002
冷たい部屋の空気の中で自分の荒い呼吸だけが、目に見える災いのように、細く白く立ち昇っていく。
目覚めて、また浅い眠りにつく。
瞼の裏に精神という名の意識の塊があるように、脈を打つ。
部屋の中の明暗が織りなす影を目を閉じていてもその形がわかるほど、研ぎ澄まされ、そして霧散していった。
少し覚醒し遠くなりそうな記憶を手繰り寄せようと、自分の内側に意識を向ける。
するとその意識は瞬く間に闇へ落ち、体を縛られたまま転がるシエールを何人もの大人が瞬きもせずに上から凝視している…そんな不安に襲われる。
はっ、はっ、と呼吸をくり返し、シエールはまた意識を手放すのだった。
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シエールは時間の感覚がないままあの時、目の前で起きた何もかもが嘘のように邸の自室で横たわっていた。
身体のいたるところが痛みに引きつり、熱く、思うように動かすことができない。
頭の中は反響し続け、深く思考をする端からほどかれてゆく。
喉の奥が渇き、声を出そうとするたびに擦れるような痛みを伴う。
額にそっと何かが触れるような感触で、意識が戻ってきた。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、父であるダズール=カルネヴァル侯爵が、シエールを覗き込んでいた。
「…んんっ、お父様。頭と身体が痛いのです、お母様はどこですの?お母様に会わせて…。」
喉に声が張り付く、そんな感触がシエールの言葉を遮る。
安心を得ようと、手を持ち上げ縋る仕草をみせるが、思うように力が入らずに空を切る。
その様子に眉根をしかめ、ダズールは視線を外した。
視線を外すことで、なにか得体の知れない者から逃れようとしているかのように。
「シエール、申し訳ないが時間がない。無理を強いるが、出かける準備をしてもらう。」
後ろに控える侍女に視線をやると、侍女達は軽いお辞儀をしたのち支度へと取り掛かる。
その様子を確認した後、ダズールは部屋を出ようと踵を返した。
「…お父様ぁ!」
シエールが必死に甘えるような声を出したことに一瞬動きが止まる。
しかし、その声に応えることはなく、部屋を出て行ってしまった。
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侍女に身体を任せ支度を終えた後、シエールの意識はまた少しふわふわと微睡んでいた。
再び部屋に来たダズールに抱き上げられエントランスまで来ると、開いた扉から火照った頬に心地よい風と、深い意志を持つ声が流れ聞こえてくる。
「良ければ、私が代わろう。」
その声に反応する様にシエールは薄っすらと目を開く…すると両手を伸ばす祖父の顔があった。
「…おじい様。」
年相応に皺は刻まれているものの、深い青に宿る眼光は鋭く、相対する者を竦ませ、貫く。
『碧眼翁』と呼ばれる、ディアモン=ノヴァーリス公爵。
この国の三大公と呼ばれる、かつて聖女の補佐をした大図書館司書でありこの国の礎を築いてきた者の末裔。
「…シエール。」
ディアモンはシエールを持ち上げ、痛くないようにと力を込めずに自分へ寄せると、そっと抱きしめた。
少しの間シエールもディアモンの首元へ頭を乗せ、体を預けた。
ディアモンからの深い悲しみが、体の中へ流れ込むようだ。
「シエールの身体が熱い…このような状態で呼び出すとは。」
その光景を見ていたダズールは、自分の視界へ映っていないかのように虚ろに答えた。
「そうは言っても時間がありません、義父上…急がねば。」
答えたダズールの声は、冷えた空間へ消えていった。
片手を挙げて、馬車を呼ぶように指示をするとディアモンが強くその動作を遮る。
「誰かマントをっ!シエールに馬車を見せるのは避けたい。」
ディアモンが掛けたマントによって視界から徐々に暗闇へと、意識を落としていった。
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暖かく包まれるような温度と、心地よい揺れ。
頭や身体が楽になったわけではない、しかしシエールは誰かに護られている安心感に全身を包まれていた。
ざわざわと遠くに聞こえる人の声が段々と小さくなり、やがて揺れも収まった。
シエールをくるんでいたマントが取り除かれ、ひんやりとした空気と共に明るさが戻ってくる。
高い天井と大きな広間、豪華な装飾に彩られた場所…ここが王宮だということは理解できた。
ディアモンはシエールの背中をさすりながら、そっとシエールを降ろすと、自分のすぐ左側へ置き、身体がきつくないように体重を預けるよう片手で支えていた。
支えられたまま両手を添え、前方を見ると、かなりの距離をあけて男性が数人整列している。
そしてその先の階段の上…王座に今、華やかな装いの男性が椅子に着こうとしていた。
「(この方が…王陛下?)」
おじい様より若いその男性は、見た感じ少しだけふくよかな体格をしており、自分の身体よりもまだ長い華美な装飾のついた毛皮のマントを身に纏い、椅子に座る為に引き寄せていた。
随分離れた場所…下方に控えさせられ、頭を深く下げその時を待っている。
シエールも足に力を込め、幼いながらも淑女の礼をとった。
「王陛下の御前である!」
そう声がかかると同時に、ディアモンとダズールの体に緊張が走る。
頭を上げないまま三人は、王陛下への挨拶を口にした。
「「「叡智輝く知識の泉、エートゥルフォイユは陛下のために。」」」
長く…重い沈黙が流れていく。
陛下の長いマントが階段を滑り落ちる音が聞こえるほどに、周囲は静寂に包まれていた。
祖父や父の挨拶が聞こえなかったわけはない…ただただ、王陛下の許可がでないのだ。
苦痛な面持ちのディアモンとダズールも眺めつつ、シエールも頭を下げたまま声がかかるのをじっと待っていた。
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どのくらいたっただろう、たった今熱に浮かされているシエールは、気力を振り絞って耐える。
今にも前方に倒れこみそうになるのを、下唇を噛み、ドレスを握る手の爪を立て、意識を保っていた。
呼吸だけがままならず、時間が経つにつれ、荒々しく口からこぼれていく。
すでに数滴の汗が、額から顎までシエールの輪郭をなぞりながら落ちていった。
そんな中、ようやく憂鬱そうな溜息と共に、空気の動きを感じる。
「…面を上げよ。」
緩慢な口の動きから成るその言葉に、その場にいるすべての者は安堵の息を漏らした。
ゆっくりと頭を上げ無礼にならないようにと細心の注意を払い仰ぎ見ると、頭上には侮蔑と憤懣な表情を浮かべるエートゥルフォイユ王がいた。
「まさか、このようなことをしてくれるとはな…。」
控えていたダズールの拳が、強く握りこまれる。
ディアモンは眼を可能な限りに見開き、こめかみに血管を浮かべてた。
―――理不尽、この場にいた三人が、全身にその言葉を強く刻まれていた。




