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37.ゾロ・キャミレイヤの”今日”

 噴水の前に腰掛けている孫娘が、誕生日に買ってやった手帳に何やら熱心に書きつけているのが見えた。ふとゾロに気づき、彼女は破顔する。


 年を重ねたせいか、年々鈍くなりつつある感情が、愛おしさに揺さぶられたのだろうか。彼は無意識に口の端を上げていた。


 だが、次の瞬間。ゾロは杖を投げ捨て、駆け出した。


 きょとんとする孫娘のそばには、焦点の合わない目をしたずぶ濡れの女が立っている。

 そしてその手には、鋭い硝子片のようなものが握られていた。



「あー、もう。なんなの。なんにもうまくいかない。あの女はどこ? 王子は?」


 女はざぶざぶと噴水から這い上がってきた。そうして、ゾロの、──ゾロの孫娘を見ることもなく、躊躇いもなく切りつけた。ぽかんとした表情のまま後ろに倒れていく彼女を見て、ゾロは叫んだ。


 慌てて駆け寄って孫娘を抱きとめた。血が溢れて止まらない。ひと目で、もうだめなのだとわかった──。




「ちょっと、離しなさいよ! いつまであたしにくっついてる気? あんたなんかもう用済みなの。あたしはやり直すのよ。今度こそちゃんと交換させなくちゃ。なんであの部屋に戻れなかったのかしら。それを願っていたのに……」


 女はぶつぶつと喋っていた。

 彼女の腰のあたりに、男がしがみついているのだ。男もまた焦点の合わない目をして、歯の根をカチカチと鳴らしていた。男も女も、このあたりでは見ない顔立ちだ。彫りの浅い、まるでツィスカのような──。


 孫娘がヒューヒューと苦しげに息をしている。年を取ってすっかり凪いでいたゾロの感情が振り切れていた。怒り。憎しみ。でも、何より無力で、──涙が止まらない。


 もしも、もしもここに彼女がいてくれたら。ツィスカがいてくれたら。


「頼む。この子を……」




 ゾロが祈ったそのとき、ざざ……とひときわ強い風が吹いた。

 雲がすごい勢いで流れていくのが見えた。広場を飾る吊り下げ灯が揺れる。女性たちはスカートがめくれぬように片手で押さえ、もう片方では風で顕になった額を隠すように髪の毛を押さえている。


 この風には、覚えがあった。涙をこぼしたままゾロが顔を上げると、噴水の中にもう一人、懐かしい、なにも変わらぬあの人が立っていて、まっすぐにゾロめがけて駆けてきた。


「……っ」


 彼女は苦しげな孫娘を見ると顔を青くした。そして、血がつくのも厭わずに傷口に手をかざし、ひとこと呟いたのである。


 "クロノヴェール──”


 金色の光に包まれた。それは春の日だまりのようでもあり、暖かい風のようでもあった。


 孫娘はどこを見るでもなく薄目を開けていたが、呼吸が整ってきたと同時に、自分を覗き込む女性に気づいた。そして、彼女の頬に手を伸ばし、こう言ったのである。


「千風さん……」


 それには聞き覚えがあった。ゾロも、そして侍女たちも誰も発音できなかった、ティスカリーゼの本当の名前。

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