最後に見たもの
(……思えば、あれからずいぶん時が流れたんですね)
外では常に無表情の鉄仮面を被っている彼が、あれほどまでに顔の造形を崩すことは滅多にない。ちまたでは〝氷雪の王子〟とまで言わしめているくらいだ。
だからリュシーも、ラファエル・ログレッタの仮面を被るときは感情を消す。心を削ぎ落とし、男になりきる。そこにリュシーの人格はいっさい必要ない。
そうして生きてきたからか、リュシーは自身がいつも曖昧だった。男と女の狭間に存在しているような気がする。年頃の女の子である自覚は、露ほどもない。
「それじゃあ、いただきます」
ひとこと断りを入れてから、パサついたパンをちぎり、これまた冷え切ったスープにつけて口に運ぶ。
使用人よりも質素な気がしなくもないが、別段、気にしない。
なにより、与えられるだけマシなのだ。たとえ餓死しない最低限の食事でも、行動範囲は限られているし、生きていけるのならなんの問題もないのである。
「……美味いか?」
「はい、美味しいです。今日のスープは、珍しく塩気や苦味があって」
いつもはほぼ白湯なのに、気まぐれで味付けしてくれたのだろうか。それにしてはいささか苦味が強い気がするし、単なる嫌がらせかもしれないけれど。
まあ、どちらでもいい。
「…………、……そうか」
ラファエルは一時、それこそ部屋から出られないほど弱りきっていた。
そんな彼がこうして城を歩き回れるほど快復しているのは、やはりリュシーとしても感極まるものがある。成長と共に身体は丈夫になっていくだろう、と本人の口から聞いてはいたが、どうしても心配は拭えなかったから。
(それにしても浮かない顔ですね。なにか思い詰めていらっしゃる……?)
話があると言うわりに、なかなか切り出そうとしない。
だからといって急かせるわけにもいかず、リュシーは黙々とパンとスープを腹のなかに落としていく。
慣れ親しんだものだ。食事など作業的なものだった。
残り一口、となったところで、ようやくラファエルが「リュシー」と口を開いた。
声音はどこか鉛のように重々しい。きた、とリュシーは内心身構える。
「リュシーは、外に出たい?」
「……へ?」
「外の世界を見てみたいと思ったことは、ある?」
あまりに突拍子もない問いかけに思考が止まり、リュシーは持っていたパンをぽろりとスープに落とした。最後のひと欠片がずぶずぶと汁を吸いこみ沈んでいく。
──外の世界、と彼は言っただろうか。
「……ええと、それは、どういう」
「そのままだ」
突然そんなことを言われても、とリュシーはさらに困惑する。
外の世界が気になるかと言われたら、それはもちろんと頷くことができる。
だが、出たいか、見てみたいかと聞かれたら、すぐには答えられない。なぜならそれは到底叶わぬことだからだ。妄想の話ならばまた別だが。
(考えないようにしてきたことなのに、どうしてそんなことを──)
生まれてこの方、リュシーは自由を持たぬ身だった。
唯一この尖塔から出ることができるのは、ラファエルの影武者を務めるとき。
たしかに、その際に見る束の間の景色には感動した。
無機質で単調な土壁が視界に張り付いているリュシーにとっては、外界のなにもかもが眩しくて、まるで幻想郷のごとくひどく光輝いて見えたのだ。
されども、やはりそれは、いっときの泡沫のような夢に過ぎない。
(どこにいたって、私の身体には鎖がつけられているのに)
リュシーはその先を望めぬ者だから。
どうしたってその先に行くことはできない運命のなかにあるから。
「……私、は……」
けれど──憧れがないかと言われたら、嘘になってしまう。
答え淀んで、最適な言葉を見つけようともがきながら、なんとか声を絞り出す。
「知らない世界を、知ってみたいと……思ったことはあります」
景色も、香りも、音も、人々も、なにもかも。
この閉ざされた牢の外は、リュシーの知らないものばかりなのだろう。知識はあれど、この身に体感したことがないことは、やはり想像がつきにくい。
だから、知りたいとは思う。
でも、いざ知ってしまったら、きっとここに戻ってくることがつらくなるから知りたくない。そんな矛盾した思いが目まぐるしく錯綜する。
「……そうか」
ラファエルがおもむろに立ち上がった。
リュシーはどこかぼんやりとした心地で視線を遣り、瞳を揺らす。
(……だって、私は影武者で……それ以外を、望むのは……)
彼が近づいてくるにつれて、だんだんと視界が霞んできた。あれ、と奇妙に思って目を擦るが、そのあいだも意識は急速に混濁していく。
どうしたのだろう。頭が、思考が、上手く回らない。
「──すまない、リュシー」
「……にい、さま……?」
「僕ではおまえを守ってやれないから」
ストン、と。耐えきれず傾いた体が、ラファエルに吸い込まれる。なにが起こっているのかわからず、力を振り絞りながらなんとか顔を上げて息を呑んだ。
ラファエルは、静かに泣いていた。
「……恨むなら、恨め」
どうして、と声にならない音が切なく喉を掠める。
ガチャリ、と扉が開く音がした気がするが、四肢の感覚が痺れてそちらに顔を向けることすらできなかった。
「上手くいきましたか、殿下」
「……ああ。薬はちゃんと効いてるみたいだ」
全身が重い。目を開けていられない。頭が殴りつけられるように痛い。まるで水の底に深く深く引きずり込まれるように、意識が彼方へ遠のいていく。
「……に……さ、ま……」
途絶えゆく世界で見たのは、ひどくつらそうに濡れた自分と同じ色の瞳。
それがリュシーが意識を失う前に見た最後の記憶だった。