20.分岐点
もう少し現代編が続きます……!
あの世界から戻ってきて、一年半。
それまでの私たちは、驚くほど平穏な日々を過ごしていた。
レンヴァントに持たせる弁当のおかずを詰めながら、ふと窓際に目をやると、まるまると太った巻き毛の猫が寝息を立てている。
金色の朝日に照らされた白い毛が、きらきらと透けて輝き、美しい。
空羊のシャンプーは、あれからうちに居着いた。
けれども、少しずつしゃべることがなくなり、――今では魔法が解けたかのように、ただの猫になってしまった。
えらそうな喋り方も饒舌なところも少しずつ思い出せなくなっていった。レンヴァントという生きた証人がいなければ夢だったのだと自分に言い聞かせたかもしれない。
シャンプーは日がな一日、狭いアパートの一番日当たりのいい窓際に寝転んでいる。
その姿は本当に愛おしくて、時間を忘れてなでてしまうこともあるくらい。――でも、その一方で、どこか寂しさも感じていた。
見た目に反して図太くて、ダークな物言いをするシャンプーが懐かしい。
ふるふると首を振って気分を切り替え、弁当箱に向かい直す。
てりやきチキンに卵焼き、ほうれんそうの胡麻和え、ミニトマト、ポテトサラダを丁寧に詰めていく。
家のことは絶対に分担すると譲らないレンヴァントに折れて、朝食はレンヴァントが、昼用の二人分の弁当は私が用意することで落ち着いたのだった。
レンヴァントは今、出かけている。
毎週火曜日は、近所のベーカリーで焼き立てのパンを買ってきて食べるのが彼のマイブームなのだ。
そして、私が絶妙に好きそうなものを買ってくる手腕がすごいのである。
「戻りました」
レンヴァントはそう言うと、私を抱きしめた。
ぐっと身長が伸びた彼に、正直なところ未だに完全に慣れてはいなくて、これは向こうにいたときから“家族のようなものとして”していたハグだとわかっているのに、妙に体がこわばってしまう。
今日は三丁目のベーカリーで買ってきたらしい、サクサクのクロワッサン。それから、ベランダのハーブを刻んで入れたチーズオムレツと、家庭菜園から摘んだ水菜とルッコラのサラダが食卓に並んだ。
「図書館で試験勉強をするつもりなので、少し遅くなると思います。夕飯は先に食べていてくださいね」
食事を終え、二人で台所に立って洗いものをしていたとき、レンヴァントがにこにこしながら言った。
「それとこれはおやつ用に」
レンヴァントが小さな紙袋を手渡してくる。中に入っているのは、コッペパンにピーナッツクリームを挟んだもの。私のお気に入りの菓子パンだ。
「いつもありがとう、レンヴァント」
嬉しくなって見上げると、彼もつられたように破顔した。
その表情は、旅をしていたときの彼の、子どもらしい顔そのもので、つられて私の頬もゆるんだ。
それは、たしかに幸せな時間だった。
あの場面に居合わせたのは、偶然だった。
たまたま希久美さんに声をかけられ、洒落たカフェで女子会をすることとなったのだ。
信じられないような話がぽんぽん飛び出してきて、どこか消化不良のまま家路についた私は、無意識に遠回りを選んでいた。
駅から家までの道筋はいくつかあり、右回りで帰るとスーパー、左回りで帰ると図書館とコンビニがある。
「たまには家でお酒でも飲んでみようかな」
私はそうつぶやき、左回りを選んだ。
レンヴァントの見た目、そして戸籍上の年齢は二十歳を超えているのを思い出し、缶チューハイを二本買った。
つまみは家にあるものでできそうだ。
図書館の前を通りかかったとき、男女の声が聞こえた。何を話しているかまではわからなかったけれど、女性が背の高い男性の腕に絡みついた。――美しい銀色の髪が見えて、私は彼が誰なのかに気がついた。
「ああ、デートだったのか」
思わず口からこぼれた言葉に、自分でも困惑して口を押さえる。
「じゃましないように、こっそり帰ろう」
踵を返して、元来た道を戻る。どうしてだろう、胸はどきどきと早鐘のように打っているし、もやもやとした不安が広がってきた。




