21.タペストリー
「――千風ちゃん?」
のろのろと顔を上げると、心配そうに覗き込む瞳と目が合った。
「結花子さん」
同じアパートの小野瀬結花子さんとは、以前、介抱してもらったのを機に仲良くなった。
その腕には一歳にならないくらいの赤ちゃんが抱かれている。
ふくふくとしたそのほっぺたにぼんやり視線を投げていると「夜の散歩に行ってたの」と結花子さんが言った。
「この子、寝るのがきらいなのかな。なかなか寝てくれなくてね。
途方に暮れてしまって、この辺をぐるりと回ってきたのよ」
暗くてよく見えないけれど、――結花子さんの目元が暗く見える。寝不足なのかもしれない。
けれども、以前のように擦り切れた疲れではなく、なんといえばいいのかわからないけれど、希望のある疲れ方、という感じがした。
「旦那は出張中なの。月の半分は家にいないから退屈で。――よかったら、話し相手になってくれない?」
私は少し迷ったけれど、なにか熱いものが胸にこみ上げてきて、頷いた。
結花子さんとは何度も会っているけれど、彼女の部屋に入ったのははじめてだった。
ああ、――いい部屋だな。入ってみて、そう思った。
いろいろなお客様の家に伺う仕事だ。そこからなんとなく見えてくるものがある。
たとえば心地よくするために好きなもので満たしたおうち。
生活感のないモデルルームのようなおうち。
使う色を絞ってすっきり見せているおうち。
結花子さんの家は優しさにあふれていた。
ピカピカに磨かれた靴が一足、靴棚に仕舞われずに置いてある。
靴棚の上には、たくさんの写真立て。
少女めいた雰囲気の結花子さんと腕を組むのは、茶髪で今と随分印象の違う旦那さん。
二人の結婚式の写真に、旅行先での笑顔。それから赤ちゃんが生まれてからの写真……。
側面には、赤ちゃんの命名書も貼られている。「ゆうかちゃん」という名前は知っていたけれど「優花」という字を使うことははじめて知った。
「どうぞ。──優花の名前は、旦那と私、それぞれの名前から一文字ずつつけたの」
私の目線に気づいた結花子さんが言った。
居間に案内されると、結花子さんはふいに慌て始めた。
「……! 散らかっていてごめんなさい」
耳が少し赤くなっている。床には赤ちゃんのおもちゃがたくさんあり、ソファには読みかけの絵本があったりと、生活感はあるけれど、そのためにほっとするような温かさがあった。
私が感じたことのないもので、──少し羨ましくなった。
居間にはタペストリーがかけられている。
「ああ、このタペストリー」
結花子さんは口をとがらせた。
「実家の母が送ってきたのよ。私が赤ん坊のころの肌着を少しずつ切って、パッチワークにしてるんですって」
「私の趣味じゃあないんだけど」と言いながらも、結花子さんはどこか嬉しそうだ。
「少し座って待っててね」
ローソファーに腰を下ろすと、ぐっと体が沈み込んだ。結花子さんは小さな音量でテレビをかけ、赤ちゃんを隣の和室に寝かせに行った。
数分後、「遅くなってごめんね」と小声で言いながら戻ってきた。
「赤ん坊の背中にはスイッチがあるって昔母に聞いたのだけど、本当ね。どんなにそうっと布団に置いても、気づいて火がついたように泣いてしまうことがあるの」
「今日は大丈夫でよかった」と小声で付け足す。
私の家では、あまりテレビを見ない。
特になにかを見るというわけでもなく、BGMのように置かれたテレビがあり、ぼんやりとそこに視線を向けていると、結花子さんがキッチンから戻ってきた。
「はい、お夜食」
目の前には、湯気を立てるお茶漬け。
「さっぱりしたものが食べたくて」
そういう結花子さんの顔は晴れやかだ。ぼんやりしたままで、熱々のお茶漬けを口に運ぶ。
「甘めの梅干しと崩したお豆腐が入ってるの。梅干しはね、にんにくをつぶすガーリックプレスに入れるとかんたんにたたき梅みたいになるのよ」
ふわりと香る梅の匂い。お豆腐の優しい味。染み渡る味のお茶漬けだった。
それから私たちは他愛のない話をした。そして、結花子さんは、核心に切り込んだ。
「──あのさ、千風ちゃんって、なにか不思議な力を持ってるよね?」
どんなふうに切り出すのかという迷いや逡巡があったと思う。私もそれを感じとっていたから、ぴりりとした緊張があった。
私は悩んだ。何も言えなかった。それが答えになった。結花子さんの目が潤む。
「前回、その……生まれる直前に、悲しいことになってしまって。もう子供は無理だって言われてたの。変なこと言ってるのはわかってるけど、千風ちゃんがなおしてくれたのよね? ──この子は、あのとき死んでしまった子なのよね?」
結花子さんは、まっすぐに私を見ていた。




