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お盆の日の思い出

作者: 千百

 碧がまだ小学生だったある夏の夕暮れ、家に帰ると祖母が玄関先で木切れを集めて燃やしていた。

何をしているの、と尋ねると、


「迎え火よ」


と答えてくれた。迎え火。



 碧にはその言葉の意味は分からなかったが、お盆と何か関係があるのだろうと思った。北の街の学校では、お盆が過ぎるころ、夏休みも終わる。だから毎年お盆の時期になると、夏休みもそろそろ終わりに差し掛るのだという実感がわいてくる。この時期は、いつももの悲しかった。



 一人で迎え火を焚く祖母を横目に家に入ると、母と姉が台所で忙しく夕食の支度をしていた。二人とも、うつむいて無言だった。流し台に面したすりガラスの窓から、西陽がいっぱいに差し込んでいた。碧は、なんとなくこれはいつもと違うなと思いながら、廊下を通り過ぎた。


 茶の間に入ると、続きになった奥の部屋で、父が片付け物をしていた。押入れを開けては中の古い物を出したりしまったりして、せわしなく動き回っていた。


 碧は、つけっぱなしのテレビから流れる情報番組を、ぼんやりと眺めていた。日本列島では、今はどこでもお盆のお祭りをしているらしかった。やはり今日はお盆なのだ。碧はちょっと考えてから、テーブルの上に置いてあるお菓子に手をのばした。いつもなら夕飯前にお菓子を食べると父か母に怒られるはずだが、今日は誰も何も言わなかった。そばぼうろを噛む音が、がらんとした茶の間に響いた。



 しばらくすると、玄関の開く音がして父が帰ってきた。碧は茶の間の戸口に立った父親の姿に縮み上がり、慌てて奥の間を振り返った。だが、奥の部屋はすでに夕闇が下りて暗く、誰もいなくなっていた。いったい、いつの間に?奥の間から外に出るには、絶対に茶の間を通らなくてはいけない。いつのまに父が外に出て帰ってきたのか、碧には分からなかった。狐にばかされるって、こういうことだろうかと碧は頭の中でつぶやいた。


「お父さん…大丈夫?」


「おう、帰ったぞ。ところで、大丈夫って、なにがだ?」


 父は碧のことなど気にもかけずに、ばさりと新聞を広げた。碧は話の接ぎ穂を失い、父の木のうろのような骨ばった横顔を眺めていた。




「碧ちゃん、お風呂にはいりなさい」


 母が台所から声をかけた。碧は立ち上がり、台所に駆けていった。母は、相変わらず熱心に食事の支度をしていた。姉はいなかったが、台所では驚いたことに知らないおばあさんが水屋の棚を開けて、誰かの食べかけのおやつをつまんでいた。碧はあんぐりと口をあけたて固まった。一体、どうしていきなり見たこともないおばあさんがこんなところで勝手にうちのおやつを食べているのだろう?


 おばあさんは碧に気がつくと、首をかしげてにこりと笑った。母は何も言わず、無言で菓子を貪り続けている。今日の母はなんだか、いやに声がかけづらかった。母はこのおばあさんに気がついていないのだろうか。だが、疑問に思った次の瞬間、おばあさんはもうどこかに行ってしまっていた。


「碧。はやくしなさい」


 母が先ほどよりいくぶん冷たい声で言った。碧は、黙って風呂場に向かった。




 暗い脱衣所で風呂の準備をしていると、風呂場にはすでに先客があった、しゃべっている声が聞こえた。早く早く、とか、もうちょっと、など途切れ途切れに聞こえてくる。碧は奇妙に思いながら戸を開けると、タイルの上を三匹の蝦蟇蛙が忙しく床を駆け回っているところだった。蛙は突如現れた碧を前にぴたりと立ち止まった。碧も動きが止まった。碧と三匹の蝦蟇蛙は、しばしの間見つめ合っていた。


