86、血溜まりの聖夜
クロザキの隠れた4階建て、廃ビルの最上階。割れた窓ガラスを欠片残さず溢れ出た濁流が押し流し、波濤の飛沫は消失する。その跡に残るは噛み砕かれた肉片、ヒトだった残骸。如何に精鋭の着る強化外装と言えど、超質量の海坊主の咬合力を前にしては金平糖のようなもの。死んだ事にすら気付く事も出来ずに混沌の中ヒトの形を失う。
「ヒッヒッヒ‥やはり、庇ったか。」
ニビの視線の先、全身を濡らしたヨンビは憎々しげに睨み付けていた。具現化した4本の尾の内、3本が力を失い消失する。そしてヨンビの背後、クロザキが状況を把握しきれずに濡れた頭を拭っていた。
「貴様‥!」
「何故ワシがこれ程の大技をポンと繰り出せたと思う?ヒッヒ‥精々足りない頭で考えるんじゃなぁ。」
話ながらもニビはスマイル経由で連絡を送っていた。全体の戦況は優勢。胡蝶之夢の面々が敵側の幹部を潰し、アゴーニの構成員達がクロザキ組と他勢力の兵隊を叩いて前線を押し上げる。既にこの辺りにも胡蝶之夢の精鋭が集っていた。
「お前は‥何者だ?」
クロザキの問いにニビは顎を指で摩って答える。
「ヒヒヒ‥ヨンビのお仲間じゃ。言う事聞かない駄々っ子を連れ帰りに来たものの、見ての通り貴様に懐きおってのぅ。」
クロザキの視線にヨンビは舌打ちで返す。
「貴様らはペットだ。愛玩動物に愛着が湧いたとして何が可笑しい。」
「ワシらの主の命に堂々と逆らってまでお主と運命を共にする気なのじゃぞ?ヒッヒッヒ!」
嘲笑するニビは言で時間を稼ぎつつも、袖下からこそっと這い出した蛇が音も無くクロザキへ飛び掛かった。ヨンビの放つ衝撃波が蛇を落とし、しかしその口腔から突き出した女の細腕がゴツいマグナムの銃口をクロザキへ向ける。
海坊主に噛み砕かれ、クロザキ自身が負った致命傷はヨンビの術で“無かった事”にされた。しかし強化外装の破損はそのまま。ヨンビは強化外装の仕組みに精通しておらず、あくまでガワを整えただけ。もし仕組みに精通していたとしても、元通りにするには術が作られた時代があまりにも古すぎた。
クロザキの頭部の守りは何も無い。ヨンビも銃弾以上の速度で動く事は出来ない。クロザキの眉間を捉えた重厚な発砲音は果たして────
一筋の光が通り過ぎ、ニビの上半身は蒸発していた。
銃口が向いた時点でクロザキは奥の手を躊躇いもなく使っていた。動かすだけでも巨額のメンテ費用を発生させる金食い虫。この戦いでは出来れば使いたく無かった。動向の怪しいタマシティの企業がこの混乱に乗じて何かしてくる事はクロザキ自身予想がついていたし、その時の切り札にするつもりだったのだ。
だが詰みとも言える状況を前に即断。クロザキの体は呼び出された巨大な機体のコックピットへ、ビルの天井を突き破って現出した十mのバトルアーマー。全身に光学兵装を積んだそれはムライ・バトルマギテック社製、T-557 ハクホウ。マグナム弾をBB弾程度に弾き、代わりに腰の光学砲が青白いレーザーを発射する。
ニビは血の一滴も吹き上げずに、ふらついて倒れ‥その体が突然モゴモゴと蠢き出し無数の鼠となって四散する。
ヒッヒッヒッヒッヒ‥
不気味な笑い声が空間に木霊し、クロザキを呪った。
「ぐ、ウァァァァァァアアアア?!」
強化外装が既に無く、痛覚に対する備えが無い。足下から這い上がる無数の蟲の気配。ムカデの牙が皮膚を裂き、内部に潜り込み肉を食い千切る。感覚的にだけ存在するムカデの群れに群がられる激痛はクロザキを吠えさせた。
しかし、その目は光を失わない。
強化外装によって長年痛覚とは無縁の生活を送ってきた。屈辱に心が痛んでも無痛の体はウンともスンとも言わず。この不快感、激痛はまさにクロザキに生を実感させていた。
(そうだ!何を手札を出し惜しんでいたんだ俺は!今戦争してるんだろ?!殺し合いにマジにならなくてどうすんだクソが!!組長として見下ろす事に慣れちまったクソヤロウが!)
