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積み上げた本に、マグカップ…図書室の中に配置されたテーブルの机には、規則性もなく雑多に物が広がっていた。
適度な室温を保ってはいるものの、動かずに過ごすには肌寒い。
シエールは自分の身体がすっぽりと収まる程の厚めの羊毛で作られたストールを体に巻き付け、マグカップへと手を伸ばす。
「…しつこい。ほんとうに、しつこい…。」
この図書室へ籠らざるを得ない状況になった原因の人物…ヴォルビリスの顔を思い浮かべ、皮肉な言葉をこぼす。
誰もいないこの部屋だからこそ、つい口に出てしまうのだ。
ヴォルビリスの宿題を代わりに解いたその日から、毎週末欠かさず…彼の婚約者はカルネヴァル侯爵邸へ現れる。
元々本邸が居場所でないシエールは、急遽その来訪を聞かされるはめになっていたが、その都度体調の不良を理由に断っていた。
あの日…部屋に戻りシエールがいないことに気がついたヴォルビリスは、テーブルの上にある紙の束を見つけると満足げに持ち帰ったという。
後日手紙が届いたが、字が汚すぎて全てを読み取ることは不可能だった。
ただその中でも、わかった内容は…。
―――『お前でもやればできるじゃないか』
―――『文字が気取りすぎだ、もう少し男の書く文字を学べ』
―――『宿題の上にカップを置くな、こぼれたらどうする』
自分の事しか頭にない、程度の低い内容だった。
当たり前だ…シエールはわざとに綺麗な文字を書き、こぼれても良いと思いカップを置いたのだから。
そんなシーエルの思惑を読み取れないヴォルビリスは、もっと気を使った方がいいと注意をしてくるのだから笑えてしょうがない。
それから毎週のように、宿題を持って訪れる。
何度も断っているのだから、いい加減諦めてくれないだろうか。
そうすると改めて、手紙が届いた。
―――『宿題が嫌で逃げているのだろう』
―――『お前のせいで、こんな目にあっているんだぞ』
―――『体調が悪くても、宿題だけはやれ』
そんな言葉が思い付いた端から、綴られていた。
シエールは呆れて、手紙をゴミ箱へと投げ込んだ…もちろん返事の手紙など書く気もない。
相手にしていないことに気がつき、諦めてくれればいいのだが…多分ヴォルビリスは、今までそういった経験がないのだろう。
何故シエールがそんな対応をしているか、気がついてもいないのだろう。
溜息交じりに近くに積み重なっている本を手に取り、また読書へとふけっていった。
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「本日もシエール様は、体調が思わしくない様で…。」
トレミエは、来客であるヴォルビリスが待つ本邸の客間へとやって来ていた。
シエールからの返事をヴォルビリスへ伝えると、明らかに機嫌が悪くなる。
「中庭でプリムヴェール様が、ヴォルビリス様をお待ちでございます。よろしければご案内致しますが?」
そう言ってトレミエはヴォルビリスの気持ちをプリムヴェールへ向けようと、話を切り替えた。
「毎回、毎回…体調が悪いって?こちらも来たくて来ているのではないというのにっ。」
ヴォルビリスが癇癪を出し、座っているソファを手で叩きつけた。
その様子に後ろへと控えていたハイルヘルン伯爵家のメイドの肩が、びくんと跳ねる。
トレミエは釈然としない面持ちで、ヴォルビリスを見つめていた。
「…そんなにシエール様とお会いしたいのですか?」
ついそんな言葉が、口からこぼれてしまっていた。
いくら子供だからといって、メイドが伯爵家の子息へ気軽に話しかけてよいものではないだろう。
とっさに口を押え、わたわたと顔を伏せた。
目の前でヴォルビリスの癇癪が大きくなっていく気配がわかる。
「会いたいわけがないだろう!」
ばんばんとソファを叩き続けると、ヴォルビリスは顔を赤くして声を張り上げた。
「あいつが僕の言うことを聞かないから悪いんだ、この僕が婚約してやってるんだぞ?有難く言うことを聞くべきじゃないか?」
息を切らせながら、ヴォルビリスは理不尽なことを言い放った。
トレミエは呆気に取られていたが、伏せた顔のまま口元だけが上がっていった。
この子供は自分の容姿が、貴族の中でも優れている事をわかっている。
だからこそ、皆が甘やかしてきたのだ…それを十分に理解していてこの行動なのだ。
「ヴォルビリス様は、シエール様の事を気に入ってらっしゃるわけではないのですね?」
トレミエは念のために、もう一押しと質問をした。
ヴォルビリスは大きく頷く。
「そうですか…では、私がヴォルビリス様をシエール様の元までご案内いたしますわ。」
トレミエは自分の胸へと手を置き、にっこりと微笑んだ。
今日の午後リジアンは、別棟の外観を修理をすると言っていた。
先程リジアンの上着を預かったのはトレミエなのだ…あの部屋の鍵は手に入る。
何が嫌なのかわからないが…この婚約者である伯爵子息に会いたくないと言うならば、連れて行ってやろうではないか。
ずっと待っていた、あの気味の悪い子供に仕返しが出来るこの時を。
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――― カラン、カランッ。
図書室で読み物をしていた、シエールの耳に渇いた鈴の音が飛び込んでくる。
外からは聞こえないが、この部屋の中にいると扉を開けようとする者がいると鈴の音が聞こえる。
いつもより少し早いのではないかと思ったが、迎えが来たのだろうとシエールはテーブルの上を片付け始めた。
しかし…本を数冊元の場所へ戻し、時間がたっても、いつものリジアンの声がしない。
シエールは不思議に思い、扉まで様子を伺いに足を運んだ。
すると扉の向こうでなにやら揉めているらしく、くぐもった声が聞こえる。
「…これ、鍵は開いているのよね。なんで開かないの?」
そう聞こえたかと思うと、扉が少しだけ動いた。
「開くじゃないか、おいお前。お前も一緒に手伝って開けるんだ。」
その言葉が聞こえた時、シエールは扉より数歩離れ、身体を固くした。
ヴォルビリスの声?…何故、ここまできているの?
トレミエに断るように伝言を伝えたし、鍵はリジアンが持っている。
それなのに何故…今扉の向こうにヴォルビリスがいるのだろう。
少しでも扉が開いていると言うことは、鍵を持っているということ…しかし扉を開けることができないのは、力がある男性がいないということなのだろう。
このことはリジアンが知らない間に起こっているに違いない。
シエールは、ふつふつと怒りが湧いてきた。
常識がない、行儀が悪い、などという言葉で済ませる気はない。
「…何故、ヴォルビリス様がこちらへ?体調がすぐれないと、お断りしたはずですが?そしてトレミエ…貴女もそこにいますね?これはどういう事ですか?」
シエールは普段あまり使ったことのないような低い声で、抑揚なく声を出した。
その声を聴き、シエールが近くにいるのだとわかったヴォルビリスとトレミエは、文句を言おうと隙間から中を伺った。
「お前が僕のっ…。」
扉の隙間から見えた物、それは逆光で表情こそ伺えなかったものの、テリトリーを荒らされた獣の威圧…そんな冷たさがあった。
この場にいた者は誰も見たことがなかっただろう、その瞳はハイルヘルン伯爵が恐れていたあの碧眼翁の片鱗そのものだった。
その場にいた者は、それ以上言葉を継げず…かといって、去ることもできない。
少しだけ開いた扉の前で、体を動かすことができないままでいた。




