28.ベチルバードの秘密
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名前:井口靖人(23)
スキル:なし
状態:魅了、心毒、混乱
【経歴】
・鉄鋼会社**の一族に生まれる。
・幼少期から成績優秀、文武両道と言われていたが、家庭内は冷え切っていた。
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目の前で、パソコンのキーボードを打ち込むように文字が一文字ずつ表示される。私は慌てて魔法を解除した。
この一年半。まだ使えていた魔法を、暮らしの悩みにまつわる部分に限定して磨いてきた。どんな人でも必ず表示されるのは名前、スキル、そして状態。
スキル欄には保有資格や、受賞するレベルの特技であれば表示されることがある。そして状態欄で多かったのは「疲労」「ストレス」「寝不足」といったもの。
「レンヴァント……。魅了って、心毒って、なに?」
私が聞くと、彼はさっと顔色を変えた。
「魅了? シュタット魔法で魅了と表示されているのですか?」
「状態欄に、魅了・心毒・混乱っていう文字がある」
「まさか……」
レンヴァントはため息をつくと、険しい目をして木の上を睨む。
「空羊! おい、貴様そこにいるのだろう」
木の上からにゃあんと声がして、太った白猫が姿を表す。わが家の飼い猫シャンプー。そして空羊だったもの。
「なんだよ、僕はふつうの猫ライフを満喫してたんだぞ。僕の役目はもう終わったんだからな」
「それどころじゃない。──時が戻されている」
シャンプーはじっとりした目をレンヴァントに向けていたが、彼の言葉を聞くと毛を逆立てて、木の枝から跳んだ。
「時が戻されているだって?」
重量を感じさせずにふわりと着地すると、とてとて歩いてレンヴァントの前にやってきた。
彼は今も頭を抱えて荒い息をしている靖人に目をやる。
「あの男、魅了されているらしい。そして、今は心毒状態だ」
「──ふうん。それなら十中八九、落ち姫の仕業だろうな」
「わ、私……?」
私が慌てて尋ねると、二人(片方は匹)は顔を見合わせる。
「今代の空羊しか知らないベチルバードの秘密。──君にも、教えよう」
「僕は以前、君に落ち姫について説明した。あれは嘘と真実とを織り交ぜたものだ。本当は魔法を使って浄化している。『時を戻す魔法』をね」
結花子さんと話していたことを思い出し、私はどきりとした。
「落ち姫は、世界の異物だ。だから、僕たちの世界の人間とは違い、大量の魔力を体内に内包している。そしてそれが常に垂れ流しになっている。だから『時を戻す魔法』を使える落ち姫がとどまることで、その場所は魔獣が現れる以前の土地に戻るというわけだ。
土地を変えれば人への影響はなくなる。もちろん、その場しのぎの解決策でしかない。時が経てばまた魔獣が現れ、次の落ち姫を連れてくることになるだけ」
シャンプーの横でうつむくレンヴァントの手は震えている。私はその手に自分の手をそっと重ねた。
「──君はおそらく、落ち姫不適合者だ。なぜなら、贄の王子が王家で不要な者から選ばれるように、落ち姫もまた世界に害を及ぼす者から選ばれるのだ。おそらく、少しでも罪悪感を減らそうとした結果なのだろう。
だが、そのシステムには当たり前だが大きな欠陥があった」
空羊が顔を上げる。一点を注視しているので、私もそちらへ目をやると、いまだ苦しむ靖人の向こうから、一人の女が歩いてくるのが見えた。
「世界に害を及ぼすような者が、困窮している世界を救うはずがない。だから、コントロールするための存在が生まれた。それが我々空羊。僕たちもまたある意味生贄なのさ。生涯を落ち姫の管理のためだけに生きる、ね」
シャンプーの表情は見えなかった。
「ねえ、君には覚えがあるんじゃない? 向こうの世界で驚くほど心が落ち着いていたこと」
私は驚いたが、うなずく。
「それこそが空羊による落ち姫の管理さ。落ち姫が暴れたり、悪事を働いたり、あるいは衝動的に逃げ出したりしないように、鎮静の魔法をかけている。僕のこの姿、もちろんよく知っているだろう?」
眠れないとき、そばにいたまるまるとした猫。旅先にもずっとついてきた。
悲しいし苦しい。それなのにもやもやした感情が爆発しなかったのは、シャンプーがいたせいだったのだと知る。




