021話
呪核が光の粒子となって消え去った後、世界樹の樹冠には嘘のような静寂が訪れた。
あれほど空気を重くしていた禍々しい瘴気は完全に晴れ、代わりに生命力に満ちた清浄な風が俺たちの頬を撫でていく。
見上げれば、世界樹の枝葉が呪いから解放されたことを喜ぶかのように、太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
「……終わった、んですね……」
隣で萌恵さんが安堵のため息と共にへたり込む。
俺も全身の力が抜けて、その場に座り込んでしまいそうだった。
死闘の末に掴んだ、あまりにも穏やかな結末。
俺はボロボロになったエアクラフトを見やり、まだかろうじて飛べそうだと確認して、ようやく心の底から安堵した。
これで、地上に帰れる。
だがそのつかの間の平穏は、一人の少女の冷たい一言によってあっけなく破られた。
「……まだだ」
刀を鞘に収めたユキが静かに、しかし鋭く呟いた。
彼女の蒼い瞳は、安堵する俺たちとは対照的に樹冠の奥、何もない空間をじっと射抜いている。
その横顔には戦いが終わった者の弛緩はなく、むしろこれから真の敵と対峙するかのような、極度の緊張が張り詰めていた。
「ユキ……?」
「そこにいるのは分かっている。出て来い」
ユキの言葉に、俺と萌恵さんは息をのむ。
彼女が刀を向けた先、鬱蒼と茂る巨大な葉の影がゆらり、と不自然に揺れた。
そしてまるで芝居の幕が上がるかのように、そこから一人の青年が姿を現した。
「あれぇ、バレてた?」
聞こえてきたのは場違いなほどに軽い、間の抜けた声だった。
現れた青年は血で染め上げたかのような、鮮烈な紅い髪をしていた。
歳は俺と同じくらいだろうか。
整った顔立ちには人懐っこい笑みが浮かんでいる。
服装は黒を基調とした動きやすそうな戦闘服。
だがその軽薄な雰囲気とは裏腹に、彼が放つ存在感は先ほどの呪核にも劣らない、底知れない不気味さを漂わせていた。
「はじめまして! 僕は剣魔會のトウヤ。君たち、やるじゃない。あの呪いを破壊しちゃうなんてさ」
青年――トウヤは、まるで旧知の友にでも会ったかのように屈託なく手を振りながら話しかけてくる。
その態度に、俺と萌恵さんは完全に毒気を抜かれてしまった。
「けんまかい……?」
俺が聞き慣れない組織名を呟くと、ユキが冷たい声で問いを重ねた。
「私たちを狙撃していたのも、世界樹に呪いを掛けたのも、お前だな?」
その直接的な問いに、トウヤは「あぁー」とわざとらしく声を上げ、悪びれる様子もなくポリポリと頭を掻いた。
「狙撃したのは僕だけど、呪いを掛けたのは“上のヒト”。僕はさあの呪いの護衛だったんだけど、いやー、下で待ってたのがよくなかったね。まさか空から来るとは思わなかったからさ。完全に守り切れなかったよ」
やれやれ、と肩をすくめるトウヤ。
その口調はまるで仕事でちょっとしたミスをしでかしたサラリーマンのようだ。
だが彼が語っているのは、ダンジョン一つを機能不全に陥らせた、大規模なテロ行為に他ならない。
「帰って報告しないといけないんだけど、これ、絶対怒られちゃうよねぇ?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
たまらず声を上げたのは萌恵さんだった。
彼女は正義感の強い、真面目な学者だ。
この男のふざけた態度は到底許せるものではないだろう。
「どうして世界樹に呪いなど! あれがどれほど貴重な研究対象で、生態系に重要な役割を果たしているか、分かっているのですか!?」
萌恵さんの必死の追及にも、トウヤは「さぁ?」と首を横に振るだけだった。
「上のヒトの考えることは、下っ端の僕には分からないよ。命令だからやっただけだし。それに、別に世界樹がどうなろうと、僕には関係ないかな」
トウヤの反応は軽い、至って軽い。
善悪の基準が俺たちとは根本的に違うのを感じるまでに。
「なんか……調子狂うな……」
「とにかく、貴方は法を犯しています! ダンジョンの私物化、要塞化はギルド法で固く禁じられた重罪です! 然るべき場所に出頭して、すべてを話していただきます!」
萌恵さんが毅然とした態度で言い放つ。
だがトウヤは「あ、僕捕まっちゃう?」と困ったように眉を下げた。
「それは困るなぁ……」
次の瞬間、彼の雰囲気が一変した。
それまでの軽薄な笑みがすっと消え、能面のような無表情になる。
彼は背中に背負っていた身の丈ほどもある巨大な剣を、ゆっくりと引き抜いた。