「ちょっと。まだ準備できないのかい」


 沈黙を破り、不意に風呂場の窓の外からしわがれた女性の声があがった。知らない声だった。蛙たちが慌てて答えた。


「はあい。ただいま」

 そして大急ぎで腰かけと桶をタイルの床の隅におしやり、腰に巻いていた手拭いでシャワーの蛇口を大急ぎで磨きあげると、排水溝の中にわらわらと退散していった。碧は一人取り残された。


 強い風が吹き、窓ガラスが大きく揺れた。碧はぎくりとして、急いで湯船につかった。蛙を急かした声の主は、最後まで現れなかった。いつもなら湯船につかるのは良い気持ちなのに、今日はいやに背中がうすら寒かった。




 八時を過ぎて、ようやく食事の準備がととのった。碧の家では、ふだんは夕飯は七時と決まっていた。今日のようなことは珍しかった。ずいぶんと遅くなったはずなのに、皆何も言わずに食卓についた。


 食卓には野菜の煮物と、豚肉の煮込みと、すき焼きと炒飯が大皿に並んでいた。他にも、串焼きや揚げ物などの総菜の小皿が、いっぱいに並んでいた。碧は目を丸くしてとりどりの料理の皿を見た。明らかに、家族四人で食べきれる量ではなかったが、結局その心配は杞憂に終わった。その夜、碧はほとんど夕飯を食べることができなかった。食卓には、入れ替わり立ち代わりたくさんの人がやってきて、母の用意したとりどりのご飯を食べていた。ご馳走は、その人たちのものだった。


 皿が、次々と空になっていった。食事にやって来たのは、ほとんどが碧の知らないおじさんやおばさんたちだった。たまに同い年くらいの子供が交じることもあったが、碧には見向きもせず、一心に料理をがっついていた。そして、食べられるだけ食べるとさっさと帰っていった。最後の方で、碧がまだ小さかった頃に見たことのある親戚の若い男の人がやって来た。その男の人は、黙々と肉を食べていた。そして来た時と同じように、いつの間にかいなくなっていた。母はいろんな人のために給仕をしていたが、一言もしゃべらなかった。母の表情は、よく見えなかった。父と姉がその時どうしていたかは、もう思い出せなかった。




 客人は、皆帰っていった。碧は歯を磨いて布団に入った。姉は、隣の布団ですでに寝息を立てていた。祖母が優しく微笑みながら音もなく部屋に入ってきて、二人の枕元に腰をおろすと、ゆっくりとうちわで扇いでくれた。階下からは、父と母の見ているテレビの音がぼんやりと聞こえてきた。おばあちゃん、と碧は姉を起こさないようにささやいた。


「今日、いろんな人が来てたね」


 祖母は笑いながらうなずいた。


「これが、お盆ってこと?」


「そうねえ」


 祖母が答えた。


「おばあちゃんも、それで来たの?」


 祖母は、笑って何も言わなかった。団扇の風は気持ちよかったが、早くも秋の気配をはらんでいる部屋の中では、いささか涼し過ぎた。碧はやがて瞼が重くなり、そのまま眠ってしまった。




 あれから二十年近く経つが、毎年お盆の時期が来ると、碧は決まってこの夜のことを思い出す。一周忌を迎えた祖母が自ら焚いた迎え火、風呂場に現れた蛙、たくさんのご馳走と見知らぬ客人たち。我ながら不思議な記憶だとは思うのだが、ごく最近になって、もしかしたら誰しも一つくらい奇妙に割り切れない記憶を持っているものなのだと思えてきた。たとえそれが、自分でももはや思い出せないものだとしても。


 おかしな経験なんて目をこらせばそこらじゅうにいくらでもあふれていて、珍しいことではない。ただほんのちょっと立ち止まって、目をこらすだけで見えてくる。結局は、本人に、それをするつもりがあるかどうかだけなのだ。要するに、覚悟の問題だった。



 しかし今私に、そんな覚悟などあるだろうか?普通の毎日を壊してまでも見たい風景を求める気力は、今も残っているだろうか?

 その答えは、すでに自分で充分に分かっていることだった。碧は心のうちで苦笑しながら、また今年も玄関の前で、送り火を焚くのだった。

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