001話
約20年前、世界は一変した 。
突如として各地に出現した謎の異空間――『ダンジョン』。それは現代科学の常識が一切通用しない、未知なる領域だった。
ダンジョンは、時に内部のモンスターが地上に溢れ出す『スタンピード』という大災害を引き起こす 。だが同時に、そこから産出される未知の素材やエネルギー資源は、医療、工業、そして何より我々の『食文化』に未曾有の革命をもたらした 。危険と恩恵。世界はその両方を手にしたのだ。
やがて、ダンジョンに潜り、その恩恵を社会に還元する者たちが現れた。『探索者』と呼ばれる彼らは、超常能力『スキル』を駆使し、ギルドを中心に活動している 。
そしてここ、日本の拠点都市『サキガケ』も、複数のダンジョンを抱える街の一つだ 。
「――さて、と。今日の依頼は……っと」
俺、新田誠は、探索者ギルドの巨大な依頼掲示板の隅っこで、ため息交じりに呟いた。
元々は大手食品メーカーの企画開発部にいた俺だが、「利益や効率」ばかりを追求するやり方に嫌気がさして退職した 。『本当に価値のある食で、人を幸せにしたい』。そんな青臭い理想を胸に、未知の食材が眠るダンジョン専門の料理人へと転身したはいいものの、現実は厳しい 。
俺には戦闘スキルがない。おかげで探索者ランクは万年C級。いや、戦闘力が皆無なのだから、実質的にはそれ以下だ。危険なダンジョンには潜れず、他人から高値で食材を買い取るか、安全が確保された低階層で薬草やスライムの粘液といった簡単な素材を集めるのがやっと。ギルドでは『低層探索者』なんて、少しばかり不名誉な呼ばれ方もされていた 。
「今日も『ゴブリン・フォレストの薬草採取』か、『湿地のスライム討伐』の残骸回収か……代わり映えしないな」
ペラペラと依頼書をめくる。どれもこれも、大した稼ぎにはならない、誰かがやり残したような依頼ばかり。そんな依頼書の山に指を滑らせていた、その時だった。
一枚だけ、他の紙とは違う手触りの依頼書が指に引っかかった。
引き抜いてみると、それは個人からの指名依頼に近い、古びた羊皮紙だった。
【依頼内容:C級ダンジョン『嘆きの洞窟』にて『月光茸』の採集】
【依頼主:アリア】
【報酬:薄謝】
【備考:難病の娘の食事にどうしても必要です。どうか、お力添えを】
『嘆きの洞窟』は、とうの昔にボスが討伐され、危険度が低い『攻略済みダンジョン』だ 。しかし、攻略済みダンジョンは旨味が少ないため、再探索する探索者はほとんどいない。おまけに報酬は『薄謝』。誰も手に取らないわけだ。
だが――。
『難病の娘のために』 。
その一文が、俺の胸に突き刺さった。
損得勘定で動けない。困っている人を見ると放っておけない。それが俺の悪い癖だった。
「……よし、決めた」
俺は誰に見せるでもなく頷くと、その古びた依頼書を握りしめ、受付カウンターへと向かった。
C級ダンジョン『嘆きの洞窟』は、その名の通り、まるで世界から見放されたような、静かで冷たい空気が肌を刺す場所だった。攻略済みというだけあってモンスターの気配はほとんどなく、俺の足音だけが不気味に響き渡る。
依頼の品である『月光茸』は、洞窟の最深部近く、月の光に似た燐光を放つ苔の上にのみ自生するという。分析動器のマップを頼りに、湿った岩壁を伝って奥へ奥へと進んでいく。
そして、依頼書の示すポイントへたどり着いた時だった。
「……え?」
苔の放つ青白い光の中に、何かが倒れているのが見えた。
近づいてみると、それは一人の少女だった。腰まで届く艶やかな銀髪は土埃に汚れ、着ているものはあちこちが引き裂かれている 。まるで、熾烈な戦いの後であるかのように。
そっと顔を覗き込むと、長いまつ毛に縁どられた蒼い瞳が、虚ろに俺を捉えた。
「…………おなかが、すいた……」
か細く、消え入りそうな声だった 。
