9.泡沫の
「おい、待てよ!」
後ろから怒号が響いた。振り返ると靖人が顔を真っ赤にしている。
「おまえ、やっぱり浮気してたんだな」
「浮気なんか……」
「じゃあそのガイジンはなんだよ」
靖人がいきり立つ。その勢いに気圧されて、私は思わず後ずさった。
私たちの間にレンヴァントが入る。
男性にしてはやや小柄な靖人は、威嚇する猫のようにレンヴァントを睨みつけた。
レンヴァントはそんな彼の様子をものともせず、柔和な笑みを浮かべた。
「なにか行き違いがあったようですが、僕たちは失礼しますね」
「おい、逃げるのかよ!」
レンヴァントは喚き続ける靖人には答えず、私の背中に、守るように手を回した。
「……待って!」
靖人のものではないその声に、私たちは驚いて振り返る。
あの少女が、とろんとした目でレンヴァントを見つめている。――女の私から見ても、驚くほど可愛らしい。
「あたしたち、前に会ったことある……?」
サンダルを引っかけてぱたぱたと小走りに駆けてきた彼女が、うるうるとした瞳で見上げながら、レンヴァントの腕に触れようとした。
レンヴァントはにっこり笑って避けると、一礼して体の向きを変える。
これは彼が本気で怒っているときの顔だと気がついて、私は怪訝に思った。
未だに感情が混沌としている私を支えるようにして、彼は夜の街へと足を踏み出した。
「おい、チィ……!」
靖人しか呼ばない愛称に、後ろ髪を引かれるような気持ちになった。
レンヴァントは困ったように笑いながら私を見つめる。いいのか、というように。
私は頷き、振り返らずに家路についた。
靖人とは同じ大学だった。
不人気な言語の授業で一緒になったのが出会いだ。
その授業は、私たち二人しか選択しておらず、現役を引退した客員教授のおじいさんと三人で進める贅沢な授業だった。
おじいさん教授は、午後からの講義の前だったり、夕方に待ち合わせたりして、よく私たちを外国の料理店へと連れて行ってくれて、ごちそうしてくれた。
「二人で二次会する?」
そう切り出したのは彼だった。
仲良くなるのに時間はかからなかった。
靖人は私より二つ年下。一浪して入学していたので学年は三つ違ったけれども、私が大学生活で一番長い時間を過ごしたのは間違いなく彼だったと思う。
それまで私には友だちも恋人もいなかった。
地味な容姿や引っ込み思案な性格だけじゃなく、親がなく、奨学金をもらい、バイトをしながらなんとか生活していたことも大きいと思う。
周りの学生たちを眩しく思うことがないわけでもなかった。でも、日々の勉強と生活をこつこつ続けていくことが嫌いではなかったので、なんとかやっていた。
一方、靖人は裕福な資産家の生まれだった。
だから、私の古いアパートや節約料理がもの珍しく思えたのかもしれない。
はじめのうちは「デパ地下以外で買った野菜なんて……」と怯えながら食べていたけれど、ひとくち食べると目を見開いて、それから一気にかき込んで食べてくれた。
誰かと一緒に食べる食事が、こんなにも素敵なものだなんて私は知らなくて、いつの間にか、彼と付き合うようになっていた。
それからしばらくして私は卒業し、在学中からしていた家政婦のバイトを本業にした。
依頼があれば自宅に行き、掃除や料理をするというシステムだ。
社員はほんの数名という小さな会社だが、丁寧なサポートには定評があり、くり返し申し込んでくれる人がとても多かった。
一番多いのは常備菜作りの依頼だった。
依頼の受付は女性だけ。でも、さまざまな暮らし方の人がいる。だから、薬を調合するようや気持ちで、相手に合わせた料理をつくっていた。
産後のママには血を補う食材を意識して選んだり、明日が楽になる野菜の下ごしらえをしておいたりする。
独身のキャリアウーマンには夜遅く帰ってきても体に優しく、温めるだけですぐ食べられるものを。
子どもを保育園に預けて働くママには、子どもが好きそうな味つけやメニューのものを。彩りにも気を配る。
たまに、独身女性から料理を自宅で教えて欲しいという依頼が入ったりもするが、基本は人と関わることはなく、得意な料理を仕事にできて、天職だと言える。
「俺も今年で卒業だろ?
どうせ親父の会社継ぐわけだし、そしたら結婚しようよ」
それは秋口のことだった。靖人は、ごく軽い感じでそう言った。
私は笑ってごまかしていたけれど、もしも本当にそんなふうになったら素敵だなあと、――本当にそう思っていたのだ。
★千風の勤める家事代行サービスの会社については、『ロゼットに落ちる春』(完結済み)にて少し触れています。
★食材はデパ地下でしか買わない、という人に実際に会ったことがあります。正確にはその人の実家が、ですが。カルチャーショックを受けました……!




