いつもの食事
そのへんの枝木で組み立てたような簡素な寝台と机しかない室内だ。
当然のごとく絨毯も敷かれていない。一国の王太子殿下を安易に座らせられる場もなく、リュシーはその場で逡巡する。
しかしそのあいだにも、ラファエルは自ら奥へ進んでいってしまう。
今にも折れそうな板張りの机の上にトレイを置き、彼はくるりと振り返った。
かと思えば、おもむろに両腕を広げて。
「リュシー」
ただひとこと、名を呼ばれた。
おいで、と。そう言われたような気がして、リュシーは考えるよりも先に、ラファエルの胸のなかへ飛び込んでいた。だいぶ勢いをつけてしまったが、ラファエルはよろけることなく受け止めてくれる。
「ねえ、いつものように呼んでよ」
「……はい。兄様」
久方ぶりに感じる人の温もり。鼻腔を擽る大好きなラファエルの香り。それだけで積雪のように固まり冷えきっていたリュシーの心は解され、瞬く間に癒されていく。
ずっとこうしていたい。
だが、どうしても気がかりなことが先立って、リュシーはその願望を押し留めた。
抱きついた状態のまま、おもてだけ上げておずおずと尋ねる。
「兄様。しつこいようですが、本当にお身体は大丈夫なのですか?」
その問いかけに、ラファエルは一瞬だけ切なそうに眉根を寄せる。
けれど、すぐにこくりと頷いて、優しくリュシーの頭を撫でてくれた。髪を通してでもわかるほど手先が冷たいが、それは昔からなのであえて触れない。
「僕は大丈夫だ。最近は調子もいい」
その言葉から偽りは感じられなかった。ほっと胸を撫で下ろす。
「よかった。その、食事を持ってきてくれる侍女たちもよく口にしているんです。最近、ラファエル様のお身体が丈夫になってきたって」
ラファエルは、生まれつき身体が弱い。今でこそマシになりつつあるようだが、幼い頃は十歳まで生きられるかどうか……と危惧されていたくらいだ。
それゆえに、公務もままならないことが多々あった。
そんなときに駆り出されていたのが、外見が瓜二つであるリュシーである。彼の代役、つまりは影武者として働いたのは一度や二度ではない。
ここ数年はラファエル自身が動けるようになってきたからか、はたまた互いに成長して影武者が成り立たなくなったからか、リュシーの出番はご無沙汰なのだが。
「……そう、だな。昔に比べたら、生きやすくはなってきたような気もするよ」
「本当に、本当によかったです。だって私、ずっと願ってましたから」
影武者としての価値がなくなる。
それはリュシーの存在意義が否定されているも同義だ。
けれど、決して悲しいことではない。むしろ心の底から喜ばしいことだった。
たとえこの小さな檻から出ることができる唯一の瞬間がなくなろうと、自分が最も大切に想う相手が元気に過ごしてくれるのならば、それ以上の幸福はない。
リュシーは本気でそう思っている。──たとえそれで消えゆく運命だとしても、ちゃんと役目を終えたのだと〝死〟を受け入れることができるだろう。
そう、きっと──。
「僕のことはいいから、食べなさい。お腹がすいただろう?」
「えっ、でも……」
「食べながら、少し話がしたいんだ」
ラファエルはなかば強引にリュシーを椅子に座らせると、自らは少し離れた寝台に腰掛けた。ぎしり、と今にも壊れそうな軋み音が閑寂な室内に響く。
(……あっという間に距離ができてしまいますね)
心にすっと冷えきった風が吹く。寂しいが、とても言える雰囲気ではない。しゅんとしながらも、リュシーは言われた通りに冷え切ったパンを手に取った。
「にしても……少ないな」
「そうですか? 私には十分ですよ。ほとんど動きませんし」
そういえば、以前もこんなことがあった気がする。
たしか、ラファエルが初めてここに訪れたときのことだ。与えられたリュシーの食事を見て、彼はひどく驚いていた。
それだけか、と尋ねられて、十分です、と笑って答えたのだ。そうしたら、ラファエルはなぜか、苦虫を噛み潰したような顔をして。
変だと思った。王族と囚われの身の人間の食事が異なるのは当然のことなのに、そんな哀れみはあまりにおかしな反応ではないかと。