022話
ボロボロになったエアクラフトが、最後の力を振り絞るようにして研究キャンプの近くに着陸した時、俺と萌恵さんは完全に燃え尽きていた。
操縦桿を握りしめていた俺の手は白く、隣の萌恵さんは魂が抜けたようにぐったりとしている。
後部座席のユキだけがいつもと変わらぬ涼しい顔で、しかしその呼吸は常よりもわずかに速かった。
機体から転がり出た俺たちは、まず真っ先に空を見上げた。
紅い髪の青年、トウヤの追撃を警戒したからだ。
だがどこまでも高く澄み渡った空に、彼の姿も禍々しい魔導狙撃の光も見えなかった。
「……追って、きませんでしたね」
「ああ……なんとか、逃げ切れたみたいだ……」
萌恵さんの安堵の声に、俺もようやく全身の力を抜くことができた。
その場にへたり込み、大きく息を吐く。
生きてる。その実感がじわじわと全身に広がっていった。
その、瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴ……!
まるで地鳴りのような、凄まじい音が平原全体に響き渡った。
俺たちが驚いて顔を上げると、信じられない光景が目の前に広がっていた。
遥か彼方にそびえ立つ世界樹が、まばゆいばかりの生命の光を放っていたのだ。
呪いという重石から解放された生命力が、堰を切ったように爆発している。
光は天を突き、その巨大な樹冠から、無数の光の粒子が雨のように降り注ぎ始めた。
「これは……!」
萌恵さんが、学者としての探究心に満ちた瞳で立ち上がる。
光の雨は地上に降り注ぐと同時に、驚くべき変化をもたらした。
枯れていた草花は一瞬にして息を吹き返し、地面からは新たな若芽が次々と顔を出す。
平原全体が、生命の息吹で満たされていく。
そして、世界樹の枝葉からは、光の粒子だけでなく色とりどりの果実が、文字通り雨のように降り注いできた。
リンゴのように真っ赤な実。ブドウのように瑞々しい紫色の実。太陽の光を凝縮したかのような黄金色の実。
そのどれもが、完熟した甘い香りをあたりに振りまいている。
「すごい……呪いの影響で滞留していた生命力が、一気に解放されているんですよ……! まさに生命力の爆発……!」
萌恵さんが感動に打ち震える中、俺はその幻想的な光景に見惚れながらも別のことを考えていた。
(あの果実……どんな味がするんだろう……)
料理人としての性が、むくむくと頭をもたげる。
だがそんな感傷や探究心よりも先に、俺たちの体をもっと根源的で抗いがたい欲求が支配した。
ぐぅぅぅぅぅ〜〜〜〜………。
鳴った。
俺と萌恵さん、そしてユキのお腹から見事な三重奏が。
死線を乗り越えた安堵感と、生命力に満ちた光景が俺たちの体に「生きている」ことを強烈に実感させ、極限の空腹感を呼び覚ましたのだ。
「……腹が、減ったな」
ユキが真理を突くようにぽつりと呟いた。
その言葉に俺と萌恵さんは顔を見合わせ、そしてふっと笑い合った。
そうだ。剣魔會とは何者か。トウヤという不気味な敵。
考えなければならないことは山ほどある。
だが、それは後だ。
「……ですね。まずは、食事にしましょう」
「えぇ、そうしましょう!」
萌恵さんも満面の笑みで頷いた。
俺は立ち上がると、退避していた場所から恐る恐る顔を出していた研究員たちに向かって、声を張り上げた。
