006
シエールが目を開いて最初に見た物は、自分の部屋の寝具ではなく、少し寒々しい部屋の装飾だった。
声を発しようと少し息を吸い込むと、肋骨の部分がひどく痛む。
一度目を閉じ、ゆっくりと息を吐くともう一度しっかりと目を開き身体を起こそうと試みる。
その時ぱたんと小さく音がして、誰かが部屋へ入って来たのがわかった。
視線を降ろすと、その人物の視線と重なり合う。
側へ立つと腰を折り曲げ、上体を起こす手助けをしてくれた。
ありがとう…と、声を出そうとすると口の中の渇きが声を詰まらせ、けほけほと咳き込んでしまう。
痛む肋骨を抑えながら、慎重に咳き込み再び前を向くとグラスに入れた水が差しだされていた。
水を受け取り、ゆっくりと飲み込みながら渡した人物をこっそりと覗きながら探る。
すらっとした細身で長身、反るように姿勢のいい男性は、おじい様と同じ位の年齢の…たしか執事だったと思う。
「(何故…この人が?)」
侍女が水を持って来るならばわかる…しかし、男性の…それも執事の職を担っていた人が私の様子を見に来るなんて。
今までの周囲は侍女か乳母と家庭教師を兼ねた女性ばかりで、家令や執事と話すのはもっぱらお父様やお母様の役目だった。
この男性については、見たことがある程度にしか覚えがない。
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「何か、ご質問はございますか?」
少量ずつ口に含み、グラスの水を飲み干すのと同時に、訊ねてくる。
「あっ、あれから何日が過ぎているの?…そしてここはどこ?」
この執事がいるということは、ここはカルネヴァルの邸に違いない…だが、この部屋の様子は見たことがない。
少し辺りを見回してみるとカルネヴァル邸とは、調度品や色彩など備えているものがまるで違う。
壁紙などはなく、石のブロックで整形されている壁が剥き出しのまま、ひんやりとした姿を見せている。
「王宮へ行かれたあの日から、五日が経っております。そしてこちらは、カルネヴァル邸敷地内南方にある別棟になります。」
質問されたことに対し的確に答えた執事は、グラスを受け取りサイドテーブルへ置き、続けて話す。
「では現在置かれている状況は、把握されておりますでしょうか?」
シエールは戸惑いながらも、何か厳しいことを言われるのではないかと警戒しながら頷く。
その様子を確認して、その男性も同じように頷いた。
「おおよそで、問題ありません。私の事はリジアンとお呼びください。」
覗き込まれた瞳に視線を返すと、明暗のコントラストが綺麗なグリーンの瞳が力強く見つめていた。
シエールはふと、違和感を覚える。
以前にこの人を見た時と何かが違う、じっと見つめていると双眸から少し離れ、気がついたことがあった。
エートゥルフォイユ王国の慣習で、成人した貴族男性は左耳に自分の系譜の宝石を使ったピアスを着けることになっている。
家の系譜を誇りとし、貴族としての責務を全うできるようにとの願いが込められている。
…たしか以前に見た時には、この執事の左耳には綺麗なペリドットが輝いていたように思う。
そしてそれが何故か…今は見当たらない。
シエールの視線を読み、感じ取ったリジアンはしっかりと言い聞かせるように話す。
「良い着眼点です。しかし今は、そのことは伏せておきましょう。まず最初にしばらくはお嬢様の身の回りは私がお世話をさせていただくことになります。侍女を準備するのはだいぶ先になると思いますので、できるだけ自分の事は自分で出来る様お願いいたします。」
そういうと、洋服がかかっていたクローゼットまで歩いてゆき、中から何点かのワンピースを取り出した。
この国では十六歳で成人するまで、女性は足首が見えるワンピースを着ている。
幼い子供は膝丈くらいのワンピースにタイツという格好が一般的だった。
そのなかでもリジアンが持ってきたワンピースは飾りが少なく、着る手間がかかりそうにないがけっして品を落とすようなものではない。
なんとか慣れるまでやるしかない。
「そしてもうひとつ重要なことがございます。私達の間柄ですが、他の者にはけっして友好的には見えてはいけないと言うこと。その為に必要時以外の会話を避けること…いらぬ情報を他の者に与えてはなりません。相手を見て、そして気配で相手が何を望み、考えているかを測るのです。」
リジアンは少し視線を伏せ、小さく息を吐きながら零れ落ちるように呟いた。
「幼いお嬢様に無理を言っていることはわかります。しかし今後ノヴァーリス公爵の青の系譜に連なる者、そしてカルネヴァル侯爵の紫の系譜に連なる者はお嬢様へ手を差し伸べることはありません。加護が発現するまで、力を蓄えるのです。」
リジアンは再びシエールと視線を合わせた。
その瞳には先程までの悲哀は見えず、元々に切れ長い目を更に細めて挑発する様に手を差し出す。
「そしてこの話をするのはこれが最後です。今後は私もお嬢様へ厳しく接することになります。…しかし、お嬢様にとって何が真実で相手が自分にとってどのような人物なのかを見極めていただきたいと思っています。」
シエールの胸の中には先程まで、未来への不安と見えない状況への焦りが渦巻いていた。
自分に状況を説明してくれたこの大人…執事であるリジアンが助けてくれるのではないかとさえ思っていた。
しかし現実は王宮で起こった出来事と、なにも変わってはいない。
手元にあった寝具をギュッと握りしめ、泣きたくなるのを堪えていると…頭に過ぎったものがあった。
『相手を見て、そして気配で相手が何を望み、考えているかを測る―――?』
シエールはもう一度顔を上げて、リジアンをまっずぐに見つめる。
この人は貴族としての誇りである、系統の証明を外してまで自分の側にいてくれるのではないか?
厳しく接するとしても、それがシエールの為になるのであれば?
シエールはリジアンを見つめたまま、頷く。
この人の言う通りだ、他人に情報を与えてはいけない。
これからは最低限の事だけを、口に出そう。
リジアンがふっと力を緩め、顔の表情を崩す。
そして息を吸い姿勢を正すと大きな声で、言い放った。
「よろしい!お嬢様、お着替えがまだのようです。ぐずぐずせずに、身なりを整えなさいっ!」