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序章 二朔の獣


 ある秋の朝のことだ。


 男とその孫娘は、夜が明けるよりも前に家を出て、王都中心部で行われるマルシェに足を運んでいた。




 吐く息はすでに白く、空羊シャプーラのようにもこもこと着ぶくれした孫娘の頬や鼻先は、林檎のように赤い。


 手袋をしてもどんどん冷えていく指先を温めているのだろう。孫娘は小さな手をごしごしとこすり合わせている。






 男は裕福な商家のご隠居である。


 いずれは家を継ぐことになるであろう孫娘の“目”を養いたいと、こうしていろいろな場所に連れ出している。


 非力なふたりでの外出は安全とは言いがたい。見えないところに護衛は配置している。


 二人の目に入らないようにしているのは、顧客でもある王都の民たちと同じ目線で、マルシェを体感するためであった。






「そこの店でスープを買って来ようか」


 男はふと思い立った。このマルシェでだけ買うことができる、魚と芋のスープが好物だった。懐かしい味がするのだ。


 だが、この寒さである。

 店にはすでに人の列ができており、孫娘が立って待つのは辛いだろう──。


 男は早朝から叩き起されて、今もうとうとしている彼女に目をやった。それから離れたところにいる護衛を確認する。


「ふむ、どうしたものか……」


 しばらくあたりを見回していた男は、広場の中央にそびえ立つ像に目をとめると、一瞬、表情を和らげた。


「ツィスカ様の像の前で待っているのだぞ」


 男が孫娘のほうへと向き直って言うと、彼女は首をかしげた。


 彼は、孫娘がまだ七歳だったことに思い至る。彼女の手を取ると、像の前に置かれたベンチに誘なった。





 そこにあるのは、大理石でできた女性の像だった。


 もこもことした巨大な空羊に跨り、髪とドレスを風になびかせるようなその像は、まるで今にも地面を蹴って、空に舞い上がっていきそうな臨場感がある。


 男は、その像を心から愛していた。




「この御方が、落ち姫ツィスカリーゼ様だ」

「ち……ちかぜ様……?」


 寒さのせいだろうか。

 うまく発音できない孫娘を見て、男はふっと笑みをこぼす。





 スープを買いに行くのは護衛に任せて、まずは、この国の英雄について教えることにした。


「何から話したらいいのか……」


 男は孫娘の隣に腰を下ろすと、白い豊かなひげを指先で弄びながら、細い目をさらに細めて、しばし思案した。


 やがて、静かに話しはじめたのは伝承であった。


「この国、べチルバードには、落ち姫伝説というものがあるのだよ」







 ――落ち姫は風に包まれてやってきて、風にさらわれていく。


 それは古代から言い伝えられている話だった。


 国が危機に陥ると、どこからともなく乙女がやってきて、それを救ってくれるのだと。そしてふたたび平和が訪れると、乙女はどこかに消えてしまう。




 風の王国と呼ばれるだけあり、べチルバード王国では風の止む日はない。


 風は空気を浚って、美しく磨き直してくれるのだろう。ベチルバードは、十六王国の中でも特に清浄な地とされていた。




 ところが、数百年に一度、風が止まる日がある。


 二つの月がいずれも消えてしまう、二朔の日だ。


 この日にはべチルバード王国でも風が止まり、──国内に淀みが溜まるのである。



 淀みは、人々の心も体も蝕んでいく。


 同じ大陸にある雨の王国や霧の王国では、淀みの影響はあまり見られない。


 絶えず風が吹き抜け、清らかに保たれてきた国だからこそ、ベチルバードは淀みの影響を著しく受け、弱ってしまうのかもしれない。


 まるで、温室で大切に育てられた花が、路端では生きていけないように。





 男はそんなものは迷信だろうと思っていた。――自らの目で、実際に見るまでは。





 その日、彼は王都の商会を追い出されたばかりだった。


 不正に手を染めていた上役を糾弾したのが理由だ。



 当時の彼はまだ声も高く、――子どもから大人に変わる、その入口に立ったくらいの年齢であった。


 年若い彼は正義感に燃えていた。そしてそれが身を滅ぼした。





「ゾロ、貴様はクビだ」


 上役は、手元の書類から顔を上げることなく淡々というと、野良犬を追い払うかのように手を振った。


 石畳に投げ落とされ、尻もちをつく。商会の用心棒たちにつまみ出されたのだ。


 呆然と座り込んだままのゾロを見かねたのだろうか。受付の女性が裏口から手招きをしている。屋根裏から彼の荷物を取ってきてくれたのだ。


 つぎはぎだらけのコインケースに、こつこつ貯めていた全財産が入っていた。


 女性に頭を下げて、ゾロは当てもなく街をふらついた。





 もともと孤児だったゾロを拾ったのは上役だった。


「おまえの目は、まるで狐のようだな」


 はじめて会ったとき、路地裏でゾロを見下ろす上役は、けだるげに言った。


「名はないのか。……ならば、ゾロとでも名乗るがいい。隣国の言葉で、狐という意味だ」




 雨風をしのげて、食事にもありつける環境になった。しかし、冷淡な上役に対して情を持ったことはない。