その瞬間、俺の中の損得勘定も、恐怖心も、すべてが吹き飛んだ。
「だ、大丈夫か!? 今、何か食べられるものを……!」
俺は慌てて背負っていたバックパックを下ろすと、中から調理器具とありったけの食材を取り出す。幸い、保存食用の『ファイア・サラマンダーの干し肉』と、護身用に持っていた『癒やしの湧水』がある。
俺は少女の傍らで、迷わず携帯コンロに火をつけた。
手に取った干し肉に意識を集中する。すると、脳内に直接テキストが流れ込んできた。
【ファイア・サラマンダーの干し肉】
・火属性モンスターの肉を乾燥させたもの。
・豊富なタンパク質と微量の魔力を含む。
・『癒やしの湧水』と共に煮込むことで、硬い筋繊維がほぐれ、吸収効率が飛躍的に向上する。極度の消耗状態にある者への滋養強壮に最適。
これだ。俺の唯一にして最大の武器、ユニークスキル【グルメ鑑定】 。
俺は干し肉を細かく刻んで鍋に入れ、湧水を注いで煮込み始める。やがて、香ばしい匂いが湿った洞窟に立ち上った 。ゴクリ、と少女の小さな喉が鳴るのが聞こえた。
出来上がった即席のスープを木の器によそい、少女の口元へ運ぶ。
「熱いから、ゆっくり」
こくり、こくりと、スープが少女の喉を通っていく。すると、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。土気色だった彼女の頬にみるみる血の気が差し、虚ろだった蒼い瞳に、確かな光が宿っていく 。
あっという間にスープを飲み干した少女は、じっと俺の顔を見つめた。
そして、はっきりとした口調で言った。
「お前の飯は最高だ。今日から私を養え。対価として、お前の護衛になってやる」
「…………はぁっ!?」
今日一番の素っ頓狂な声が出た。
養え? 護衛? 今、この状況で?
俺が混乱しているのをよそに、少女はすっくと立ち上がると、その辺に落ちていた手頃な木の棒を拾い上げた 。
「行くぞ。依頼の品は、この奥だろ」
言うや否や、少女はずんずんと洞窟の奥へと歩き出す 。その背中には、さっきまでの弱々しさは微塵も感じられない。
「ちょ、ちょっと待てって! 奥はまだ未確認で……!」
俺は慌てて後を追った 。言葉の意図は全く掴めないが、一人にしておくわけにもいかない。
やがてたどり着いたのは、広大な空洞だった。洞窟の最深部。かつて、このダンジョンのボスが君臨していた場所だ。そして、俺たちは見てしまった。
グルルルル……。
空洞の中央で、低く唸り声を上げながらとぐろを巻く、巨大な影。討伐されたはずのボスモンスター、ケイブ・サーペント。
「リスポーンしたのか?! なんで攻略済みのダンジョンで……!」
ケイブ・サーペントが俺たちに気づき、鎌首をもたげる。絶望的な巨体と殺気。終わった。C級探索者ですらない俺が、ボスモンスターと遭遇して生き残れるはずがない。
絶体絶命かと思われた、その瞬間だった。
「邪魔だ」
少女が、ただ一言呟く。
次の瞬間、彼女の握るただの棒切れが、銀色の閃光を放った。
ヒュッ、と空気を切り裂く音。
それだけだった。
時間にして、一秒にも満たない。
気づいた時には、巨大なケイブ・サーペントの首が、胴体から離れて宙を舞っていた。あまりにも、あまりにもあっけない一撃。轟音と共に崩れ落ちる巨体を前に、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった 。
「……うそだろ……」
少女は血振りをするように棒切れを軽く振ると、何事もなかったかのように俺を振り返った。
「き、君は一体……?!」
俺の震える声に、少女は蒼い瞳を真っ直ぐ向け、静かに答えた。
「ユキ。他人からは――『剣聖』と呼ばれている」
これが、戦闘力ゼロの俺と、腹ペコ最強剣聖ユキとの、奇妙な出会いだった。