009
次の日の朝…自室で朝食をとっていたシエールは、ぼうっと紅茶が入ったカップを眺めていた。
昨日踊り場から見た光景が、瞼に焼き付いている。
あれからずっとシエールなりに考えてはいた…しかし、何をどうすればいいという結果がでない。
「お嬢様。」
手に持った紅茶が進まないことを見かねて、リジアンが声をかけてきた。
「本日はお嬢様を、ディアンジュ様の元へお連れしようと思っております。」
そう優しく声をかけつつ、そっとシエールのカップを受け取り暖かいものと交換してくれた。
再び渡された、カップにはミルクがたくさん入っている紅茶だった。
暖かい湯気を吸い込み、気持ちを落ち着ける。
「そこでまず、お話しておかねばならないことがございます。」
リジアンがじっと、シエールの瞳を正面から見据える様に話す。
その仕草に、シエールは大事なことだと感じ取る。
持っていたカップから、一口飲み込むとテーブルに戻して姿勢を正し頷いた。
シエールの話を聞く準備ができたことを確認すると、リジアンも頷き話を始めた。
「最初に…ディアンジュ様の前で、お嬢様を庇うことはできません。これはこれから先長くお嬢様のお側にいるためであり、絶対に必要な事なのです。ディアンジュ様の言葉や態度にお嬢様が困ったり傷ついたりしたとしても、私からのフォローを期待し、話を振ったり、態度に出したりしてはいけません。」
シエールは少し悲しい顔をした。
義理の母に当たる人はシエールを困らせたり、傷つけるような人なのだろう。
今そのことに悩んでも仕方がない…シエールはリジアンに向かって頷いた。
リジアンもシエールを確認して、頷く。
「さらに言えば、私もディアンジュ様に従う立場にあります。お嬢様の意に添わぬことを発言したり、提案したりすることでしょう。そんな時お嬢様は、味方がいないと感じるかもしれません。きっとお辛く寂しい思いをされるでしょう。しかしその感情を表に出し、相手に情報を与えることはありません。お嬢様からは最低限の情報を与え、相手からは様々なことを読み取り、相手の考えを見抜くのです。」
シエールは更に困惑した表情をみせた。
リジアンが言っていることは、なんとなくわかる…きっとそれがシエールの為であり、やるべきことなのだと言うことも。
ただシエールはどうしても知っておきたいことがあった。
今から始まるだろう、長い戦いの前に。
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「…お耳を、触ってもいい?」
シエールは伏目がちに、小さな声で呟いた。
今までリジアンがシエールに対し、話し掛けたり、尋ねたりすれば、それなりにきちんとした返答がかえってきていた。
それが今回の話に関しては、曖昧な表情をしたうえに…なぜ耳なのだろう?
訝し気に片眉を上げたリジアンは、シエールの意のままに目の前に立ち、膝をつき、視線を合わせた。
シエールはリジアンの左耳を指先でそっと触れるくらいの力で撫でた。
シエールはそのまま縋る様な…寂しさを堪えた瞳で、リジアンを見つめる。
ああ…リジアンは、シエールの心を察して少し表情を崩した。
シエールが伸ばした手をとり、軽く握りしめる。
「そうです、私はお嬢様のお側にいるために…私自身の誇りを外しております。お嬢様もそのことは決してお忘れにならないでください。私達は同志…難しいですかね?仲間なのですよ?」
執事としてではなく、少しくだけた口調でゆっくりと…不安に思っているシエールに伝わるように、リジアンは言葉にした。
シエールが知りたかったこと…それは、リジアンと言う人間。
本当にシエールが信頼を寄せても大丈夫だと、思える人間なのかということだった。
愛情を注いでくれていた周囲の大人は全ていなくなり、今後は一人で貴族として立ってゆかねばならない。
その中で一番近くにいる大人、リジアンは味方なのか…信頼を寄せても大丈夫なのか、シエールを捨てずに側にいてくれるのか…と。
リジアンには幼い女の子と対峙しているという、配慮が足りていなかった。
自分がいかにシエールに対して、大人の対応を求めていたかを悟った。
これから先…リジアンはずっとシエールと一緒にいるとは断言できない。
それでもシエールに課せられた、未来を乗り切るだけの強さを持ってほしい。
しかしそれは、なにか希望がなければ成し得ないことも確かだった。
「私が間違っておりましたね…。」
リジアンは、シエールの両手を自分の両手で包み込みキスを落とした。
「貴女に強くなってほしいと求めるばかりで、寄り添うことをしてこなかったのは私のミスです。それで信じてほしいなど、伝わるはずがない。」
リジアンはシエールに対して、今までみせたことのない笑み携え視線を送った。
年齢による目元の皺が、優しさを強調していく。
「私に何をお望みですか?どうすれば、あなたの信頼を得られますか?」
その言葉を聞き、シエールは目を大きく見開き、リジアンからそっと自分の手を引き自分の胸の前で組んで祈るように呟いた。
「お母様に、さようならを言いたいの。」
リジアンはそのまま、シエールの言葉を待つ。
「もう甘えたりしないわ。強くなれる様に努力もする。だけど…だけど、最後だけ…お母様の為に祈らせて?」
そう言うとシエールはリジアンに向かって目を潤ませて、両手を広げ差し出してきた。
これは…リジアンは困惑したが、シエールの気持ちを想い、自分もまた眉間に皺を寄せ、気持ちを堪えていた。
「困りましたね…私に抱擁を迫る女性は、貴女くらいなものですよ…レディ?」
そういうとシエールに向かい、ゆっくりと両手を差し出す。
すでにシエールの目からは涙がこぼれていた。
数歩駆け寄りながら、リジアンに向かって飛び込む。
「うっく、ふぶっ…わあぁーーーーっ!」
シエールはリジアンの肩に顔をうずめ、自分の声を殺して泣いていた。
リジアンは戸惑いながらも、シエールを軽く抱き留め、シエールの気が済むまで付き合っていた。




