18.真実の愛(2)
異世界で一年近い日々を過ごしたものの、戻ってみると年末年始休暇の数日に過ぎなかった。久しぶりの出勤時は妙に身構えていたが、不在を気取られることなく職場復帰をして半年になる。
「最近、――元夫に復縁を迫られていて困ってるの」
そう言ったのは、同僚のみずきさんだ。
みずきさんは五十台半ばの女性だ。色白でふっくらとした頬に人の良さがにじみ出る、小さな栗鼠のようにかわいい人だ。
みずきさんが離婚していたことを知らなかった私は驚いた。
「ええ? あいつなんかほっときなさいよ。――あなたのことだから、どうせ部屋にあげちゃったんじゃないの?」
しっとりした声が彼女を責めるように降ってくる。社長の希久美さんだ。もう70歳近い年齢をまったく感じさせない、年齢不詳の美魔女である。
みずきさんがうっと言葉に詰まる。
「だって、具合が悪いって……」
「それがあいつの手なんだって、あなたもいい加減わかってるでしょう?」
「でも……」
「余計な情けは無用よ。つけあがるだけだわ。どうせあなたに介護をさせようという魂胆に決まってる」
きっぱりと言い切る希久美さんの言葉に、みずきさんがどんどん小さくなっていく。
横で呆然としている私に気づき、彼女は「みずきの元旦那は浮気男なのよ」と眉を潜めた。
それからぽつりぽつりと状況を話し、――これまであくまでも雑談のようなことは話すが、プライベートなことは話題に登ることがなかった――、私も少し前に浮気されて別れた話をした。
「みずきはまだ十代だったからね。年上の金持ち男に舞い上がっちゃって、真実の愛だと思いこんじゃったんでしょう」
みずきさんの顔が、かわいそうなくらい羞恥に染まった。
「この蛇女」
ぽつりと落ちたみずきさんらしくない低い声は、私の耳には届かなかった。
「――真実の愛……」
昨日聞いたばかりの、そして思い出したばかりの言葉に動揺し、頭の中がいっぱいになっていたからだ。
「でも、千風ちゃんは違いそうね」
急にこちらに話が向いたので、私は驚いてばっと顔を上げた。希久美さんは楽しげに、そして妖艶に口の端を吊り上げている。
「あなたの場合は、みずきみたいに愛! とかぶわっと舞い上がってるのではなくて……」
希久美さんはしばらく私の顔を見つめていたが、やがてこれだ!というものが見つかったかのように「――もっと重くて軽そう」と言った。
「そうね。わかるわ……!」
意外なことにみずきさんも頷く。
「今だから思うんだけど、あのころ愛だと確信してたものは単なる執着だったんじゃないかなって」
「執着ですか?」
「ええ。もちろん、それも愛情を形成する要素のひとつでしょうけれど……。でもね、愛っていうのはたぶん、もっと落ちついていて、穏やかで、無償のものなんだって今は思うの」
「無償のもの……」
「あくまでもわたしのイメージだけど、千風ちゃんは、無償の部分が大きくて、執着がたぶん少ないような気がするわ」
そういえば、あの人のマンションに行ったあの夜はたしかに辛くて胸が張り裂けそうだったけれど、あれから半年ほど経った今、彼を思い出すことさえなくなっていた。
今ではもう、彼の声さえ思い出せない。
「恋愛ってむずかしいわよね」
私が黙り込んでいると、みずきさんははっと青ざめて「こんなオバサンが愛だの恋だのって痛いわよね」と慌てはじめた。
希久美さんは、そんな彼女の様子を生温かい目で見守りながら、ふう、とため息をついた。
「――まあ、結局、人間って寂しいものなのよ」
私たちの間には、微妙な空気が流れた。それを断ち切るかのように、希久美さんがパンパン、と小気味よく手を打つ。
「さあさあ、雑談は終わり。男に左右されないように手に職をつけましょうね。ミーティングをはじめます。――あ、みずき」
「なあに?」
「今日はあんたの家に泊まるからね」
「ええ……! 嫌よぉ」
「――あいつが来たら困るでしょう」
希久美さんの言葉に、みずきさんは渋々といった調子で頷いた。
「でも、あなたは猫ちゃんに会いたいだけでしょう?」
希久美さんの耳が少し赤くなる。いつもクールな彼女の珍しい様子に驚いている私に気づき、みずきさんはにやにやしながら「クリスマスイブの日にね、かわいい猫ちゃんを拾ったの」と言った。
「大怪我していたのよね。切りつけられたみたいに」
「本当。許せないわ」
二人はひと回り近く年齢が離れているのに、妙な連帯感がある。私にはそういう友人がいないので、少し羨ましく思った。
帰り道、少しずつ暗くなっていく道をとぼとぼと歩いていた。仕事中は忘れていられたけれど、時間が空くと、足元から言いようのない不安が迫ってくる。
これからの生き方を考えると、あまりにも先が見えなくて。恋愛。結婚。友人。――そういうものは、私と無縁な気がするのだ。少なくともこれからは。
それは足元に薄い氷が張られていて、それが割れたら落ちてしまう、そんな心もとない感覚だった。
「――千風さん!」
駅につくと、呼び止められた。
レンヴァントがきらきらした空気を振りまきながら駆け寄ってくる。
その笑顔があまりにも無邪気で純粋で、ぐるぐると悩んでいたいろいろなことを、知らぬ間に頭の隅へと追いやっていた。胸にぽっと灯った温かい気持ちの正体を、この頃の私はまだ、知らない。