「クロザキ!今解呪を!」
印を組むヨンビは大気を真っ直ぐに裂いて進む質量を察知し視線をやる。妖狐としての動体視力は弾丸すら視認するが‥それは不可視のナノマシン。
そこにあるのに見えない違和感に一瞬の動揺。クロザキに意識を引っ張られている間に頭部を殴り抜かれ、半回転錐揉んだ後に地面に這いつくばった。
「あらあら?よそ見しちゃダメよぉ。貴女は私の獲物なんだから。」
見上げた先、黒いベールで顔を隠した少女がクスクスと笑っていた。
「ヒト風情が‥!」
ヨンビの放った衝撃波は不可視のナノマシンに防がれ互いの殺意が宙で交差する。
コックピットのクロザキは突如として鳴った警告音に、機体を翻して飛び退いていた。何処からか錐揉み回転で突っ込んできたそれは超質量の弾丸。クラスA規格の質量兵器に匹敵する重量物が僅かに機体を掠め、その装甲板の一部を粉砕した。
見上げた先、重厚なマントを翻して目元を見せた赤の魔女。ルーフスはヘビーカーボンマントの下から銃口を覗かせた。それは片手で御するのは無謀に見えるガトリング砲。大口径のそれを、二丁。両手に二つの砲門を携え怪力と強化外装の出力、そして全身の超重量に任せて発射する。
旋回して回避行動を取るクロザキのすぐ側を破壊の暴風雨が降り去っていく。蹴飛ばされた砂の楼閣の如く建物が原型を損ない消えていき、着地したルーフスは再びその身を弾丸の如く、クラスA規格の強化外装の出力任せに飛び出した。
一瞬の爆発的な跳躍力に性能を全振りした突進は一撃必殺の凶弾と化す。クロザキの光学砲もその速度を捉えきれずに掻い潜られ、互いに致命の一撃が入らないまま戦いが激しさを増していった。
うぞっ‥と蠢く影は鼠の塊。そこから這い出たニビは元の白装束のまま、眼下の戦いを見下ろす。この騒ぎに周辺のクロザキ組が集まってくるのは必然。アゴーニの兵隊が各地で奮戦するものの、そもそもの物量はクロザキ組の方が大きい。そこにクロザキ組以外の組織の兵隊も合わさるとこの戦いにどんな邪魔が入るか分からない。
「あまりワシらが人界の争いに関わるとミケは嫌がるじゃろうが。ま、ワシはラフィの味方故もう少しばかり力を貸してやらんでもない。」
ニビは袖下の収納から溜め込んでいた大量のグレネードをばら撒いた。至近距離でまともに受ければバリア装甲越しでも危うい危険物。それを小さな手で器用に持って運び出す無数の鼠達。ニビが片手で指示すれば一斉に散って暗がりの中を駆け巡る。
「ヒッヒ‥良きかな、良きかな。悪戯は妖の性、じゃ。」
「結局クリスマスもシフトかよ‥クソ。」
タマセキュリティ、ダンジョンゲート基地。チラチラと降り始めた雪を仰ぎ見る隊員の一人がぼやく。別に大した仕事じゃ無い。ダンジョンゲートを警備するだけ。とは言っても怪物が上がってくる事もなく、ここ暫くは不気味な程静かだった。
地中深くに根付いたダンジョンはアリの巣型ダンジョンで知られる、ダンジョンコアまで続く地下坑道。その入り口の中、把握しているものには全て軍事基地で蓋がされていた。こういうタイプのダンジョンは何処か知らぬ場所に入り口を覗かせる事があるが、定期的な地中ソナー探査によってその全容を把握され続けている。細いものはともかく怪物の大軍団が移動できるレベルのものとなれば、タマ生命も見逃す事はそうそうなかった。
‥表向き、は。
ここに魔王が居る事を知るのはタマ生命の上層部の人間のみ。警備員の中で把握している者は居ない。勿論開拓者試験での事故で嫌な予感を感じとった者は少なく無いが。
魔王の存在するダンジョンの成長はより急速であり、魔王前提の管理をされていないこのダンジョンは、既に水面下で制御不能となっていた。しかし上層部は魔王との密約があれば制御権を取り戻せると踏んでおり、正直このダンジョンの今の暴走状態など誰の関心も無かったのである。
ゲート前、傭兵は静寂の中スマイルの画面に意識を飛ばしていた。その場にいる10人以上の警備員の誰もが、強化外装に立たされたまま虚空に浮かぶホロウインドウで暇を潰している。
「おい、前のアングルスのあれ。雪合戦だったか?見ただろ?」
「シャインマスカットさんの配信見たわ。最後ガキに負けてて笑ったわ。」
「あんなガキ、本職の俺らと比べたら大した事ねぇってのに。‥知ってるか?毎晩お水の姉ちゃんを侍らせてるらしいぜ?」
そんな雑談を咎める者は居ない。警備主任である男は近くの主任室でFDVRゲームの真っ最中だった。周知の事実、だけどどうでもいい。寧ろ鬱陶しい上司の目と耳が塞がれてれば好きに寛げるのだから。
「バッカお前。あのガキの動き見てなかったのかよ。雪玉とは言えあんなポンポン素通りさせて躱せるってか?」
「こんなクソボロ強化外装じゃ無けりゃ俺だって。」
現役の開拓者でなければ怪物と直接交戦する機会は少ない。都市の防衛の大半はAI制御のバトロイドが担う上、そもそも一定以上の大きさの都市に怪物は近付かないのだ。だからこそ多くのヒトは誤解する。
怪物は極めて原始的な本能に従って動く野生動物みたいなものだと。
ゲートを守る彼らも、電灯に照らされたダンジョンの奥へ続く坑道に背を向けている。一日中あんな薄暗い変わり映えの一切ない坑道を凝視して警備するだなんてありえない。このゲートへ怪物が上がってきた事案は5年間の間一回も無かった。
チカっと揺らいだ電灯が影を映し出す。訓練された軍隊のように息を殺し、音も無く怪物の群れが坑道を這い上がって来ていた。速度を重視した犬型。頭部からヒートブレードを生やした群れが一斉に飛びかかれるよう配置についていく。
本来坑道内の一定地点に怪物が侵入した場合、監視カメラとセンサーによって警報が鳴る。
ただ、魔王が君臨するダンジョンに於いてそんな物はなんの役にも立たない。監視カメラも、センサーも既に魔王の胃の中。ダンジョンの全ては魔王の手のひら、邪魔な警備システムを除去する程度造作もない。
警備主任室、監視カメラの応答が全て途絶えている事に主任は気付かない。その意識はゲームの中。
ゲートを守る警備兵の誰もが沈黙した警報を頼りに背を向けて談笑する。数秒後には血肉の塊となって咀嚼される運命とは知らずに。
クリスマスのこの夜。全てのタマ生命の基地が瞬く間に沈黙し、前代未聞な規模の収容違反が発生する。怪物達の視線の先にあるのはアングルス、そして────