル先を疾走していた。


「ちょ、待ってくれよ!」


俺は必死にその後を追った。熱気で肺が焼けそうだ。心臓が張り裂けそうだ。それでも、ここで彼女を見失うわけにはいかなかった。


やがて視界が開け、巨大な溶岩ドームへとたどり着く。

そして俺たちは、その中心で繰り広げられる、神話のような光景を目の当たりにした。


「グオオオオオオオオッ!!」


咆哮を上げる、巨大な竜。

全身を覆う鱗は溶岩のように赤黒く輝き、その背には巨大な翼が生えている。まさしく『灼熱の災厄』、ドレッドワイバーン。その巨体は、ビル一つ分はあろうかというほどの威圧感を放っていた。


そして、その竜とたった一人で対峙している者がいた。


「はぁっ……はぁっ……この、トカゲ野郎がァッ!!」


巨大なバトルアックスを構え、荒い息をつく女性探索者。

『豪腕』牛田澪。

彼女のパーティーメンバーであろう他の探索者たちは、すでにドームの壁際で倒れている。意識はあるようだが、もはや戦える状態ではない。


澪は巨大な斧で応戦するが、ドレッドワイバーンの猛攻はそれを遥かに上回っていた。竜が薙ぎ払った尻尾が、澪の構える大斧を弾き飛ばす。


「ぐっ……!?」


体勢を崩した澪に、ドレッドワイバーンの容赦ない追撃が迫る。鋭い爪が、彼女の体を紙切れのように引き裂かんと振り下ろされた。

絶体絶命。


その瞬間、澪は咄嗟の判断で地面を蹴り、後方へ大きく跳躍した。しかし、衝撃を完全に殺しきることはできず、彼女の体は勢いよく吹き飛ばされ――俺たちの目の前に、派手な音を立てて転がってきた。


「がはっ……!」

「う、牛田さん!」


俺が駆け寄ろうとすると、澪はすぐに体を起こし、悔しげに顔を歪めた。そして、俺と、その隣に立つユキの存在に気づき、目を剥いた。


「あなたたち!? どうしてここに……!?」

「助言通り、武器を買った。だから来た」


ユキが、手にしたばかりの刀を掲げてみせる。そのあまりに真っ直ぐな返答に、澪は一瞬、言葉を失った。


「はぁ!? あんた、本気で言ってるの……!?」


驚愕に染まる澪をよそに、ユキは静かに鞘から刀を抜き放った。キィン、と澄んだ音が、竜の咆哮が響く溶岩ドームに、場違いなほど清らかに響き渡る。


「武器って……あんな、ただの鉄の刀一本で……! あんた、この子を殺す気!?」


澪の怒りに満ちた視線が、俺に突き刺さる。

「そそそ、そんなこと言ったってぇ……! 俺が止めても聞かないんですよ!」

「ふざけないで! ここはあんたみたいなローシーカーが来ていい場所じゃない! さっさとその子を連れて逃げなさい!」


ボスモンスターと、Aランク探索者の凄まじい迫力に気圧され、俺の腰は完全に引けていた。

だが、そんな俺たち二人を置き去りにして、ユキはただ一人、静かにドレッドワイバーンへと向かっていく。


「グオオオオッ!」


小さな獲物を見つけたドレッドワイバーンが、嘲笑うかのように口を開いた。その喉の奥が、灼熱の光を帯びる。次の瞬間、凄まじい熱量のブレスが、ユキめがけて一直線に放たれた。


「危ない!」


澪の絶叫が響く。

しかし、ユキは避けなかった。

彼女はただ、手にした無銘の刀を、静かに、流れるような動作で横に薙いだ。


――ヒュッ。


信じられない光景だった。

鉄さえも溶かすはずの灼熱のブレスが、まるで川の流れを堰き止める岩のように、ユキの刀によって左右に分かたれたのだ。熱風がユキの銀髪を揺らすが、彼女の体には一筋の焦げ跡すらついていない。


「なっ……!?」


驚愕する澪と俺。そして、何より驚いたのはドレッドワイバーン自身だっただろう。自慢のブレスを無効化された竜は怒りの咆哮を上げ、その巨大な爪をユキめがけて振り下ろす。鋼鉄をも砕く一撃。


ガキンッ!


甲高い金属音。

ユキは、その一撃を、細い刀一本で、真正面から受け止めていた。彼女の足は一歩も下がらない。まるで、巨人の振り下ろすハンマーを、針一本で受け止めているかのような、あまりに非現実的な光景。


「嘘……でしょ……?」


澪の口から、呆然とした呟きが漏れる。

ドレッドワイバーンの爪を弾き返したユキは、そのまま地面を蹴った。彼女の動きには一切の無駄がない。最短距離を、一直線に。竜の懐へと潜り込む。


そして、すべては一瞬だった。


銀色の閃光が、走った。

それは、まるで静かな湖面を切り裂く一筋の光のようだった。

音は、なかった。


一瞬の静寂。

時が止まったかのような錯覚。


やがて、ドレッドワイバーンの巨大な首が、その胴体から、ずるりと滑り落ちた。

凄まじい地響きと共に崩れ落ちる巨体。ドーム内に吹き荒れる風圧に、俺は思わず腕で顔を庇った。


風が止み、再び訪れた静寂の中、俺は恐る恐る顔を上げる。

そこには、返り血一つ浴びずに佇む、銀髪の少女の姿があった。

彼女は血振りをするように軽く刀を振ると、その美しい刀身を眺め、満足げにぽつりと呟いた。


「うん、いい刀だ」


呆然。

俺も、そして『豪腕』の異名を持つAランク探索者、牛田澪も、ただ呆然と、その光景を見つめることしかできなかった。

やがて、我に返った澪が、震える声で、俺に問いかけた。その瞳には、恐怖と、畏怖と、そして純粋な驚愕が入り混じっていた。


「あなた……一体、“何”を連れて来たの……!?」

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