25. 贄の王子の秘密(1)
結花子さんの部屋を出たのは日付が変わってからだった。
秘密を共有したことで、ただのご近所さんというよりも、なんだか信頼できるような、同志のような、そんな思いが生まれた。
階段を登り、鍵を取り出そうとバッグの中を漁る。スマホに着信通知がたくさん来ていて、開こうとしていたら、中から勢いよく扉が開いた。
「……っ、ツィスカさん!」
「レンヴァント?」
憔悴しきった様子のレンヴァントは、私の顔を見て安堵の息をついた。彼の名を呼びかけたところで、気づくと抱きしめられていた。
早鐘のように打つ胸。私を抱く腕にはぎゅうと力が込められている。そして、どこか震えているような。
「心配しました。こんなに遅く帰ってきたことがなかったので……」
「ご、ごめんね。下の階の結花子さんのおうちにいたの」
「なにかあったんですか?」
レンヴァントが体を離して、私の顔を覗き込む。
私は、大人げない感情を持ってしまったことを知られたくなくて、思わず目をそらした。
「ううん、なんでもない」
「嘘ですよね?」
「なんでもないってば」
「ツィスカさん」
何度顔をそむけても、彼は目を合わせようとした。まるで、ツー・シュタットの魔法で心を覗かれてしまいそうな気がして、私は背中に回されたままの手を払い除けた。
「……っ、なんでもないって言ってるじゃない」
「ツィスカさん……」
思わず悪態をついてしまった。激しい罪悪感と羞恥に苛まれていたけれど、レンヴァントはもう一度ふわりと私を抱きしめた。
「目を合わせたくないなら、それでもいいです」
それからどれくらいそうしていたのだろう。
気がつくとほろりと熱いものがこぼれた。私は慌ててそれを手の甲で拭った。小さな男の子だったレンヴァント。いくら彼が"贄の王子”だからといって、同じくらいの年頃に変わったからといって、私が彼にこんな感情を持ってはいけない。
レンヴァントは守るべき存在だ。私も被害者だと思うけれど、彼もまた被害者だ。レンヴァントを縛り付けるべきではない。
「ツィスカさん、僕と結婚してください」
いつものようにレンヴァントが言った。
「──あなたは、自分の人生を生きていいの」
私もいつものように答えた。
「どうしてあなたは信じてくれないんですか?」
レンヴァントの声は、いつもと違って怒気を含んでいた。
「僕が、──僕がただ、贖いのためにあなたに求婚しているとでも?」
「だって……」
「顔をそむけないでください」
ぴりりとした言葉に、思わず顔をあげる。
レンヴァントの冬の湖のような瞳の中に、きらきらと強い光が燃えている。少し垂れ目がちなはずなのに、きっと吊り上がったその目が、強い怒りを伝えていた。
「贄の王子として、あなたの命があれば何にでも従います。でも、この気持ちに偽りはない。僕はずっと前からあなたを知っていた。あなたと一緒に生きてきたからだ」
「ずっと前?」
「あなたが両親を失くしたときも。親戚の間を転々としていたときも。置かれた環境の中でなんとか自分を奮い立たせて頑張ってきたことも。他の学生が浮かれて遊んでいる中、日々を一生懸命生きていることも、全部、ぜんぶ知っています」
「どうして……」
「それが贄の王子です。贄の王子は贖いの存在。そして導きの存在でもあります」
「導きの存在?」
「落ち姫が決まると、贄の王子はその意識だけを落ち姫の世界へ飛ばされます──。落ち姫を無事にわが国までお連れする船先案内人のような役目もありますが、それだけではない……」
レンヴァントは、少し言いにくそうに下を向いた。
「突然人生を奪われるように連れてこられる女性のそれまでの一生を追体験するために飛ぶのです。
だから、僕が最初にこの世界に落ちたのは、あなたが生まれた瞬間でした」