キィン、という金属音と共に現れたのは、剣と呼ぶにはあまりに異様な代物だった。
黒光りする分厚い刀身。その根元には、リボルバー式の拳銃のような機構が組み込まれており、銃口が刀身と平行に前方を向いている。
銃と剣を悪魔的に融合させたかのようなその大剣は、禍々しい紫色のオーラをゆらめかせていた。
「上に言い訳もしないといけないし……君らにはここで死んでもらおうかな。目撃者はいない方が、報告書も書きやすいしね」
その切っ先が真っ直ぐに俺たちに向けられる。
もはや、交渉の余地はなかった。
「そう簡単にいくとでも?」
ユキが一歩前に出る。
彼女の全身から放たれる闘気がトウヤの放つ禍々しいオーラとぶつかり合い、空気がビリビリと震えた。
「あぁ、そうか。君がいたか……参ったな。君、どう見ても他のヒトより桁違いに強いんだよねぇ……」
トウヤはそう言いながらも剣を下げようとはしない。
彼の視線が、ユキの腰に差された無銘の刀に向けられる。
「でも君の武器……よく見たら、ただの鉄の棒みたいだ。ずいぶん弱そうだなぁ。それなら、僕でも勝てるかも」
その言葉に、俺の心臓がドクンと跳ねた。
ユキのコンディションは最悪だ。
呪核との戦いで相当な生命力を消耗しているはず。
それに彼女の武器は、源さんが打ったただの鉄の刀。
対する相手は見るからに強力な魔力を秘めた特殊な武器を持っている。
このまま戦えば、勝てるものも勝てない。
俺がヒヤヒヤしているのをよそに、二人は同時に動いた。
ガギィィィィィンッ!!
凄まじい轟音と共に、二人の姿が掻き消えた。
俺の目にはもはや何が起きているのか全く捉えられない。
ただ樹冠の至る所で火花が散り、金属と金属がぶつかり合う甲高い音が断続的に響き渡るだけ。
凄まじい高速戦闘。それは俺が今まで見てきたどんな戦いとも次元が違っていた。
「まずい、このままじゃユキが……! 萌恵さん!」
「ダメです、早すぎて狙いが……!」
萌恵さんも弓を構え必死に二人の動きを追おうとするが、その瞳は焦点を結べずに揺れている。
この速度では援護射撃どころか、流れ弾がユキに当たってしまう可能性すらある。
どうする。どうすればいい。
俺は必死に頭を回転させた。ユキを助ける方法。この状況を打開する一手。
俺の戦闘力はゼロだ。飛び込んでいっても、一瞬でミンチにされるのがオチだろう。
何か、何か武器になるものは……。
俺は自分のバックパックの中身を思い浮かべた。調理器具、採取した植物、そして――。
(……あれしか、ない!)
俺は覚悟を決めた。やけっぱちだった。だがもうこれに賭けるしかない。
俺はバックパックから最後の一個残っていた発煙調味液の小瓶を取り出すと、剣戟の音が最も激しく響く場所めがけて思いっきり投げつけた。
「ユキィィィーッ!!」
俺の叫び声と小瓶が風を切る音。
その瞬間、高速で移動していた銀色の閃光――ユキがピタリと動きを止めた。彼女は俺の意図を、一瞬で理解したのだ。
ヒュンッ!
紅い髪の残像がユキに襲いかかる。トウヤだ。
だが、ユキはそれを避けることなくむしろ自分からその斬撃の軌道上へと飛び込んだ。
そして俺が投げた小瓶を、トウヤの振り下ろす大剣で叩き割らせたのだ。
パリンッ!
小瓶が弾け緑色の煙が爆発的に広がる。
瞬間、二人の剣戟の音は完全に止み、周囲は濃い煙幕に包まれた。
「ユキーッ!こっちだー!」
俺が叫ぶと、煙の中から銀髪の影が飛び出し、そのまま俺の腕の中に飛び込んできた。
「くっ……助かったぞ、マコト」
抱きとめたユキの体は驚くほど冷たく、そして小刻みに震えていた。
やはり相当な無理をしていたのだ。
「げほっ、げほっ! うぇーっ、なんだよこれーっ!! 目が、鼻がぁっ!」
煙の中でトウヤの苦しむ声が聞こえてくる。
俺の作った即席スモークはただの煙幕じゃない。唐辛子とミントの刺激成分マシマシの特製催涙ガスだ。
「今のうちに!」
俺はユキを抱え萌恵さんと共にエアクラフトへと駆け込む。エンジンを最大出力で起動させ、機体を急浮上させた。
煙が晴れた後一人残された樹冠の上で、トウヤは涙と鼻水を垂らしながら空の彼方へ消えていくエアクラフトを見送っていた。
「に……逃げられた……。はぁ、これはもう、素直に怒られるしかないか……」
その呟きは俺たちの耳には届かなかった。
俺たちは新たな強敵と「剣魔會」という大きな謎を残して、命からがらその場から脱出することに成功したのだった。




