5.ゾロ・キャミレイヤの回想(1)
――そうして落ち姫ツィスカは、贄の王子と別れたのである。
孫娘の腹の音が盛大に鳴ったのは、区切りのいいところまで話し終えたころだった。
老商人、ゾロ・キャミレイヤは苦笑し、急いでスープを売る屋台に並んだ。
夜の名残が多かった空は、少しずつ青色の割合が増えはじめていた。
ツィスカリーゼとじめて顔を合わせた日のことは今もよく覚えている。
落ち姫は不思議と落ち着いた様子で、「椿 千風です」と、淡々と名乗った。
ツバキというのは花の名。べチルバードにも咲く、キャミレイヤというものとほとんど同じであるらしい。
そして、彼女の名にはこの国と同じ、風を表す言葉が入っていた。
「つばき、ちかぜ、といいます」
何度聞いても、ゾロや城の者は、その名前を正しく発音することができなかった。
だから、この国でもありえそうな、でも他に同じ名前のない、落ち姫にふさわしい名を考えて決めた。
べチルバードでは、女の子の名づけにシスカという名がよく使われる。
幸せな結婚をしたという三代前の王女の名にあやかっている。意味は静謐な、貞淑な、といったところだ。
彼女にぴったりだと思った。
シスカをもじって生まれたのが、ツィスカリーゼという名前。
思えば、あれははじめて三人で頭を突き合わせて考えたことだった。
そしてゾロの、自分でも自覚できないくらいに淡い恋のはじまりでもあった。気がついたのは、彼女が消えたとき。――今思うと、ずいぶんとぶっきらぼうに接してしまった。
ツィスカは美人だった。
初対面のときは地味な女だと思ったが、よく見ると鼻筋はすっと通っている。切れ長で胡桃色の瞳に、小振りで薄いくちびるという端正な顔だちであった。
この国でもよく見られるチョコレートのような色の髪の毛は、鎖骨より少し長いくらいで、ゆるく外側に跳ねている。
整った顔立ちで、それでいて化粧っ気がない。しかも表情や感情もどこか乏しくて。
だからこそ、ぼんやりと地味で印象に残りにくいのかもしれない。
着飾ったらとても映えるだろうに。
大商人として成功したゾロは、当時の彼女の姿を思い起こすと、口惜しかった。
スープの屋台は盛況で、人手も足りずに遅々として進まずにいたが、――ようやくゾロの順番になりそうだ。懐かしい匂いに頬が緩む。
このスープは、ツィスカがよく作ってくれたゾロの好物なのだ。
彼女の手料理は、異国にあると伝え聞くようなものばかりで、どれも物珍しく美味だった。
でも、その中でもゾロはこの素朴なスープを飲むと、ほっとして幸せな気分になった。
彼女の手料理がどうして受け継がれているのか。
それは、今は亡きこの屋台の先々代が、あの旅で落ち姫ツィスカリーゼに救われた老婆だからである。
長いようであっという間だった旅の日々は、村に滞在する場合でもレンヴァントの天幕で過ごすことがほとんどだった。
けれども、十日ほど、ある老婆の家に厄介になったことがある。
まだ旅も序盤だったころで、三人の間には妙な距離感があった。
なぜだかツィスカを盲目的に信頼しているレン。感情の読めないツィスカ。どうしてこのパーティーに加わっているのかわからず、いまいち立ち位置を計りかねていたゾロ。
三人の良い潤滑剤になってくれたのが、その老婆だった。
魚とじゃがいものスープは、老婆の家でツィスカが振る舞ったものだ。
まだ子どもだった老婆の孫がいたく気に入り、ツィスカがレシピを書き付けてやっていた。
それが今もなお受け継がれていることに、ゾロの胸は熱くなった。
スープを売っているのは、ひょろりと痩せた男で、その鷲鼻に老婆の面影がある。老婆のひ孫にあたるのだろうか。
ツィスカやレンヴァントは老婆にとても懐いていた。だが、ゾロと婆はどうにも相性が悪かった。
ほんの短い付き合いだったが、顔を合わせればいつでも言い合いをしていたものだ。
ゾロは、あの強情な婆のことを思い出し、わずかに苦笑を浮かべた。