34.時の歪み、そして正史(5)
真っ白な光が差し込む明るい寝室には見覚えがあった。私がはじめてベチルバードに落ちたとき、寝かされていた部屋だ。
「私は、ベチルバード王国第一王子オスカー・ファン・ベチルバード。
貴女には我が国の危機について助力いただきたく思っている」
目覚めた苺に、オスカーが告げた。
彼女の膝には黒猫が乗っている。
「──わかりました」
苺はぼんやりと言った。その答えに驚いたのはオスカーだった。
「……なぜ?」
苺は答えない。
しかし、"私たち”には、彼女の心の声が聞こえた。
(助力? なによ、ふざけんな。ここどこだよ。──なに? 声が出ない。体が動かない……)
私ははっとする。私にも覚えがあった。別な誰かに体を動かされているような感覚。驚くほど心が凪いでいたあの不思議さ。
シャンプーが身をすくませる。
『僕たち空羊の役目。言っただろう? 落ち姫の管理だ。彼女たちが逃げないように、死なないように』
腹のあたりがしんと冷たくなり、私はくちびるを噛んだ。私の気持ちまでコントロールされていたなんて。──さすがに良い気分はしなかった。
それがわかっているのだろう。シャンプーは終始申し訳なさそうに、こちらを見ていた。
レンヴァントは拳をきつく握りしめている。力を込めすぎて白くなっていたので、私はその指を一本一本はずしていき、自らの手に絡めた。
レンヴァントが泣いている。
「──っ、すみません……。辛いのはあなたなのに」
「いいの。あなたが気に病むことではないから」
私はへにゃりと笑った。レンヴァントの綺麗な目から、またひとしずく涙が落ちる。私は背伸びをして、彼の首に手を回した。だから、シャンプーがますます身を縮めていることに、私は気づかなかった。
幼かった彼をあやすようなつもりで頭を撫でて上げたかったけれど、彼はすっかり大きくなってしまっていて、届かなかった。
"早送り”
シャンプーの言葉で、映像が風のように流れていく。
六年にわたる浄化の旅が終わった。
私たちはすべてを見たわけではない。けれども、途中、レンヴァントたちの父王と、まだ幼かったレンヴァントがともに激励に訪れる場面もあった。
苺は、フレージュビリーは、あの人格からは考えられないほど穏やかで、聖女然
としていた。そのそばにはいつも、黒猫に擬態した空羊の姿。
そしてついに、"その時"がやってきた。
「落ち姫は風とともに現れて、風に連れ去られていく──」
黒猫、黒の空羊がフレージュビリーとオスカーを掴んで飛び上がり、消えた──。
二人が落ちてきたのは、公園だった。
私たちははっとする。ちょうど、レンヴァントと私が思いを通わせたあの場所だったからだ。
「──フレージュビリー! 大丈夫か? 怪我はないか?」
オスカーが苺に駆け寄る。しかし、苺はその手をはたき落とした。
「ふざけんな! フレージュビリーってなんなんだよ」
「だが、君はそれでいいと……」
こちらで長く過ごしたオスカーやレンヴァントとは違い、ベチルバードの民たちは、どうしても日本語名の発音ができない。だから、私のときと同じように、名前が与えられた。
彼女はそれを受け入れていたけれど……。
「知らねえよ。あたしは苺。それ以外じゃない。でも声もろくに出せない。体は勝手に動く。いい加減にしてよ!」
ヒステリックに大声を出した苺に、オスカーがびくりと身をすくませた。しかし、次の瞬間、彼女は怒りを忘れていた。
「……え? ここは、日本?」
苺は驚いてあたりを見回す。
「車が走ってる! 自販機がある! うわああやった。帰ってきたんだ……」
苺はオスカーを置いて駆け出した。
けれども、彼女が男の人と住んでいた家には、違う女性がいた。
付き合っていた人は、苺が苺であることにさえ気づかなかったようだ。
十九歳だった彼女が二十五歳になって戻ってきたこともあるだろう。さらに、異世界で長い年月を過ごすうちに、彼女の髪も瞳の色も、染めていた色や、カラーコンタクトの色よりももっと濃い色になって定着していた。
苺は怒りにまかせてオスカーに襲いかかった。
「あたしの人生を返せ!」
オスカーを庇うように、黒の空羊が間に入る。そして、苺がどこからか拾ってきた硝子片が突き刺さった──。
『……っ師匠……!』
シャンプーが悲痛な声をあげた。画面の向こうでは、黒い空羊が発光し、苺とオスカーを巻き込んでふっつりと消えるところだった。




