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王子来訪の日程はおおよそひと月半後となった。
ちょうど薔薇の見頃真っ只中である。
日程が決まれば、次に取り掛かるのはお迎えする準備だ。
父は抜かりなく屋敷を整えるよう使用人達に指示を飛ばし、母は自ら庭師とともに薔薇園を手入れし始めた。
わたしはと言うと、直前に再びマリア先生との学習時間を伸ばすことでマナーを学び直すこととなったのだが、どうせならマナーよりも最近楽しくなってきた刺繍やレース編みの時間を多くとりたいとうっかり口を滑らせたことが何処からか耳に入ったようで、マリア先生の逆鱗に触れてしまった。
マナーの学習はもう必要ないレベルなのかと毎日のようにテストが設けられるわ、そんなに言うなら王子に刺繍を入れたハンカチを贈れるレベルまでいこうと課題が増やされるわで、個人的には良いことなしだ。
そんなわたし達を尻目に、唯一我が家で兄だけは通常営業。
羨ましい限りである。
連日のテスト課題地獄からやっと丸一日解放されたのは、母と共に教会へ奉仕活動に出向くことになったのが初めてだった。
マリア先生の圧に完全に押されて小さくなっているわたしを気遣ってくれた母からの気分転換のお誘いである。
母から「春になったからそろそろ教会へ一緒に行こう」と誘われたことが、これまでのお出かけの誘いのなかでも一二を争う程嬉しく感じたのは言うまでもない。
馬車酔いがなんのその、勿論わたしはその誘いに飛びついた。
そして教会に行く当日を迎えた。
久しぶりのお出かけ。そしてテストと課題からの解放。
春の陽気や花や新芽の芽吹きを感じることで、心が浮足立ってウキウキしてくる。
この時期は服装も華やかな色や淡い色のもの、レースやシフォンを使った軽やかなものが増えてくるので、さらに気持ちが自然とふわふわ浮上するというもの。
今日は若葉を思わせる黄緑色の爽やかなシフォンワンピースの外出着に髪はハーフアップにして白い小花の髪飾りを飾ってみた。
母は淡いミントグリーンのロングワンピース、髪はハーフアップを白い小花のバレッタでまとめており、親子でお揃いのコーディネートである。
母もわたしとの久しぶりのお出かけに少し浮かれ気味の様子だ。
そんな私たちの今日の予定は、教会の花壇を整えにいくというもので、教会や孤児院の花壇に春を届けるのが目的だ。
我が家で母が丹精込めて育てている花の苗を少しわけることにもなっている。
母と一緒に朝早くから持っていく花の苗や種の最後の確認をしていたところ、来訪者の知らせが入った。
出迎えに行くと、来訪者は前回も参加してくれていた商家の奥様2人。
今回も参加してくれるようだ。
母は当然知っていた様子で笑顔で挨拶しているが、わたしは気まずさで思わず笑顔を引きつらせてしまった。
この商家の奥様の1人は、件のクレアの実母であるテイラー夫人だ。
わたしの行動により彼女の娘クレアの研究協力が増えてしまったことは記憶に新しい。
既に解決したことではあるのだが、クレア自身がその後健やかに過ごしているのかを実際に目で見て確かめたわけではないので、本当の意味で解決していることなのかはわかっていない。
もしクレアに何らかの後遺症があったとしても、わたしの優しい家族は心配をかけまいとすることだろう。
ありのままの真実をわたしに伝えてくれるとも思えない。
ある種の緊張感を纏いながらふたりの前に出て、おさらいしたての礼をマナーのお手本のように行う。
「おはようございます。テイラー夫人、スミス夫人」
「おはようございます、エレノア様」
「本日もご一緒させていただきます。宜しくお願い致します」
お二人から素敵な笑顔を向けられ、改めて微笑みを返す。
そしてわたしの心中に気づいた様子もない母と奥様方は、暫しの雑談に入った。
その間にわたしは確認作業の続きに戻り、準備が整ったところで4人揃って馬車に乗り込んだ。
暫く馬車に揺られながら前回と同じく三人の話に耳を傾けていると、わたしの向かい側に座っていたテイラー夫人が「そう言えば」と切り出した。
「エレノア様、少し前に娘とお会いになったとか?」
その言葉にピクリと肩が大きく揺れたのが自分でもわかった。
まさかこの場でテイラー夫人の方から彼女の話題が出ると思っていなかった。
後でこっそりとテイラー夫人だけでいるところに声をかけてみようかと思案していた矢先のことだった。
ちらりと隣に座る母に目線を送ると、その微笑みは崩れることなくそこにあった。
