018話
萌恵さんの絶望的な叫びが、静まり返った研究室に響き渡った。
世界樹が呪われている。
その言葉の意味がすぐには理解できず、俺は間の抜けた声で聞き返していた。
「え……? あんなに大きなもの、呪えるんですか……?」
山のように巨大な生命力の象徴そのものみたいなあの樹を呪うなんて、まるで海に毒を流すような話だ。規模が大きすぎて、現実感がまるでない。
すると、それまで静かにお茶を飲んでいたユキが、俺の素朴な疑問に静かに答えた。
「呪える。世界樹自体は何の加護も受けていない、ただの生命力の塊だ」
彼女はそう言うと、手にしたカップの中、揺れるお茶の水面に視線を落とした。
「呪いとは、モノの本質を歪めるものだ。この茶の中に見えない泥水が一滴入って、全体が飲めなくなるような……そういうものだと思え」
「分かるような、分からないような……」
ユキの独特の比喩に、俺は首をひねる。泥水の一滴。つまり呪いの本体はごく小さなもので、それが世界樹という巨大な器全体を汚染し、そのありようを歪めてしまっているということか。
「ユキさんの言う通りです」
俺の考えを肯定するように、萌恵さんがレポート用紙を机に広げながら言葉を続けた。
「分析データによると、呪いの因子は採取した世界樹の落ち葉の方に、土壌よりも遥かに色濃く出ていました。ということは……」
萌恵さんの言葉の先を、俺ははっとした表情で引き継いだ。
「世界樹は……頭の方から呪われてるってことか……!」
「ならば、行くしかあるまい」
ユキが、カップを静かにテーブルに置いた。その蒼い瞳には、先ほどまでの気だるげな雰囲気は微塵もなく、獲物を前にした狩人のような鋭い光が宿っている。
「そして、呪いの本体を斬る」
その一言は、単純明快で、揺るぎない決意に満ちていた。そうだ、彼女はそういうヤツだった。原因があるならそれを根本から断つ。シンプルだが、最強の彼女だからこそ言える絶対的な解決策。
俺たちが絶望的な状況に頭を抱えている間も、彼女の中ではすでに行くべき道が決まっていたのだ。
「そうですね……。幸い、研究所の屋上には、私たちが使っていた移動用の小型エアクラフトが一機残してあります。動力も、この施設の非常電源からチャージできるはずです。それを使えば、世界樹の上部へ行くことは可能かと。ですが……」
希望が見えたかと思った矢先、萌恵さんの言葉が重く沈む。彼女の視線が、床に転がったアナライザーの残骸へと向けられた。
「あぁ……アナライザーを撃った敵、か。そいつが何者であれ、上に登ろうとすれば、また妨害してくるだろう」
ユキの言葉にごくり、と俺は乾いた喉を鳴らした。
今まで俺がダンジョンで対峙してきたのは、すべてがモンスターだった。
知性はあるのかもしれないが、その行動原理は食欲や縄張り意識といった、本能に根差したものだ。
だが今回は違う。
俺たちのアナライザーを、あの距離から正確に撃ち抜いた何者か。マンイータープラントの群れをまるで手駒のように操り、俺たちをこの研究所に追い詰めた、明確な悪意。それは、恐らく――人間だ。
自分を低層探索者と馬鹿にしてくる他の探索者はいた。 だが彼らだって命のやり取りをするような敵ではなかった。
正体不明の推定・人間と敵対する。そんな経験は、俺には一度もなかった。
モンスター相手なら、まだ躊躇はない。
生きるために、仲間を守るために、食材を得るために戦うことができる。勝てる見込みは殆どないが……。
だが、相手が同じ人間だったとしたら? 俺は、ユキのように迷いなく武器を振るうことができるだろうか。
「……でも、やらないと、どっちにしたってここに閉じ込められたままだしな……」
俺は震えそうになる声を、なんとか絞り出した。
頭の中で最悪の想像がぐるぐると渦を巻く。
冷たい汗が背中をツーっと伝っていくのが分かった。
「そうです。ここも、いつまで安全なのか分かりません。マンイータープラント達が、いつこの扉を破ってなだれ込んでくるか……。現状は、打破しなければなりません」
萌恵さんの冷静な言葉が、俺の覚悟を促す。そうだ。選択肢なんて、俺たちにはもう残されていない。
食料は、さっきユキが最後のレーションまで全部平らげてしまった。
水はまだあるが、それも尽きるのは時間の問題だ。このまま閉じこもっていても、待っているのは飢え死にするか、モンスターの餌食になるかのどちらかだ。
道は他にはなかった。
俺は固く拳を握りしめ、顔を上げた。
「……分かりました。やりましょう」
「マコトは料理だけしていろ。多分……足手まといだ」
「だーっ! 人の覚悟をバッサリと!!」
俺の悲壮な決意は、ユキの一言で切り捨てられた。
確かに俺の戦闘力は皆無に等しい。だが、この状況でただ守られているだけなんて、ごめんだった。
「誠さんの覚悟は、私も尊重します。それに、ユキさん一人に全てを背負わせるわけにはいきません」
萌恵さんが、俺を援護するように言ってくれる。ユキは少しだけ不満そうに口をへの字に曲げたが、それ以上は何も言わなかった。
こうして、俺たちの意見は一致した。
呪いの元凶を断つため、世界樹の頂を目指す。
俺は震える心に無理やり活を入れ、来るべき戦いに備えて、なけなしの装備を改めて点検し始めたのだった。