 自分を拾ったのはきっと、後ろ暗いことをしていても孤児の証言ならばばれないだろうと考えたのかもしれない。







 丘の上でぼうっとしていたが、すでにあたりは暗くなってきていた。


 夜空には二つの月が、寄り添うように頼りなさげに輝いている。


 その光は今にも消えてしまいそうなくらい弱々しい。


 思えば、そのときに気がつくべきだった。




 商会に住み込みで働いていたので、今夜寝る場所もない。


 ゾロは宿を探しに街へと降りた。ところが、こんな日に限って、どこの宿も空いていない。


 ――妙だった。


 祭りでもないのに宿には入れない。


 家々も固く扉を閉ざし、にぎやかなはずの王都の夜は、不気味なほどに静まり返っているのだ。





 孤児だったゾロは、王都の誰でもが知っている迷信を知らなかったのだ。


 二朔の夜には、獣がくる――。


 そして、上役があえてこの日に追い出した、その理由にも気づいていなかったのだ。




 ふだんとはあまりにも違う王都の様子に、それまでは不安とむなしさでいっぱいだったゾロだったが、ふと上役のヒキガエルのような顔を思い出すと、ふつふつと怒りが沸いてきた。


 ゾロは、そのあたりに落ちていた空き瓶を力任せに蹴った。


 遠くで鈍い音がしたが、それ以外は静けさに包まれていた。






 そのときだった。


 ざらりといういやな感触の風が吹き、――次の瞬間、世界は深い闇に包まれていた。







 体中の痛みで目を覚ます。


 彼は噴水のそばで倒れるようにして眠っていたらしい。不思議なことに毛布がかけられていて、気がつくと朝だった。


 ゾロはほっとした。


 だが、それは終わりではなかった。世界がまったく別物に変わってしまったことを、彼は思い知ることとなる。





 夜が明けて、いつものようにマルシェがはじまった。


 だが、なにか違和感があった。


 人々の顔にはどことなく生気が見られず、ほとんどすべての人間が、その背中に黒い靄のようなものを背負っていたのだ。





 腹をすかせたゾロは、今ひとつしっくりこない感じに目をつむって、マルシェで青林檎を買った。


 だが、その林檎もまた同じようにもやもやとしたものに包まれている。


 わかって買ったものの、どうしても食べる気になれず、ただ荷物の中に入れたまま夜になった。


 疲れと空腹で朦朧とした彼は、噴水の裏側に倒れるようにして眠りに落ちた。





 はじめに聴こえたのは、何だったのか。


 それはまるで鈴の音のような、清浄な音。それから澄んだ少年の声。


 意識が引き戻された彼は重たいまぶたをゆるゆると上げて、ひっと息を呑んだ。




 闇を縫うように、街中をなにかが蠢いていたのだ。


 まるで獣のようなそれは真っ黒だ。しかし向こう側がうっすらと透けている。狼のような尖った耳があるが、体毛があるようには見えない。


 口元からだらりと垂れた舌からは、ぽたりぽたりと涎がしたたっており、目のあたりにはおぞましい虚があるだけ。




 叫び声を漏らしそうになるのをはっと押さえる。


 そしてふと噴水の向こうに釘付けになった。視線を感じたのだ。




 こてりと首をかしげるようにしてこちらを覗き込む者がいる。


 それはまるで闇の中で発光するかのような、美しい少年だった。







 見るからに上質な服を纏った少年は、異質だった。


 どう見ても上流貴族だというのに、護衛の一人も連れずに、夜の平民街に立っている。


 そして、子どもながらに完成された美貌。さらさらと流れる銀髪に、宝石のようにきらめく薄い水色の瞳。




 年のころは、ゾロよりいくらか下といったところだろうか。


 あまりにも非日常的な光景に、ぼうっと動けずにいると、少年は口元に人差し指を立てた。


 声をかけようと口を開くと、ふいに強い風が吹いてきて、砂埃がぶわりと舞い上がった。


 ゾロは、そうしてはじめて、今まで風が止まっていたことに気がついたのだった。





 ふたたび吹き始めた風に、どこか安心した気持ちでいると、目の前にふわふわしたものが降りてきた。


 ゾロは驚いて後ろに飛びのくように倒れ、したたかに頭を打った。


 鈍く痛む頭をさすりながら体を起こすと、先ほどの少年がこちらを見ている。




 彼はその腕に、自分よりもずっと背の高い、大人の女性を横抱きにしていた。


 少年の後ろには、巨大な羊のような生き物。


 先ほど見た毛玉のようなものはこれだったのかと納得した。






「ゾロ」


 ふいに名前を呼ばれ、ゾロは驚いて顔を上げる。


 薄い空色の瞳にまっすぐに射抜かれて、年下の少年相手のはずなのに、ゾロはぴりりとした緊張を感じた。




「どうして俺の名前を……」

「君は今から、落ち姫さまの従者だ」


 少年は質問には答えずに、優雅に笑った。

 それがゾロと二人との出会いであった。






 二朔の魔物たちに蹂躙されつつあったベチルバードが、贄の王子と蔑まれていた少年と落ち姫ツィスカリーゼによって浄化されるのは、ここからほんの数ヶ月後のことである。




 ところが、役割を終えた落ち姫は、ふっつりと世界から姿を消した。

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