019話
「これ、本当に役に立つのかな……」
俺は研究室のキッチンで急ごしらえした、小さなガラス瓶を手に不安げに呟いた。
中に入っているのは、さっきの平原で採取した【ファイア・リリー】の揮発性のある花粉と【ミントフラワー】の刺激成分を調合した、どろりとした緑色の液体だ。
俺の【グルメ鑑定】スキルが示唆したのは、これが強い衝撃で霧散した際に強烈な刺激と煙を発生させるということだった。
言わば即席の煙幕弾。
料理人である俺が生まれて初めて作った「武器」だった。
「ないよりマシだ。マコトは援護に徹すればいい」
俺の不安を、隣に立つユキがこともなげに断ち切った。その蒼い瞳は、すでに前だけを見据えている。
俺は頷くと、完成した小瓶を萌恵さんに手渡した。
「萌恵さん、これを。使い方は……分かりますよね?」
「えぇ、任せてください。矢に括り付け、狙った場所で炸裂させればいいのですね」
彼女は熟練のレンジャーらしく、手際よく矢尻の近くに小瓶を固定していく。その手つきに迷いはなく、俺の心も少しだけ落ち着いた。
一通りの準備を終え、俺たちは研究所の屋上へと向かった。
そこには萌恵さんが言っていた通り、一台の小型エアクラフトが静かに眠っていた。
ダンジョンが出現してからの十数年で科学技術は飛躍的に進歩した。
この「空飛ぶ乗り物」もその一つだ。
流線形のボディは四輪駆動車に似ており、本来であればアナライザーとの連携による自動運転で、誰でも簡単に乗りこなせるはずだった。
そう、本来なら。
今は連携すべきアナライザーが破壊されている……つまり、手動運転しか手段がない。
そしてそれを運転するのは、他でもない俺だった。
(興味本位で取った免許証がこんな所で役に立つとは……)
数年前、空飛ぶ乗り物に憧れて取った『半自動飛行車両運転免許証』が、財布の中できらりと光った気がした。
俺たちはエアクラフトに乗り込み、施設の非常電源から伸びるケーブルで、その動力源をフルに充電する。
操縦席に座った俺は目の前に並ぶ計器類と、握り慣れない操縦桿を前にゴクリと唾をのんだ。
「俺……ペーパードライバーなんですよね……」
「問題ない。やればどうにかなるものだ」
「そうかなぁ……?!」
後部座席からのユキの呑気な声に俺の悲鳴じみたツッコミが重なる。
隣に座る萌恵さんの顔も、不安げに引きつっていた。
だがもう後戻りはできない。俺は覚悟を決め、エンジンの起動スイッチを押した。
ブォォォン、と低い駆動音が響き機体がわずかに浮上する。
屋上のハッチがゆっくりと開く。外の生命力に満ちた、しかし殺気に満ちた空気が流れ込んできた。
俺が操縦桿をゆっくりと前に倒すと、エアクラフトは研究所の屋上からおそるおそる発進した。
その瞬間を、待ち構えていたかのように。
俺たちの眼下、蠢いていたマンイータープラントの群れが一斉に牙を剥いた。
無数の蔦が空を飛ぶ獲物を絡め取らんと、凄まじい勢いで伸びてくる。
「うわあああああああ!」
俺はパニックに陥り、思わずアクセルの役割を果たすペダルを床まで踏み抜いていた。
機体が、ロケットのように急加速する。
「きゃあああああああ?!」
強烈なGに、萌恵さんの悲鳴が機内に響き渡った。
俺も操縦桿を握りしめるので精一杯で、まともな操縦などできるはずもない。
エアクラフトは千鳥足のように左右に蛇行し、きりもみ回転しかねない勢いでデタラメな軌道を描いて上昇していく。
だが、そのめちゃくちゃな飛行が結果的に功を奏した。
俺たちの機体を狙って伸びてきたマンイータープラントの蔦は、予測不能な動きに翻弄され、空中で同士討ちのように絡まり合っていく。
俺たちはその蔦の網を紙一重ですり抜け、なんとか追撃を振り切って高度を稼ぐことに成功した。
「言っただろう、どうにかなったぞ」
後部座席から聞こえてきたユキの平然とした声に、俺は涙目で振り返った。
「そういう問題かなぁ?! 俺、今、人生の終わりの五秒前くらいまで見えたんだけど!!」
「わ、私も、もうダメかと……!」
「だが生きている。問題ない」
ユキは頼りがいがあって、それでいてどこかズレた自信をもって頷いた。
萌恵さんはまだ座席にへばりついて小刻みに震えている。
俺は気を取り直して呼吸を整えると、操縦桿を握り直して世界樹の上層部を目指してゆっくりと機体を安定させた。
眼下には、もはや豆粒のようになったマンイータープラントの群れが見える。
「こ、これなら……なんとかなるかも……」
俺が安堵のため息をつきかけた、その時だった。
「――来るぞ!!」
ユキの鋭い警告が、機内に響き渡る。
次の瞬間、ヒュンッ!という鋭い音と共に赤い光の線が俺たちの機体のすぐそばを掠めていった――アナライザーと撃ち抜いたものと同じ、魔導狙撃だ!
