10. ツー・シュタット
靖人のマンションから家まで、ほんの十分ほどしかかかっていないはずだ。それなのに、ものすごく長い時間に感じられた。
私は何も言葉を発せずに、ただただ、こぼれそうになる涙をこらえていた。聞きたいことも、悲しいことも、いろいろなことがないまぜになっていて。
でも、なにか少しでも口を開くと、泣いてしまいそうだったのだ。
ベチルバードに居たときのように心が凪いでいたらいいのに。
私は私にすっかり戻っていた。でも、そんな姿をレンヴァントに見せるわけにはいかなくて。
大人になったレンヴァントらしき青年もまた、口数が少なかった。
靖人のマンションを出たときは、後ろからの視線から守ってくれるように背中に手が添えられていたけれど、気がつくと私たちは手をつないでいた。
レンヴァントとは何度も手をつないだことがあったけれど、小さくて温かかった手が、今はごつごつと骨ばっていて、しっとりと冷たい。
たまに口を開くと私を気遣うようなことばかりで、そういうところは、前から大人びていた彼と同じで少しほっとした。
いろいろなことがあり過ぎたせいだろうか。アパートの階段が見えてくると力が抜けてしまった。
そして次の瞬間、私はがくりと崩れ落ちるように意識を失った。
「ツィスカさん!」
レンヴァントのその声は、たしかに低く、男性らしいものなのに、どうしてだろう――。
まだ幼かったあの子が、縋るように泣いている姿が目に浮かんだ。
「ああ、目が覚めたのね」
見知らぬ女性が私を覗き込んでいる。私は驚いて、ぱちぱちとまばたきをした。
まさかまた異世界へ? そう思ってきょろきょろしたが、そこは私の部屋だった。
女性は柔和な笑みを浮かべ、私の背中を支えるようにして起こすと、ぬるま湯を差し出した。
甘酸っぱくて、ほろ苦さのある不思議な味だ。底に金柑が沈んでいる。
「これは、はちみつ金柑。うちの実家でね、冬に体調崩すと母がいつもつくってくれたの」
私の疑問に答えるように女性が言った。
「――勝手にお邪魔してごめんなさい。下の階に住んでいる小野瀬です」
私より少し年上に見えるその人は、黒くて艶のある髪を肩に垂らすように縛っている。
垂れ目がちでおっとりとした印象の人だ。
「あなたが倒れて、彼が取り乱していたから、勝手ながらお手伝いさせてもらったの」
「――ご迷惑をおかけしてすみません」
「ううん、大丈夫よ。前にあなたに助けてもらったことがあるし……気にしないで」
女性は遠慮がちに笑う。
その表情を見てふと思い出した。
半年ほど前、アパートの駐車場でうずくまっていた妊婦さんがいた。まだ生まれるような時期ではなさそうで……。
よく見ると彼女の目の下には隈があり、カップを持つ手は驚くほど細い。
"ツー・シュタット”。
それは相手の状態を見る魔法。
気づかれないような小さな声で、つい呟いてしまって、そんな非日常が体に染み込んでいることに気づき、一人苦笑した。
ところが、次の瞬間、彼女の状態がまるでカルテのように浮かび上がってきたのだ。
「――もしかして私、まだ、魔法を使える……?」
「椿さん? どうかした?」
きらきらとした光でできているそのカルテは、彼女の目には見えないらしい。
私は首を振って「今日はありがとうございました」と告げた。
「いいえ。何かあったら声をかけてね。――うちは転勤族で、このあたりには知り合いがいないのよ。
たまに話し相手になってくれたら嬉しいわ」
私は頷いた。
「あ、彼が戻ってきたみたいよ。それじゃあ私はこれで」
「……小野瀬さん、ありがとうございました」
礼を言うと、彼女はにっこりと笑った。その背を見送りながら、こっそりと癒やしの魔法をかけた。
魔法のないこの世界で目立つことはできない。だからほんの少しだけ。
あの痛々しい隈が明日はできないように。
彼女が心静かに眠れますように。
そんなふうに祈りを込めた。




