8.恋人
「ヤスくん……」
恋人の家は、私のアパートから十分ほど歩いた所にある。
学生向けの小綺麗なマンションの一階だ。オートロックはなく、外向きに部屋が並んでいるため、男子学生ばかりが住んでいる。
インターホンを鳴らすと、がちゃりとドアが開いた。不用心なところが彼らしいと、胸がいっぱいになった。
恋人の井口靖人は、私の姿を見とめると、きりりとした切れ長の目を一瞬見開いた。
それから不機嫌そうに眉根を寄せた。
「帰ってほしいんだけど」
「え?」
「おまえん家行ったらいないし、電話しても出ねえし。なんなの? ふざけてんの?」
「私……」
でも、いろんなことがあったんだよ。
怖かったし、――心が何度も折れそうになったし、早くあなたに会いたかった。
だから、とにかく急いだんだ。
そんな言葉を伝えられるはずもなく、説明のしようがなくて、私はその場から動けずにいた。
「とりあえず、もうおまえとは会いたくないから」
靖人は苛ついた様子で頭をがりがりとかいた。
けれど、どうしてだろう。視線が時折後ろのほうに向かっている。
「――心配、してくれたりとか……なかったの?」
よせばいいのに、口からそんな言葉が出ていた。
靖人の顔はますます不機嫌そうに歪み、「はあ? 迷惑かけといて何言ってんの」と辛辣な言葉が投げつけられた。
「とりあえず帰れよ」
靖人は突き放すように言う。
私はすがるような気持ちで彼の顔に目をやった。
彼の瞳からも、声音からも、たしかにあったはずの熱が消えていた。
それどころか、まるで地を這う虫を見ているようだ。彼の三白眼には嫌悪の色が浮かんでいた。
そのとき、気がついた。
彼の肩越しに見える部屋の中は、前に来たときとずいぶん様変わりしていた。住んでいる人間が変わったかのように。
私の家で過ごすことがほとんどだから、前に来たのは結構前になる。でも、ここまで変わるものなのだろうか。
「ヤスくーん、どうしたの?」
鼻にかかったような甘い声が聞こえ、小柄な少女が顔を出した。
靖人がちっと舌打ちをする。
ふわふわとしたピンクブラウンのボブヘアに、猫のような赤銅色の瞳を持つ、甘い雰囲気の少女だった。
彼女は私を見ると、一瞬ひっと息をのんだ。
それから不快げに眉を寄せて、靖人にすり寄った。
「このオバサンだあれ?」
「こいつは……」
靖人は言葉を濁した。
しどろもどろになりながら顎に触れている。どう答えるか悩んでいるらしかった。
私はどうしていいかわからなくなって、そこから動けずに、はっはっと浅い呼吸をくり返した。
気疲れもあったのだろう。足元がふらついた。
倒れる、――そう思ったとき、誰かが私の体を抱きとめた。
「千風さん」
それは知らない声だった。
甘い艶けを含んだ低い声。それなのに、この人を知っていると、直感が言っていた。
「こんな所にいたんですね。探しましたよ」
そのまま腕を回されて、くるりとその人に向き合う形になる。
そこには、私より頭ひとつ分背の高い、信じられないくらい美しい男の人が立っていた。
「え? あの……」
年のころは私と同じくらい。二十代半ば。どこかアンニュイな雰囲気のある、中性的な人だ。
この国ではありえない、月光のような銀色の髪。
どこまでも澄んだ水に映る秋の空のような、淡い水色の瞳。
「さあ、帰りましょう。
夕飯できてますよ。千風さんの好きな、エビの入ったサラダも作っておいたんです」
彼は凄みのある笑顔で言った。
「――レンヴァント……?」
私がぽつりとこぼすと、彼は破顔した。
落ち姫ツィスカと贄の王子は、こうして再会したのであった。