005
王陛下の話が終わった謁見の間は、徐々に人がひいてゆき、残った者はディアモンとダズール、シエール達だけだった。
人の気配がなくなった広い空間は、先程よりも一段と暗く、うすら寒い感じさえする。
その中で残された者たちは、それぞれがまったく違うことを考え、動けないままでいた。
「…なぜ…?」
口から言葉がこぼれる。
シエールは広間の床に敷かれている、少し光沢を帯びた絨毯を見つめていた。
事故は…起きた。
経緯など詳しい事情について、シエールは聞かされていなかった。
せめて、お母様へ労わりの言葉があったなら…。
せめて、処罰の対象が自分だけであったなら…。
シエールはすでに心を決めていた。
今までは自分の立場に対して、あるがまま…全ての愛情を家族から受け取っていた。
何不自由なく、大切な花の様に手を掛ける様、育ててもらっていた。
しかしこれからは、そんな暖かな幸せは訪れないだろう。
当初の話とは違い、貴族としての籍は残った…ならばきっと滅多に死んだりすることはないだろう。
これを幸運だと思うことにした。
なるべく今と質を落とさない教養を身に着け、成人までに加護を発現させる。
そして社交界で力をつけ、再び王陛下の前に立ち…今日の判断を後悔させる。
それこそが、シエールがこの先生きていくための目的なのだ。
シエールは絨毯の一点を見つめながら、表情なく考えていた。
そこへひとつの影がシエールを覆う。
シエールの頭上に軽く添えるかの様に、ふわりと手をのせたのはノヴァーリス公爵ディアモンだった。
頭に手を乗せ、なにも起きないことを確認すると、ほうっと息を吐く。
まだ…加護【誓約】の効果は始まっていないようだ。
「シエール…すまない。そなただけを選べず、何も力になれない私を許してほしいなどと甘い事はとても言えない。」
さらっと手を後方へずらし、シエールの髪を撫でる。
「(そして…更に過酷な人生を強いる私を憎んでくれてかまわない。シエール、私はこの王政を…あの愚かな王を変えようと思う。それは私の代では成せないだろう。きっとそのしわ寄せはその幼い身に降りかかる。どうか…その時までシエールの心が折れぬよう、力を蓄えておくように、私も…私の持てる力を使おう。)」
さらさらとシエールの髪の毛を撫でていた手が一瞬離れていき、再びシエールの頭へ触れると、一瞬目の前が光ったような気がした。
シエールがディアモンを見上げると、ディアモンはシエールの位置まで足を折り、視線を合わせて話しかける。
「シエール、お前を愛しているよ。これから会えずとも、触れ合えずとも、助けることが出来ずとも、お前を愛している者がいる。それを忘れないでほしい。」
シエールはの目は大きく見開いたかとおもうと、たちまち潤んでいく。
それでも何かを覚悟したかのように、唇を噛み頷いた。
ディアモンは立ち上がり、これからの状況に備えなければならない…加護【誓約】の効果が始まる前に。
ダズールに後を任せ、急ぎ動かねばと振り返るとその様子がおかしなことに気づく。
「…お父様?」
シエールが不思議に思い、首をかしげながら下から顔を覗き込むとそこには苦々しい記憶の亡霊をみるような表情をするダズールがいた。
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それは一瞬の出来事だった。
シエールにもディアモンにも予想ができずに、ただ何が起きたのか考えなければと思うばかりだった。
シエールと視線が合ったダズールは大きく手を振り上げて、シエールの左頬をぶったのだった。
死角から勢いをつけて振り下ろされた手は、シエールには予想のできないものでその衝撃をまともに受けてしまった。
反動で体が軽く浮き上がり、そのまま後方へ飛ばされる。
庇おうとするディアモンの動きもまた、予想外の事に後れをとってしまった。
「…お前は何故、ここにいる?ロヴェリアはいないのに…お前は何故?ロヴェリア以外の者を伴侶にするなど…お前の、お前のせいでっ!」
シエールは父から向けられる感情に、頭の芯が冷えていく想いだった。
紡ぎ出される言葉は、呪いにも似た感情の膿を噴出させる。
ダズールにとってシエールに対する愛情は、ロヴェリアを失った喪失感を上回ることはできなかった。
ロヴェリアが返ってこない今、ダズールにとってシエールはロヴェリアを見殺しにした者にすぎない。
それほどまでに加護【恋慕】の力はダズールを支配していた。
「ダズール…それが、娘に対する態度か。今後二度と触れ合えないかもしれない…後で悔いても遅いのだっ!」
ディアモンはシエールを胸に抱きかかえると、ダズールを睨みつける。
獣の様な鋭い眼光を向け、今にも食いちぎらんばかりに声を上げる。
しかしダズールは視線をむけるが、こちらを見てはいなかった。
こめかみに血管を浮かべながら、口元だけを少しあげる。
まずい…この男を、今すんでのところで踏みとどまらせているのはロヴェリアへの想いだけだ。
もしこれが切れてしまえば、今の条件など関係なくカルネヴァル侯爵家は滅ぶだろう。
ディアモンは怒りを抑え、考え、取り繕い、宥めるような声で話し掛けた。
「…我が娘、ロヴェリアを想うならば…彼女の生家カルネヴァルを守ってほしい。」
その言葉を受けて、ダズールから力が抜けていく。
「ロヴェリアを…想うならば?」
その言葉を呟いた直後、ダズールは自分の目の前に浮かぶ、光に包まれたロヴェリアの幻影を見る。
ダズールに向け、ふんわりと微笑む姿は自分を愛してくれていた時のままだ。
ディアモンが、視線を合わせたまま頷く。
その直後、ふっと顔の緊張がとけ柔らかな一筋の涙がこぼれる。
そして弾ける様に体を反らせたかと思うと、頭を両手で抱え、ダズールは反動をつけ前のめりに床へ頭をつけ叫んだ。
「うあああああああああぁぁぁーーーーーっ。」
ディアモンに抱えられ、視線を遮られる。
じんじんと痛む頬を気に留めることができないほど、シエールは父の姿を目に焼き付けていた。