その表情から、母もテイラー夫人がどこまで事情を知っているのかわからないのだろうと思われる。
そうなるとより混乱して、返答には謝罪から入るべきかと一瞬過ぎる。
しかし同乗者に部外者であるスミス夫人がいるということを思い出し、この場では無難な受け答えにとどめようと判断した。
「はい。魔法研究所を訪れた時に、一度」
静かに答えると、テイラー夫人はふわりと微笑んだ。
「養女になってからは年齢が近い方と交流することが減っていたようで。そうしているうちに魔法研究所に行くようになって、余計に周りが大人ばかりになってしまったようなのです。だから、エレノア様とお話しできた事が余程嬉しかったようです。ありがとうございます」
確かに、商家とはいえ庶民の生まれで兄もいたという環境と、貴族の養女という環境では大違いだったことだろう。
特に魔法研究所には普通は子どもなど一人もいない。
「そう言っていただけるとわたくしもとても嬉しいですわ」
にこりと微笑むと、テイラー夫人はやや言いにくそうに眉尻を下げた。
「その後、あの子とはお会いになったりしていらっしゃいますか?」
その質問に答えたのは母だった。
「いいえ。でもそれは私たちの所為なのよ。冬の間はこの子を極力外出させなくて」
「クレア様とお会いした日からずっと、魔法研究所には一度も行っておりませんの」
わたしも続ける。
するとテイラー夫人は残念そうな困ったような表情を浮かべた。
「そうでしたか。いえ、恐れながらあの時、またエレノア様とお話ししたいと申しておりましたもので」
クレアはわたしが彼女を避けているとでも思っていたのだろうか。
もしそうならば是非確実にその誤解は解いておきたい。
「それはわたくしも同じですわ」
彼女の今の状態も気になるところではあるので、むしろわたしの方こそお会いしたいぐらいなのだ。
しかしクレアの研究協力は終わったはず。
であれば、次に彼女と会いたければどこに行けばいいというのだろうか。
「少ししたら魔法研究所に行く機会があると思うのですが、その時にクレア様とお会いする機会に恵まれるでしょうか」
尋ねると、再びテイラー夫人は渋い表情をした。
「実は、今はめっきり研究所には行っておりませんでして。家に籠りきりのようなんです」
まあ、とスミス夫人から声が漏れた。
その様子にテイラー夫人は急いで首を振った。
「いえ、身体はとても元気だと聞いています。ただ・・・リリー様とエレノア様を前にして失礼な話なのですが、あの子にとって貴族の生活は余程窮屈なようです」
わからないでもない。
わたしは知らずうんうんと頷いていた。
テイラー夫人は続ける。
「魔法研究所に通わなくなってからは、外に出ることが出来なくなって。私もすっかり会うことが出来なくなってしまったのです」
「それは・・・寂しいわね」
母が言うと、テイラー夫人はまた首を振った。
「いいえ、本来は養女に出した時点で全く会えなくなる筈でした。それなのに暫くは会えていたのですから、充分に恵まれていたと思っておりますわ」
それは事実だろう。
貴族にとっての子とは家督を継ぐ者であり、政略結婚など道具の一つでもある。
家族が二つあっては道具として扱いにくい。
本来養女となった時点で、生家との関係は断絶されるはずだ。
養母と生母が姉妹でもそれは変わるまい。
どう発言すべきか誰もが頭を悩ませ黙った。
するとその沈黙を破ったのはテイラー夫人本人だった。
「もしもエレノア様がクレアと親密でいらっしゃったら、今のクレアの様子をお伺い出来るかもと思ってしまいました。・・・申し訳ございません」
頭を下げられてしまった。
わたしは申し訳なさと気まずさで居たたまれなくなった。
クラーク夫妻とのあの出来事は、こういった思わぬ余波があったという事を改めて知った。
だからと言って、クレアの研究協力を継続させるわけにはいかなかったわけで。
わたしは何も言えなかった。
代わりに母がテイラー夫人と二言三言言葉を交わしてこの話題を無難に締めた。
そして空気を読んだスミス夫人により明るい話題に転換され、教会に着くまでにはテイラー夫人にも笑顔が戻っていた。
しかし、既にわたしは知ってしまった。
このテイラー夫人の笑顔は心からのものではない事を。
しかしクレアとテイラー夫人の立場は、養女となった時点で交わらない物となってしまっている。
そこはわたしにはどうすることも出来ない。
それならせめて---
クレアが笑っていられるように、その事をテイラー夫人にも少しでも伝えられるように、わたしに出来ることをしたいと思った。




