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秋刀魚

掲載日:2024/08/08

 古代から続く暗闇が辺りを覆いつくし、さっきまで居たはずの場所をまるで様変わりさせてしまった。お前は連れ去られたのか、はたまた自らの意思でここに移動してきたのか、一つも思い出すことができない。定義されていない行為であるかのようにお前の記憶は完全に停止している。暗闇のなかお前は記憶を辿れない代わりに、自分の両手を前に出して見比べてみるが、おかしい。暗闇にいるはずが両方の手のひらは、そのシワまでくっきりとお前の視界に映っている。他の部分に関しても自分の体ならすべて目で確認可能だった。まるでお前こそが場違いだと告げるように、視界を上げた先に、巨大なサンマの骨が姿を表した。その目はお前の全身を見据え、もはや逃げることはできないだろう。先を見透かす霧のようだった声が、はっきりとした振動を帯び、じきに形を成してお前の鼓膜にまで届きはじめる……。

「半端な堕落よ。お前こそがこの暗闇に空いた穴なのだ。」

 半端な堕落……、それがお前の名前なのか。変な名前だ。苗字と名前の区切りさえ失ってしまったとはな。これでは平穏な暮らしはできまい。ほら耳を澄ましてみろ。以前に会ったことがあるのかないのか、初対面の人間の苦笑いが聞こえてくる。「えっと、これってどこまでが苗字で、どこからが名前なんですか?」。勘違いするなよ。当人のお前は笑ってもらえるだけマシだと思わなくてはいけない。お前なら自分と知り合いたいと思えるのか。普通こんな名前、事前の名簿をみただけでも逃げだしたくなるぞ。なあ、半端な堕落よ。

「お前がここまで堕ちたのも、単なる偶然に過ぎんのだ。ここはお前ごとき、いや命を持った人間ごときが足を踏み入れるような場所ではない。しかし堕ちたものは堕ちた。私はその対処を伝えるためにここに参った。ところで、帰るにしてもそれなりのエネルギーが必要になることくらいは理解できるだろうか。」

 代償、というわけだ。お前は記憶もないくせに、なぜか嫌な予感が背中を走った。連動して頬に冷や汗が伝う。なあ、お前が失って困るものってなんだ。金か? ポケットに手を入れてみるが金はおろか財布すら持っていない。なら酒か? もちろん酒瓶も紙パックも持っていない。その残骸が暗闇に散乱している気配もない。ならお前の内臓ごと、このサンマの骨に食われるかもしれないな。どうやらお前の体内にはまだ処理の終わっていないアルコールが眠っているみたいだ。肝臓が激務に悲鳴をあげている。

「薄々気が付いているのだろう。お前の目が覚めるより前に、お前から記憶を頂いておいた。どれも何の価値もない記憶ではあったが、装置の燃料くらいには利用できる。この点に問題はない。どんな偉業を成した人物の記憶であっても、エネルギーへの変換という観点からすればすべて等しいからな。だが気をつけろ。帰ってからお前は、記憶の欠乏に苦しめられる。記憶にだって内圧くらいあるのだ。それが一瞬にして引き抜かれたのだ。そんなこと、物質世界ではイレギュラーだろう。」

 下手したら空気圧と自分の頭蓋骨に踏みつぶされるかもな。もう一つ気を付けろ。その辺で発狂なんかしても誰も助けてくれない。技術的に助けようがないし、それにお前の名前は半端な堕落だからだ。顔つきが名前の通りの発達を遂げている。誰も近寄りたくない。口から絶えず放射されつづける悪臭を除けば、お前など何もないようなものだよ。お前はぬかるんだ泥の上を歩いたって足跡すら残らない。立体道路の下で発した叫びも、自分で付けた切り傷さえも、永遠に何も残らない。お前はこれからもずっと世界と干渉することができない……お前の所有する体でさえ世界の一部に含まれているというのに……。


 光の束が視界一杯に、方向の乱気流によって僕は眩暈を起こした。辛うじて倒れ込むことはなかった。ガラスケースの奥、三十年前に絶滅したサンマの化石が展示されている。さっきまでの夢はコイツのせいなのか。後方から視線を感じる。

 二人の子供が僕をじっと見ていた。上等な服を着ている、これが第一の感想だった。企業所有区域(ペット)の連中とは訳が違う。化学繊維でない動物からとれた素材を使っている丈夫で、品格を感じる服だ。つまりこの二人は富裕層の子供なんだ。博物館なんか連れてきてもらっている富裕層の子供は、汚れたものをどこか欲している。周囲が隠しきれていない何かに、好奇心は感づいているから。早熟過ぎる性欲と同じく、あてもないまま親の背後にある汚染された事柄を四六時中想像しているからなのか、僕から一切目を離さないでそこに立っていた。周りには他にたくさんの展示があるだろう。お願いだ、見ないでくれ。僕は遅れてやってくる頭の痛みに気づき始めていた。


 しどろもどろになって、走ろうと前後する足がおぼつかない言語のようだった。

 僕とすれ違う人はみな、誰もが気にかけ、誰も手を差し伸べることはなかった。僕はそれが当然だということを知っているような気がした。だがそれがどっちの立場にいて気づいたことなのかは、思い当たる記憶を持ち合わせていなかった。正直、吐かせてくれればなんでもしたと思う。今は昼間だった。僕には白昼堂々、道端で吐いてしまう野蛮さがまだ育っていなかった。つまり以前の僕はけっこうまともだったのかも、そう推理するのは早計であり、そういった経験ごと吸い取られている可能性だって捨てきれない。僕はどこまでも疑心暗鬼の千鳥足だった。だいたいあんな夢みたいなこと、なんで僕は信用しているんだ。確かに今の状況の原因としてはマッチしているのだが、僕なら、飲み過ぎで倒れてしまっただけの線だってあるはずだ。ほらみろ。いつまでも可能性の域から出て行きたがらない。結果、なにも行動を起こさないための言い訳だけが増える。典型的すぎて言葉も出ない。もはや真実は、吐かせてほしいという体の訴えくらいしかないように思えた。でも吐けないのは……思考は堂々巡りのあいだ、街はどこまでもつづく迷宮のようだった。あるいはこの街は、時間ごとに拡大を続ける宇宙なのかもしれない。街を覆う人工複層膜(デザート・ガーゼ)を越して、外の灼熱が居住スペースに迫りつつある。この事態を、街の誰か一人くらい気づいているのだろうか。僕は声をあげるべきか迷った。迷いながら街を這いまわり続けた。

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