11話 図書館
朝、自然と目が覚めたリュミエールは、なんとも言えない不思議な気分だった。
森にいた頃は、木々のざわめきや鳥のさえずり、時にはどこかの鹿のくしゃみ(?)が目覚まし代わりだったのに。
今は、水音、遠くの鐘の音、人間たちの話し声。
「……環境音、ずいぶんと文明寄りになったなあ」
もう一度ベッドに沈みかけて、ふと今日の目的を思い出し、しぶしぶ起き上がる。
キッチンへ向かいながら、ぼそりとつぶやいた。
「おはよー……って、そういえばカイはいないんだった」
今朝は早くから、探索師の仕事で出かけたらしい。
街の周りを掘ったり、地下を調べたりして、魔石を探すのが任務だとか。
ただ、そう簡単に見つかるものではないようで――
「……あの時、師匠にだけ“見つけてきます!”って啖呵切って、勝手に森の奥に突っ込んだらしいし。
こっちからしたら、突然現れた新種の動物かと思ったよ……
結構無謀な事してたんだね…カイって」
ぼやきつつテーブルに目をやると、カイからの置き手紙があった。
朝ごはん置いてます。
森から持ってきた枝もあるので、使っていいよ。
図書館までの地図も置いときます。
「……しっかり者か……!」
ありがたく枝茶を淹れ、サンドイッチをかじりながら地図を広げる。
食事を済ませたあとは、皿たちを軽く水浴びさせながら、着替えと準備をちゃちゃっと済ませた。
いざ出発、と玄関を出る。
地図を片手に、ゆるりと街を歩きながら、リュミエールは初めての“人間の図書館”を目指した。
「……ここ、で合ってるよね?」
家から歩いて15分ほどの場所に、こぢんまりとした建物が佇んでいた。
少し緊張しながら、リュミエールはその扉をそっと開ける。
壁に沿って、本がびっしりと並んでいる。天井はやや低めだが、本棚はその高さまでしっかり届いていた。
いくつかのテーブルと椅子が置かれ、奥には階段が見える。二階もあるようだが、どうやら本は置かれていないらしい。
リュミエールは静かに本棚に沿って歩き出した。
ふと目についた本を手に取り、ぱらりとページをめくる。
指先で表紙をなぞると、ほんのりと湿り気があった。
――やっぱり、水の街だからかな。
本をそっと棚に戻し、再び視線を館内へと向ける。
中には二人ほどの人が静かに本を読んでいた。
誰かが入ってきたと思えば、誰かがそっと棚の前に立ち、本を選んでいく。
それぞれが自分の時間を大切にしている、そんな空気が、静かに、心地よく流れていた。
ふと目に留まった一冊の本を手に取る。
表紙はすっかり古びていて、ところどころ革がひび割れていた。
(きっと、エルフが関係してるなら、古い本のはず)
そんな予想を胸に、リュミエールはページをめくり始めた。
パタン――。
(……これは、創作だわ)
本にはこう書かれていた。
“エルフは雲の上に暮らし、人間の世界に舞い降りる。
やがて人間と心を通わせ、共に生き、そして恋をする――。”
エルフは空を飛べないし、雲の上で生活もしていない。
おそらくこれは、人間が抱く幻想や理想をもとに描かれた物語なのだろう。
(でも……人間がこんなにも、エルフに興味を持ってくれているなんて)
ほんの少し、胸が温かくなる。
けれど「今はそういう感傷に浸る時間じゃない」と、リュミエールは自分の頬を軽く指先で叩いて、立ち上がった。
次の本を探そうと視線をめぐらせたその時――
カーン、コーン、と、街の大きな鐘が鳴り響いた。
(……お昼の鐘?)
気づけば、周囲には誰もいなくなっていた。
それだけ夢中になっていたらしい。
リュミエールが静かに歩き出したその瞬間、本棚の影から小さな声がした。
「……あの」
声の主は、一人の少女だった。
「その本、どうでしたか? 古いけれど、私はとても好きなんです」
柔らかく微笑んだその少女は、栗色の髪にやさしいウェーブがかかっていて、腰まで届く長さをさらりと揺らしていた。
淡い色のワンピースをまとい、どこか夢を見ているような瞳でリュミエールを見つめている。
声は静かで澄んでいて、本の中で育ったような空気をまとっていた。
急に声をかけられて、リュミエールは驚いてすぐに返事ができなかった。
すると、目の前の少女が慌てたように口を開いた。
「わっ、ごめんなさい! 急に話しかけて……びっくりさせちゃいましたよね。
この本、すごく好きで……それに、お昼の鐘の前に皆さん帰られて、誰もいなかったから、つい……」
「あっいえ、こちらこそ。驚いて返事が遅れちゃって、ごめんなさい」
気まずさをやわらげるように微笑むと、少女はぱっと顔を明るくした。
「自己紹介、してもいいですか?
私、イリスといいます。本が大好きで、時間があればいつもここに来てるんです」
「リュミエールです。今日は初めて来ました。
この本、とっても素敵な話だった。
街の歴史や古い本も読んでみたくて図書館に来たんだけど……
もし、イリスさんのおすすめがあれば、ぜひ教えてもらえませんか?」
「ぜひ、イリスって呼んでください!
きっと、年齢も近いですよね……?」
「私のことも、リュミエールって呼んでね。イリス。」
リュミエールはにっこり微笑みながら、年齢の話題はそっとスルーしておいた。
まさか二千歳を越えているなんて、とても言えない。
それからしばらく、イリスが薦めてくれた歴史の本を眺めながら、他愛もない会話を楽しんだ。
本の話、街の話、お互いの好きなこと――気づけば時間はあっという間に過ぎていた。
そのとき、図書館のドアがそっと開き、控えめな声が聞こえた。
「……リュミエール」
振り返ると、入り口の向こうからカイが顔を覗かせていた。
「イリス、ごめんなさい。迎えに来てくれたみたい。
お話すごく楽しかったよ! また会えたら、ぜひおしゃべりしようね! バイバイ!」
「うん! リュミエール、またね!」
名残惜しそうに手を振るイリスに見送られながら、リュミエールは足早に図書館をあとにした。
「ごめん……もう、よかったか?
あまりにも遅いから、心配になって……」
「ううん!大丈夫!さ、帰ろ!」
そう言って歩き出したリュミエールは、帰り道で今日の出来事を話し始めた。
初めての図書館で感じたどきどき。
手に取った本が創作だったこと。
でも、それでも面白かったこと。
そして――イリスとの出会い。
とても話しやすくて、少し儚げな雰囲気をまとった女の子だったこと。
「本はまだ一冊しか読めてないけど、
エルフが書いた本がほかにあるかもしれないし、この街の歴史ももっと知りたいの。
だから、また図書館に行きたいな。イリスにも、会いにね!」
カイはうんうんと頷きながら、穏やかに言った。
「……楽しかったんだな。よかったな。」
カイと並んで歩く帰り道。
気づけば空は、ほんのりオレンジ色に染まっていた。
西の空には細長い雲が浮かび、そこに夕陽がじんわりと滲んでいる。
ミオルカの街を流れる運河が、その色を静かに映して、きらきらと輝いていた。
「……きれいだね」
リュミエールが足を止めてつぶやくと、カイも立ち止まって、空を見上げた。
「森とは、ちょっと違うな」
「うん。でも、こういうのも……いいね」
やさしい風がふたりの間をすり抜け、淡く湿った空気に街の香りが混ざる。
リュミエールは、胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じながら、小さく笑った。