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エタンセルが指定した場所は、カルネヴァル侯爵家からほど近い、小さな森の中にあるこじんまりとした湖だった。
「相談をしたのは、私なのだから…。」
そう思いシエールは、ユニヴェール商会へ出向くつもりだった。
しかしその行動は、エタンセルによって断られてしまう。
エタンセルが連れてくる協力者の都合もあり、あまり人目につかないこの場所を指定されたのだった。
指定されたとは言っても、「お昼前に湖のほとりで」という曖昧なものだ。
しかし湖へ着いて、その理由はすぐに納得がいった。
木々が茂る奥までは入らず、森の浅い場所にある湖は、少し離れれば全体が見渡せるほどの大きさで、水際まで寄れば周囲に人の気配があるかどうかは、すぐ感づくことができる。
シエールはもしものことを考え、リジアンを連れてきていた…そんなことがなくても安全な場所のように思える。
日よけに差していた傘を少しだけ上に傾け、両方の「青」が目に入るように景色を眺める。
少しずつ季節が移り、夏を感じられる木々の葉は明るく生命力のある鮮やかな緑色と、胸のすくような香りを漂わせていた。
元々エートゥルフォイユで見られる木々は、色の濃い葉をつけるものが多い。
だが年間を通してこの時期だけは、輝くような明るい色を見せる。
さざ波を立てる爽やかな青色を見せる湖も、抜けるような広さを感じられる少し白みがかった空色も、全てが眩しく感じる。
シエールは周囲にはしたなさを感じさせない程度に、そっと深呼吸をした。
目を閉じ、胸に新鮮な空気を吸い込む。
鳥のさえずりと、木々の間を流れる風の音がシエールを包んだ。
「…お嬢様。」
すぐ後ろで気配を消していたリジアンが、小声でシエールを呼び戻す。
ゆっくりと目を開けると、二人の令嬢が近づいてきていた。
「ごきげんよう、エタンセル。今日は私の為に…足を運ばせてしまって。ごめんなさいね?」
「こちらこそ。私の願いを聞き入れ、このような場所へ来ていただきありがとうございます、シエール様。」
学園の時と変わらない、小動物のような愛らしい笑顔を向けるエタンセル。
しかし学園以外で会うのははじめてだったので、その装いに内心驚きを隠せないでいた。
学園の中でのエタンセルは、なるべく人目につくまいと控えめに整えていた。
髪飾りの類はいっさい着けないし、華やかなものは持ち歩いていない。
しかし学園を離れれば、とても平民では手に入らないと思えるセンスの良い品で身を包んでいた。。
白いワンピースを基調として、淡いエメラルドグリーンを袖と裾にあしらっている。
ウエストと髪の毛を同じ色のリボンでまとめ上げ、金と貝殻で出来た飾りボタンで華やかさを演出してある。
「(可愛い…。)」
シエールは、エタンセルをじっと見つめていた。
高位貴族の令嬢であると言っても、疑われないであろうその姿は…さすが魔石商で名を馳せているユニヴェール商会の娘なのだろう。
「シエール様?」
視線を止めていたシエールに、エタンセルが不思議そうに問いかけてくる。
「ごめんなさい…少し、考え事をしていて。」
エタンセルは、シエールの言葉に小さく微笑んだ。
そして少し後方へと身体を反らすと、すぐ後ろにいた人物へと手を差し出す。
「ご紹介いたします。私達と同じフュテュール・ジヴロンのミリュー、ティフォンのクラスにいらっしゃるヴェジュ=ゴルデルゼ男爵令嬢です。」
紹介された令嬢は一歩前へと足を進め、シエールに向かって軽い礼を取った。
「ヴェジュとお呼びください。」
再び顔を上げ、シエールと目が合う。
ヴェジュと呼ばれた令嬢は、少しきつい印象の持ち主だった。
じっとシエールの顔を見つめ続けるその様子に、シエールは少し眉を寄せた。
シエールの顔に残る痣、それとも昔からある傷…どちらも興味本位で見つめるには失礼だ。
しかしヴェジュの視線はシエールを通り越した先にあるように感じる。
その真意が知りたく、少し時間をかけてヴェジュの方から何か動かないかと待ってみることにした。
ヴェジュは残念そうに溜息をつくと、エタンセルの方へと向き口を開く。
「エタンセルさん…約束が違うわ。」
なにか…失望させたのだろうか?
エタンセルとヴェジュの間で交わされた約束が何なのか、シエールは予測できないでいた。




