019
本来ならば婚約が成立したばかりの席で、和やかに祝福の言葉がかけられるはずだった。
現在…カルネヴァル侯爵邸の居間は、大時化の中の船の様に色々な思惑が揺れている。
ハイルヘルン伯爵は、ディアンジュの自己顕示欲にうんざりし始めていた。
カルネヴァル侯爵家の女主人だと言っても、貴族として現在の権力者の勢力図を把握していないようでは、話にならない。
この女はノヴァーリス公爵を侮りすぎている。
彼の人がなぜ周囲より「碧眼翁」と呼ばれているかを、理解できていないのだ。
公爵という、王族に次ぐ爵位を持つからだけではない。
そしてその容姿の中でも、ひと際目が離せない紺碧の瞳せいでもない。
碧眼翁は、見通せるのだ。
青の系譜の頂点に立ち、日々様々な者達と関りを持つ。
人望が厚い碧眼翁は、滅多なことでは系譜の者や領民を切り捨てたりはしない。
しかし一度でも碧眼翁を裏切ったり陥れたりしようものならば…その瞳から、裏切り者の姿は消える。
何をされるでもない…ふと自分を振り返った時には、何もかもが遅く、家が、自身が衰えていくのだ。
そのとてつもなく大きな、人生をも動かす力は、碧眼翁の持つ加護の力なのではないか…と、噂する者もいるくらいだった。
伯爵は当初、ダズールを抱き込むつもりでいた。
ノヴァーリス公爵の孫と自分の息子の縁ができれば、自分もダズールと同等の権力をもつことができるのではないかとさえ思っていた。
しかし実際には、ダズールは不在。
伯爵同志の交流で顔見知りであった、現カルネヴァル侯爵の女主人ディアンジュが対応をするという。
これはこれで、使えるのではないかと思ったが…この無知さは危険だ。
自分の考えを改め、ディアンジュとは適度な距離を取ることにした。
ディアンジュの主張を立てつつ、気付かれないように、さらりとした会話で核心を外していく。
様子を伺っていたシエールは、伯爵の微妙な変化に気がついていた。
「(空気の流れが…変わった。ディアンジュ様は、自分の立場が上だと満足そうだけど…ハイルヘルン伯爵はそつなくディアンジュ様を持ち上げつつ、本意を隠しているのね。)」
居間にいる誰もがディアンジュと伯爵へ、視線を注いでいた。
しかしそのやり取りの水面下で、二人の思惑に気がついたものは数名しかいない。
「お父様、僕…シエール嬢と、少し二人でお話したいのですが。」
話の流れが止まった時に、ふいにヴォルビリスが父親である伯爵へと話し掛けた。
「君のお部屋が見たいな、案内してくれる?」
そう言うと少し首をかしげて見せる。
綺麗な金の髪が、さらさらと動きに合わせて流れていった。
「そうか、私はそろそろ引き上げようと思っていたところだったのだが。では、夕方に迎えを寄こすようにしよう。よろしいですかな、ディアンジュ殿。」
ディアンジュは金糸を散りばめた綺麗な扇子で口元を隠しながら、優雅に微笑み了承をした。
そして後ろへ控えるリジアンへ向け、視線を流し頷くとリジアンは軽く頭を下げる。
その様子を眺めていた伯爵は、リジアンを見て既視感を感じる。
しかしすぐに自分の覚え違いだろうと、頭を振った。
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「リジアン…ヴォルビリス様とシエールを、隣の客間へご案内して差し上げて?」
「かしこまりました。」
リジアンは頭を下げたまま、口元で笑っていた。
それもそうだろう、シエールの部屋へ案内ができるはずがない。
彼女の部屋は、石造りで暗く寒い…別棟なのだから。
リジアンは自分も一緒にと縋りつくプリムヴェールを避けながら、二人を客間へと案内した。
客間はシエールが知っている内装とは、何もかもが代わっていた。
調度品は深い茶色で統一され、カーテンやソファにかけてある深い毛足の布地などは中紅色…その鮮やかな色地に金糸で小さな丸いバラの花がモノグラムの様に刺繍をされている。
落ち着いた色合いながらも、どことなく艶めいた雰囲気を醸し出している。
互いがソファに座ると、リジアンが少し離れたワゴンで紅茶を淹れてくれていた。
「お前との婚約が決まったから、お父様が侯爵になる勉強をしろとうるさいんだ。」
部屋にいる面々を確認し、自分に益のない人間だと判断するとヴォルビリスは緊張を解き少し怒った口調でシエールへと言い放つ。
そしてヴォルビリスの後ろへと控えていた伯爵家のメイドへと、顎で指示を送る。
メイドがおずおずとシエールの前に差し出したのは、十数枚の紙の束だった。
「お前のせいでこうなったんだから、お前がするのが筋だろう?」
なにか断れない言葉の強さで、ヴォルビリスがシエールへと命じる。
手を伸ばして、紙の束を確認すると…それは家庭教師が出したであろう、簡単な問題が書いてある宿題だった。
それにしても…並ぶ文字は汚く踊っており、紙自体はインクで擦れた跡がいくつも残っていた。
ヴォルビリスが嫌々ながら、勉強に向き合っていることが感じ取れる。
「これから週末のたびに持って来るからな、僕に迷惑かけるなよ。…それじゃあ僕は一時間ほどプリムヴェールと遊んでくるから、ちゃんと片付けておくように。」
そういうとリジアンが紅茶を淹れるのを待たずに、ソファから飛び降り駆け出してゆく。
伯爵家のメイドがシエールの方を気にしながら、深々と頭を下げヴォルビリスの後を追っていった。
シエールはそれまでの一連の出来事を、表情には出さなかったが…呆気にとられた気持ちで見ていた。
そこへリジアンがシエールの分だけ、紅茶をもってくる。
婚約者だから…何を言っても許されるのか。
婚約者だから…下僕のように扱えるのか。
「(本当に…なんて馬鹿な人なの?)」
シエールは深く溜息をついた。
やる必要はない…しかし、やらなければきっと、出来ないのだと見下されるだろう。
紅茶を一口含み、もやもやと一緒に飲み込む。
シエールは皮肉の様にヴォルビリスには書けないような綺麗な文字で、丁寧に書き綴った。
全てを十分程度で仕上げ、紙の束をとんとんと揃える。
そしてその一番上に紅茶が入ったカップを乗せ、無言で部屋をあとにした。