「みなさーん! お腹、空いてますよね!? 今から俺が、この世界樹平原の恵みを全部使って、最高のフルコースを作ります! 祝勝会と行きましょう!」
俺の宣言に、研究員たちから歓声が上がる。
そうだ俺は料理人だ。仲間が腹を空かせているのなら、最高の料理でそれに応えるのが俺の戦い方だ。
俺は愛用の調理器具と、そして源さんから届いたばかりの銀色の相棒――【ドレッドノート壱号】を構え、腕をまくった。
これから始まるのは俺だけの戦場だった。
祝勝会の会場となったのは、研究キャンプの中央に広がる広場だった。
テーブルを並べ、即席の食卓を作る。
空にはまだ生命の光の余韻が残り、世界樹から降ってきた果実の甘い香りが、最高のスパイスとなって俺たちの期待を煽っていた。
俺はまず銀色に輝く新たな相棒【ドレッドノート壱号】の前に立った。
ドレッドワイバーンの火炎袋を動力源とするこのコンロは、もはや調理器具というより兵器に近い。
スイッチを捻ると、ゴオオッ!という咆哮のような音と共に、青白い炎が渦を巻いて噴き出した。
その圧倒的な熱量に、周囲の空気が陽炎のように揺らめく。
「すごい火力だ……! これなら、どんな食材だって最高の状態に仕上げられる!」
料理人としての血が騒ぐのを抑えられない。
俺はまずアミューズとして『生命の泉と七色の花びらのクリスタルジュレ』を手早く作り上げた。
世界樹の麓から汲んできた湧水で作ったジュレは口に入れた瞬間、清涼な花の香りと共にすっと溶け、戦いでささくれだった神経を優しく癒していく。
「美味しい……! 体の中から、浄化されていくようです……!」
萌恵さんがうっとりとした表情で呟く。
他の研究員たちも、その繊細な味わいに感嘆の声を上げていた。
続いて前菜は『肉葉草のカルパッチョ仕立て』。
極薄にスライスした肉葉草に、世界樹の洞で採れた「煌めき岩塩」を振り、太陽の魔力を宿したサンライト・ベリーのソースを添える。
「ん……!」
ユキが目を見開いた。
彼女にとって馴染み深い肉葉草だが、その味わいは以前とは比べ物にならない。
呪いが晴れたことで、肉葉草そのものが持つ生命力が格段に上がっているのだ。
シャキリとした歯ごたえ、噛むほどに溢れる濃厚な旨味。ベリーソースの甘酸っぱさが、その後味を爽やかに引き締める。
「うまい……前よりも、ずっと味が濃い」
「だろ? この平原全体が、元気になった証拠だよ」
スープは『アース・ポテトの滋養ポタージュ』。
ドレッドノート壱号の超火力で一気に火を通したアース・ポテトは、デンプン質が極限まで糖化し、まるで蜜のような濃厚な甘みを引き出している。
そこに、長寿の亀「森の賢者」の甲羅から取った滋味深いコンソメを合わせることで、ただ甘いだけでなく体の芯まで染み渡るような、深く、優しい味わいに仕上がった。
一口すするたびに、消耗した体力が回復していくのが分かる。
誰もが言葉を忘れ、その温かい恵みに静かに身を委ねていた。
そして、いよいよメインディッシュ。
俺は、この日のために取っておいた最高の食材を取り出した。
平原に生息する「虹色鳥」の胸肉。
そして呪いから解放されたばかりの、最も生命力に満ちた世界樹の若葉。
「ユキ、萌恵さん、皆さん。お待たせしました」
俺はドレッドノート壱号の火力を最大にする。フライパンが瞬時に赤熱し、そこに虹色鳥の皮目を押し付けた。
ジュウウウウウウウウッッ!!
