7.落ち姫は、還る
もしも、――もしもやり直せるなら。私はあのときの願いをなかったことにしたい。
時はベチルバード王国に喚ばれたその日に遡る。豪奢な部屋で、狐目の従者ゾロとレンヴァント王子に出会ったとき。
ひと通りの説明を、どこか他人事のように聞いていた私が、体を動かすなにかに抗ってなんとか口にしたこと。
隣にいた猫は気がつくと消えていて、開け放たれた窓からは、甘い花の香りが風とともに吹き込んできていた。
部屋の中には私たち三人だけ。
けだるげに出窓でくつろぐゾロと、ベッドのそばに跪くレンヴァントがいて。
「――元の世界に、帰してもらえるのですか」
私が恐る恐る聞いたのが、その言葉だった。
ふいに現実味を帯びてきたというか、凪いでいた心に一気に感情が戻ってきたようになって、私の声はたぶん、震えていたと思う。
レンヴァント王子は、ぴりりと緊張した顔をしていたが、張りつめていた雰囲気をほっと緩ませると頷いた。
「ええ。歴代の落ち姫も、皆、元いた世界へと送られています」
「それは同じ時間に戻れるのですか? それとも、どこに落ちるかわからないのですか」
レンヴァントは申し訳なさそうに眉を下げた。
この時の私は知らなかった。落ち姫を迎える代償があったことに。
私は何も知らずに、残酷な願いを告げた。
夜、嫌な夢を見てはっと飛び起きた。
先ほどまで隣に寝ていた猫の姿がない。それからなぜだか寝つけずに、裾の長い夜着をひたひたと引きずって、バルコニーに出た。
季節はたぶん、秋。ひんやりと涼しい夜。
住み慣れた東京の夜とは違う、本当に真っ暗な夜だ。
なぜだろう。まるで眼鏡をかけたように、世界がくっきりと見えるようになった。自分の身体が自分だけのものだというような感覚がある。
虫の生態は同じなのだろうか、聞きなれた夜の虫たちの声がそこかしこで切なげに響いている。
城は丘の上に建っているらしく、下の方にずらりと夜の街が見える。卵色の光がゆらゆら揺れるようで美しい。
──そして。空には爪のように細い、二つの月。
ここが違う世界なのだと、改めて自覚する。
ふと鳴き声がして、振り返るとどこにいたのか巻き毛の猫がそばにいた。ニャオンと短く鳴きながら、頭をごつんと私の足に擦り寄せてくる。
両脇に手を差し込んで、猫をそっと抱き上げる。
いつもの私なら、きっと泣くんだと思う。でもどうしてだか、強い感情が出てこない。
あの人は、突然消えた私を見てびっくりするだろう。早く帰らなくちゃ。
そう決意して、すぐに旅に出た。
あっという間に月日は流れた。空羊の巻き毛に絡み取られた私は、何が何だかわからぬまま、色と光の洪水の中を駆け抜けて、──気がつくと1Kの自宅に戻ってきていた。
ふわりとベッドの上に落とされる。一瞬、ここがどこだかわからず、認識するまでに時間がかかった。
ピントを合わせるようにここがどこなのか気づきはじめ、そして、私ははっと息を飲んだ。
巨大なはずの空羊が、リボンをほどくようにしゅるしゅると縮んでいったのだ。そして、空羊は変化した。
旅の間じゅうそばにいた、小さくて太った巻き毛の猫、シャンプーに。
頭の中が整理できずにいると、空羊は、姿勢をただした。
「ツィスカ、──ううん、ここではチカゼだよね。おつかれさま。長い旅をありがとう」
先ほどの感じからすると意外なほど丁寧に、空羊は言った。そして、とてとてと歩いていき、どこかへ消えた。
「終わった……?」
──こんなにも呆気なく。
たった今まで底にあった現実が、こんどはまるで夢のようで……。
私はくたりとその場に座り込んだ。
長い長い物語を読み終えたときのような喪失感があった。
立ち上がろうと思ったが、疲れているわけではないのに動けない。
声にならない叫びのようなものが胸の中を暴れまわっていて、ひどく息苦しい。
すっかり身内のように思えるようになった子どもたちを脳裏に浮かべながら、床に突っ伏すようにして、私は眠りに落ちていった。
目を覚ますと、部屋の中は薄暗くなっていた。
「今はいつ……?」
胸騒ぎがして部屋の中を見渡すと、スマホが落ちている。慌てて手に取ると、記憶にある日より十日ばかり過ぎていた。
あれは確かクリスマスイブの夜だったはず。──向こうに行っている間に、年が変わっていた。
ほっとしつつ、ぽちぽちと中身を確認していく。
メールや通知が溜まっていたが、ほとんどが宅配便の不在通知だったり、登録した覚えのないメルマガだったりした。
心配してくれる友人からのメッセージも、――恋人からのものもその中にはない。あの夜に取れなかった電話がいくつもあっただけ。
翌朝からはなんの音沙汰もないようだった。
私はのろのろと起き上がり、鈍く痛む頭を押さえながら浴室の扉を開ける。それから熱いシャワーを浴びた。
ひと心地ついたら猛烈に喉の乾きを感じた。
冷蔵庫は開けたくもなかったので、――あのとき作っていたシチューがおそらく入っている――、とりあえずお湯を沸かして、冷ましながら少しずつちびちびと飲んだ。
うっすらと化粧をほどこし、ワンピースに着替えて、私は家を出た。
もしかしたらこの扉の向こうに、あの世界がつながっている……なんて妄想をしてみたけれど、そんなことはまったくなくて、見慣れたコンビニの看板が煌々と明るく光っているだけだった。
冷たい空気にぶるりと震え、そのまま部屋の中へ戻る。
向こうの世界では、今、ちょうど夏だったから薄着で出てしまった。
厚手のワンピースに着替え直し、もこもこに着ぶくれて、それからもう一度、外へ。
コンビニ、歩道橋、ドラッグストア、バス停……。見慣れた景色がだんだんと私を現実に引き戻してくれた。
いつしか悲しい気持ちは薄まってきて、私は少しずつ恋人の家へと向かう足を早めた。
そうだ、そのために私は急いだのだ。
あのとき、私は告げた。とにかく早く帰りたいと。恋人が待っている。協力はするけれど、すぐにでも帰りたい、と。