010
カルネヴァル本邸の二階にある少し大きめの部屋の前で足を止める。
ここは昼の柔らかな日差しが、木々の緑の隙間を縫って部屋へと降り注ぐ…心を開放し、ゆったりとした午後の時間を過ごせる場所だ。
コンコンコン…リジアンが扉をノックすると、中から女性の声が聞こえてくる。
「入りなさい。」
予め伝えてあったのだろう、リジアンが扉を開け中へ通されると、日差しに包まれたソファにゆったりと座っている女性がいた。
持っていたカップを後ろに控えた侍女へ渡すと、その女性はドレスを気にかけながら時間をかけて立ち上がり、思わせぶりに扇子を開いてこちらへ向いた。
「こちらへ。」
それまで扉の側で控えていたシエールとリジアンは、部屋の中ほどへと進んでいった。
まずはリジアンがディアンジュの前に立ち、手を胸に当て姿勢よく頭を下げた。
「お初にお目にかかります。カルネヴァル侯爵家で執事を勤めさせていただいております、リジアンと申します。本日は家令コルシックより、ディアンジュ様のご要望をいただき、参りました次第でございます。」
ディアンジュは口元に扇子を当てたまま、リジアンへそっけなく返事をした。
「そう…いいわ、顔を上げなさい。」
リジアンは顔を上げ、顔にかかる長めの前髪を少し避けるような仕草をした。
「あら、貴方…。へぇ、そう。」
そう言うとディアンジュは口元を隠していた扇子を閉じて、少しあどけなく開いた口元へと再び当てる。
媚びる様な含み笑いをこぼし、目を細めてリジアンへと微笑みかける。
「リジアンというのね…貴族でないのが残念だわ。」
そうリジアンへ言葉を掛けながら、リジアンの左側へ滑るように近寄り、扇子を左耳へと持ち上げかすめていく。
リジアンの左耳に系譜の色がついたピアスがないことを、残念がっているようだ。
そうしてゆっくりとリジアンの周囲をまわったかと思えば、また正面へ立ち蠱惑的に口元を持ち上げ、微笑みかける。
「惜しいわね…とても、とても魅力的なのに。」
ディアンジュは悪戯っぽく、そう言うと扇子の先をリジアンの胸へと強めに突きつける。
その仕草はリジアンの逞しさを、確かめているようだった。
そしてリジアンが何も言わない事を確認すると、リジアンの右側へと身体を寄せ侍女に見えないように、リジアンの太ももから腰までを扇子で撫で上げた。
「貴方なら、若い子が放っておかないのではなくて?」
再びゆったりとリジアンの正面へ移動したディアンジュは、扇子で自分のデコルテを流れる様に撫でる。
リジアンの視線が自分の自慢の胸へと自然に向くように、計算されつくした仕草だった。
そんな零れるほどの思惑を携えたディアンジュから、少し距離を取リジアンは片眉を上げていた。
ディアンジュは、どうすれば自分を良く魅せることができるかを熟知していた。
リジアンに向かい少し首をかしげる。
豊かに結い上げられているブラウンの髪の毛がうっすらと陽の光で輝いているうなじから、頼りない白い首筋が綺麗に見える様に。
吐息が漏れる様に、わずかに口元を緩める。
触れたくなるような柔らかな唇を、官能的に見せる為に。
そして自分の身体を抱きしめるかのように、手を回す。
貴族の中でも陶磁器の様と噂をされる自分の胸元を強調し、相手の理性を奪う為に。
そして何よりディアンジュは特徴的な少しだけピンクがかったブラウンの瞳を潤ませ、そのまま少しだけ細めて相手を見つめる。
悪戯がかったその瞳には、どれだけの男性を魅了してきたのだと思わせる雰囲気がある。
婚姻前の若い娘には、けっして真似できない色香を滲ませ、リジアンへと漂わせる。
「御冗談を…私などディアンジュ様から見れば、御父上であるヴェラヴィ伯爵の方が年近いでしょう?」
リジアンはディアンジュの視線や仕草をするりと躱しながら、綺麗な笑顔を浮かべて答える。
「冗談などではないわ。別棟からこちらへいらっしゃいな、悪いようにはしないから。」
ディアンジュは今にも自分の胸をリジアンへ押し付けようとする勢いだった。
「大変もったいないお話なのですが、私の別棟でのお勤めはカルネヴァル侯爵からのご指示でございます。申し訳ございません。」
素早いリジアンの返しに、ディアンジュがリジアンへと飛び込むことはなかった。
「旦那様が?…そう…もうっ、旦那様ったら。この邸の女主人は私だというのに、使用人の配置だって相談してほしかったわ。でも…わかったわ、私が呼んだらちゃんと来てちょうだい。」
少し拗ねたような甘えた声でディアンジュはリジアンへと言いつける。
リジアンは再び胸へ手を当て、軽く頭をさげ返事をする。
「まずは家令のコルシックへ、お伝えください。」
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そこまでの流れを、シエールは身動きをせず、声を発さず、ただ表情を変えずにリジアンの少し後ろに立ち、眺めていた。
目の前で繰り広げられていることも、動揺したり、感情をだしたりすることは…相手に情報を与えることだ。
シエールは黙ってその様子を観察して、ディアンジュとリジアンの考えを予想することに集中していた。
そしてひとつ覚えたことがある…男性に嫌われたいのならば、今のディアンジュの一連の行動を真似すればいいということだ。
リジアンは表情にこそ出していなかったものの、静かに強く怒りを湛えていた。
頭の悪い者ならともかく、リジアンのように強く賢い男ならば、先程のディアンジュの行動は相手の怒りを買うものなのだと。
「(私がこの真似を使う日がくるのかしら?)」
…だめ、気持ちが悪い。
できればどのような状況になっても、この状況を活用できるような出来事が起きてほしくないとシエールは強く願った。