ドゴォォン!!
二射目がエアクラフトの屋根部分に直撃し、轟音と共に天井が吹き飛んだ。
風が機内に吹き荒れ、破片が飛び散る。
「わぁぁ!? なんとかならないかもぉ?!」
「このまま真っすぐ行け! 私が弾く! モエ、小瓶を使え!」
「は、はい!!」
ユキの檄が飛ぶ。
彼女は吹き飛んだ天井の穴から身を乗り出すと、腰の刀を抜き放った。
赤い光弾が三発、四発と立て続けに飛来する。
それを、ユキはまるで予測していたかのように、刀の峰で的確に、一つずつ弾き返していく。
甲高い音が響き、弾かれた光弾が明後日の方向に飛んでいく。あまりにも人間離れした神業。
その隙に萌恵さんも弓を構えた。彼女の矢には、俺が作った発煙調味液の小瓶が括り付けられている。
「今だ! モエ!」
「はいっ!」
萌恵さんが矢を放つ。放物線を描いた矢は、狙撃手が潜んでいるであろう森の一角で炸裂した。
ボンッ!という音と共に緑色の濃い煙が爆発的に広がる。
強烈なミントと唐辛子を混ぜたような刺激臭が、風に乗ってここまで届いた。
狙撃主がその煙に惑わされたのか、一瞬狙撃が止んだ。
その好機を逃さず、俺は最後の力を振り絞って機体を世界樹の頂へと向かわせる。
そしてついに俺たちのエアクラフトは、不時着するように巨大な枝が幾重にも重なり合ってできた、広大な樹冠部へと乗り上げた。
ガガガガッ!という耳障りな音を立てて機体が停止した時、俺は完全に燃え尽きていた。
「し、死ぬかと思った……」
「私もです……寿命が、何十年か縮みました……」
俺と萌恵さんは操縦席と助手席でげっそりと顔を見合わせた。
全身の力が抜け、指一本動かすのも億劫だ。
しかしそんな俺たちの消耗など意にも介さず、後部座席のドアが開く音がした。
「何を言っている。本番はこれからだぞ」
凛とした声と共に、ユキがエアクラフトから軽やかに飛び降りる。
その手にはすでに無銘の刀が握られ、その切っ先はただ一点に向けられていた。
つられて視線を向けた俺と萌恵さんは、息をのんだ。
ユキの目線の先。
その樹冠部の中心に、それはあった。
巨大な、黒い瘤。
まるで、世界樹の生命を蝕む癌細胞のように、脈打つ黒い塊。
そこから伸びる無数の黒い血管のようなものが、世界樹の幹に張り付き、本来なら生命力に満ちているはずの樹液の流れを、おぞましい瘴気と共に呑み込んでいた。
表面には理解不能な呪いの紋様が、禍々しい光を放ちながら明滅している。
あれが、このダンジョン全体を狂わせ、世界樹を苦しめている呪いの中枢――“呪核”。
その圧倒的なまでの邪悪な存在感を前に、俺はただ立ち尽くすしかなかった。
先ほどまでの死闘が、まるで子供の遊びだったかのように思えるほどの、絶望的なプレッシャーがそこにはあった。