凄まじい音と香ばしい煙が、キャンプ中に立ち込める。
皮目は一瞬にして黄金色に焼き固められ、旨味と肉汁を完全に内部に閉じ込めた。
次にその肉を世界樹の若葉で丁寧に包み、蒸し焼きにする。
若葉に含まれる清浄な魔力が、じっくりと肉に浸透していくのが【グルメ鑑定】スキルを通して俺には分かった。
仕上げはソースだ。
世界樹の根元に溜まる「生命の雫」と呼ばれる黄金色の樹液を、赤ワイン代わりに使った果実酒で煮詰める。
ドレッドノート壱号の火力なら、この繊細な工程も一瞬だ。
アルコールが飛び旨味と香りが凝縮された、至高のグレイビーソースが完成した。
焼きあがった肉を切り分けると、その断面は美しいロゼ色に輝いていた。
若葉の爽やかな香りと肉の焼ける香ばしい匂い、そしてソースの甘く芳醇な香りが混じり合い、もはや暴力的なまでの美食のオーラを放っている。
「さあ、どうぞ! 『世界樹の若葉で包んだ“虹色鳥”のロースト ~生命の雫のグレイビーソース~』です!」
俺が皿を差し出すと、誰もがごくりと喉を鳴らした。
一番にナイフを入れたのは、もちろんユキだった。
彼女は、その一切れを、どこか神聖な儀式に臨むかのように、ゆっくりと口に運んだ。
その瞬間ユキの蒼い瞳が、大きく、大きく見開かれた。
彼女の体の中を温かい光が駆け巡るのが、俺には見えた気がした。
虹色鳥の肉に凝縮された、七色の魔力。
世界樹の若葉が持つ清浄な生命力。
そして生命の雫のソースが持つ、魂を直接癒す力。
それらが俺の「誰かのために」という強い想いが乗った調理……というのは、少し言い過ぎかもしれないが―ーによって、完璧な調和をもって融合し、奇跡を呼び起こしたのだ。
「これは……呪いが和らいでいくようだ」
「本当か? ユキ?」
「分からん。だがいつもの空腹を満たすためだけの食事とは違う感覚がする……不思議だ」
「もしかしたら、本当に呪いへの影響があるのかもしれません」
萌恵さんが補足をするかのように声を上げる。
「ユキさんの体を蝕む呪いは生命力を消散させてしまうものです。それに対して強力な反作用……このように外部からの生命力の供給があれば、もしかすると……あくまで仮説、ですが」
「なら、もっと食べるぞ」
「単にお腹空いてるだけじゃないのか~?」
「そんな事は……あるな、うん」
ははは、と食卓に笑いが起こる。
萌恵さんの説もあくまで仮説。
それが正しかったとして、今はまだ完全な解呪ではないかもしれない。
だが間違いなく、ユキは本当の意味で「満たされ」ているのは確かだ。
どれだけ食べても満たされることのなかった、底なしの飢餓感。常に生命力が流出し続ける魂の渇き。その苦しみからほんの一瞬だけ、解放される……。
「……あたたかい……」
ユキの唇から吐息のような声が漏れた。
彼女はもう一切れ肉を口に運ぶ。
噛みしめるたびに肉汁と共に生命力が全身に染み渡っていく。
欠けたパズルのピースを埋めるように、ユキは食事を楽しんでいた。
その事実が、俺にはたまらなく心地よかった。
今まで感じたことのない穏やかで、満ち足りた幸福感。
ユキはふと顔を上げ、自然と口元が綻ばせる。
それは今まで見せたことのない、心からの少女のような無垢な笑顔だった。
「……やはりマコトの料理は、最高だな」
その笑顔を見た瞬間、俺の胸は、言葉にできないほどの達成感と喜びで満たされた。
俺はこの笑顔を見るために、料理人になったんだ。そう思わせるほどの。
世界樹の麓で繰り広げられた祝勝会は、夜更けまで続いた。
誰もが笑い語らい、そして俺の料理を心の底から楽しんでくれた。
「剣魔會」という新たな脅威の影は、まだ俺たちの頭上に残っている。
だが、今はいい。
今はただこの奇跡のような平穏と、仲間の笑顔を心に焼き付けておきたかった。
ユキの隣で俺は夜空に輝く満天の星を見上げながら、次は何を作って彼女を驚かせてやろうかと、そんな幸せなことだけを考えていた。




