015
あの特別な図書室を教えてもらった日の午後、シエールは自室で昼食をとり、食後の紅茶を飲んでいた。
適温に淹れられた紅茶は、個性的で茶葉の香りの強い物だったが、シエールが飲みやすいようにとミルクをたっぷりと入れてある。
夜中の出来事があまりにも素晴らしく、興奮気味で結局明け方まで眠れなかったシエールは、食後のゆったりとした空間を時間をかけて楽しんでいた。
そこへ予定のない来客の足音が、シエールの意識を現実へと引き戻した。
「コンコンコン」
ノックの音が聞こえたかと思うと、こちらが返事をする前に扉を開け、中へと入りこんできた。
部屋へと近づく足音の時点でも思っていたが、なんという無遠慮な態度なのだろう。
これにはシエールの後ろに控えていた、リジアンも普段の表情とは違い少し硬直しているようだった。
ずかずかとシエールが座っているソファまで近づいたその人物は、カルネヴァル侯爵家のお仕着せを着用している。
「まだ、お食事を召し上がっているのですか?いつまで使用人の手間を取らせるのです!」
そう言うとシエールへ向かい両手を腰にあて、嫌なものを見るような目つきで威圧的に言い放つ。
突然の事にシエールはあっけにとられた表情を浮かべそうになったが、そこはリジアンの存在を思い出し取り繕う。
相手が返事を待っているのだろうとは思ったが、こちらがそれに合わせる必要はない。
手に持っていたカップをゆっくりとテーブルへ戻し、シエールは居住まいを正す。
「どなただったかしら…私に御用?」
幼いシエールにとって、精一杯の取り繕った仕草だった。
「本当に可愛くない子だわ…なによその澄ました受け答えは。」
シエールの返しが気に食わないのか、使用人の発する言葉だとは思えないことを言う。
「私は今日からシエール様付きでお世話をすることになった…名前をトレミエ。ディアンジュ様と共に、ヴェラヴィ伯爵からこちらへ移ってきたメイドよ。本当だったらプリムヴェール様のお世話をするはずだったのに…なんで私がこんなところに来てまで、この子をお世話しなくちゃいけないのよ。」
年頃の女性であろうトレミエは、シエールに対する態度を隠すつもりはないらしい。
良くまわる口で色々なことを、シエールに教えてくれた。
「とにかく、私に手間をかけさせないで。子供だからって関係ないわ!」
そこまで言い切ると、シエールが先程まで飲んでいた中身が入っているカップをテーブルから奪い取り、勝手に下げようとした。
それについてもシエールは、何の反応も返さなかった。
シエールの様子を伺い、トレミエはふんっと鼻を鳴らしてワゴンへとカップを戻す。
少し陰になったワゴンの先に人影が見える…トレミエはここで初めてリジアンの存在を認識したようだった。
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「…随分な、お行儀ですね。」
冷ややかに長身のリジアンから見下ろされるトレミエは、一瞬たじろいだが、すぐに立て直してリジアンに丁寧に礼を取った。
「これはお見苦しいところを…執事のリジアン様ですね。お話はディアンジュ様より伺っております。」
そういうとトレミエは顔を上げ、先程とは変わって人好きのする柔らかい笑顔を浮かべた。
綺麗に揃えられたダークブラウンの髪の毛と瞳に、若さゆえの素直さが乗った愛らしい表情。
自分が好意を向けて接すれば、異性から嫌われることはないと信じている顔だった。
シエールは横目でその様子を眺め、観察をしていた。
「(トレミエは…私には嫌われても構わないけど、リジアンには嫌われたくないのね?)」
よほど自信があるのだろう、先程のような態度をしても自分が咎められるなどと考えてもいないようだった。
「ディアンジュ様より、能力があり執事であるリジアン様が、シエール様につきっきりというのは大変な事であろうと…私をこちらへと申しつかって参りました。子供のお世話は大変でしょう?私が来たからには、リジアン様のお手を取らせることはありません。しっかりと教育を兼ね、躾ていきますのでお任せください。」
トレミエは説得力を持たせるようにとゆっくりと優しく、リジアンを持ち上げそしてその憂いを払うのは自分の役目だとばかりに話しかけていた。
リジアンの長い睫毛が、細められた瞳へと影をつくる。
「貴女は…私を侮辱しているのですか?」
突然に冷水の飛沫を顔にかけられたかの表情で、トレミエは固まっていた。
「いえ…け、けっしてその様な…。」
わけがわからないとばかりにトレミエは表情を取り繕う。
もう一度自慢の笑顔を浮かべようとしているが、動揺で少し引きつっているのがわかる。
「ではカルネヴァルを侮っているのですね。…私の仕事はカルネヴァル侯爵より賜ったもの。ディアンジュ様のお言葉があったからと言って、勝手に辞せるものではありません。これについては旦那様へきっちり報告させていただきます。」
カルネヴァル侯爵の名前まで出され、トレミエは事が大きくなりそうな予感におどおどと視線を泳がせることしかできなかった。
「いえ、けっしてその様な…ディアンジュ様はリジアン様の職務を心配され…。」
リジアンはひとつ頷いて答えた。
「ではご心配は無用とお答えください。理由は…先程話したのでわかりますね。」
トレミエは少し俯いた角度で、小さな声で了承した。
「そして子供だから、大変だからと、自分の方が上手くやれると言えるのはお嬢様や私の能力を下に見ているとしか思えません。お嬢様は侯爵家の御令嬢でありますが、ほとんどのことは自分でお出来になります。私から言わせれば、貴女のお行儀ごときでお嬢様へよりよい教育が施せるとは思えませんが?」
トレミエは顔を真っ赤にしてふるふると震え出したかと思うと、全身でシエールに向かって振り向き、睨みつけた。
「本日は、これにて失礼いたします。またディアンジュ様より正式にお話があると思いますので…。失礼いたします。」
かろうじて残った冷静さで、シエールではなくリジアンに向かって退室の旨を告げると、トレミエは速足でシエールの部屋を出て行ってしまった。
退出する際、後ろ手で閉じた扉の音が大きく響く。
令嬢に対する教育どころか、邸へ勤める教育すらできていないのではと、シエールとリジアンは互いに見つめ合い苦々しく笑みをこぼした。
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急ぎ本邸へ戻り、今のいきさつをディアンジュ様へ話さなければと…トレミエは足早に中庭へと駆けていた。
聞いていた話と違う。
カルネヴァルの令嬢は皆に疎まれ、隔離されている。
誰も世話したがらないので、仕方なく能力の高い上級職の執事が世話をしている。
この先加護を発現せねば、侯爵家にとって災いとなる娘だから厳しく育てなければならないのだと。
それなのに、あの落ち着き払った態度と言葉。
とても幼く…王から懲罰を受けている令嬢には見えない。
「なによ…あの態度。プリムヴェール様はあんなにあどけなくくるくると変わる表情の可愛らしい子なのに、醜い顔の傷も…なにより感情が表に出ない子供なんて不気味だわ。」
トレミエは到底、シエールの面倒をみるつもりなどない。
それ以前に、子供らしさがなくこちらを透かして見るようなあの子の側にいるなんてごめんだと、この仕事から逃げたくなっていた。




