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翌日いつものようにノアに会いに行くと、彼は不機嫌そうな顔でわたしを迎えた。
「ノア、今日のご機嫌はいかが」
声をかけながらベッド横の椅子に腰かけると、ノアはぷいと顔を背けた。
「ノア?」
もう一度声をかける。
すると、ノアはこちらを見ることなく小さな声を発した。
「そういうあんたは機嫌良さそうだね」
「え?ええ、そうね」
兄が帰ってきて、ノアとクレアが助かって、ノアを連れ出したことはお咎めなし。
わたしにとって、昨夜の話は良いことしかなかった。
「ちょっとね、良いことがあったものだから」
思い出して、自然と笑顔になる。
そうしているとちらりと視線を感じたのだが、気づいたらすぐに目をそらされてしまった。
どう考えてもノアの様子がおかしい。
いつも言動や態度はそっけないものの、受け答えはちゃんとしてくれていたのに。
どうしたものかなと思って、視線をうしろに控えてくれているジェーンに向けた。
体調が戻ってきているとはいえ、ノアは相変わらずベッドにほぼ寝たきりだ。
上半身を起き上がらせたりはできるが、足を怪我しているために立ち上がることはまだできない。
そのためジェーンとメアリのお世話は変わらず続いている。
夜も付きっ切り、ということは無くなって以前よりは休憩が取れていると聞くが、本当だろうかと心配になる程二人はずっと働いている。
我が家の仕事を滞りなくすませながらノアの世話を完璧にしている二人には頭が下がる思いだ。
特に、日中は筋力が落ちているノアがリハビリをするので、メアリと比べれば力の強いジェーンが医師とともにノアに張り付いていることが多い。
今日もノアを尋ねたところ、ジェーンと医師が部屋にいた。
そしていつものようにわたしの後ろにぴったりと控えてくれていたのだ。
「ジェーン、ノアの様子おかしくないかしら?何かあったの?」
小声で尋ねたところ、ジェーンは言いにくそうに苦笑した。
「ジェーン・・・?」
二人とも何も言わないのではこちらはわからない。
ただたとえばノアに何かあったのだとして、それを教えてもらえないのであれば無理に聞くべきではないのかもしれない、と思い直す。
これまでに好奇心で無神経に突っ込んで聞きすぎて失敗してきた教訓だ。
気を取りなおして、わたしは手に持っていた本をノアに差し出した。
「ノア、今日は新しい本を持って来たのよ」
ノアは今、魔法に興味を持っている。
そこはやはりクラーク夫妻の子といったところなのかもしれないのだが、これまで魔法に関することを口にも出してこなかった反動なのか、その知識欲は目を見張るものがある。
当家のライブラリーには元から魔法の専門書がそれほど無いということも勿論あるとは思うが、彼はほんの数日の間に我が家にある魔法書のほとんどを読みつくしてしまったのだ。
あとは父や兄の手持ちの本ぐらいなのだが、わたしには勝手に持ち出すことはできない。
それに、父に頼もうかと提案した時のノアの表情はかなり苦いものだった。
やはり大人は苦手なのだろう。
しかしそうなるとあとは兄が帰ってくるのを待つしかないかと頭を悩ませていたところに、昨日の兄の帰宅である。
大喜びで兄の部屋を訪ね、無事に新しい本を借りることができたのだった。
わたしはノアが喜んでくれると思って持って来たのだが、思いのほか反応が薄い。
視線をちらりと本に移したノアは、溜息を一つ吐いた。
「分厚い本だね」
「そうね、専門書だもの」
分厚ければ分厚いほど、読みがいがあると喜んでいたのはほんの数日前のことなのに。
不思議に思って、当たり前のことしか答えることができなかった。
「そんな分厚い本借りても、読み切れないよ」
「あら、どれだけ時間がかかっても平気よ。お兄様は読み終わっているそうだから」
そう言うとすぐに、鋭い視線を向けられた。
可愛らしい見た目のしかも年下の男の子に睨まれただけなのに、思わずびくりと肩を震わせてしまった。
だって、子供とはいえ美形の睨みは迫力があるんだもの。
わたしが固まっていると、その鋭い表情のままノアが口を開いた。
「ああ、あのウィルって人の本ね。だったら余計にいらないよ」
辛辣。
ノアの機嫌の悪さは、兄が関わっているのだろうか。
「どうしてそんな事を言うの?」
わたしは困ってしまって呟くと、ノアは唇を尖らせた。
「あいつ、僕を追い出そうとしてるじゃないか」
「追い出そうとって・・・」
そう聞いて、ああと合点がいった。
兄から両親のこと、今後の自分のことなどすでに聞いているのだろう。
わたしも昨夜聞いたばかりだというのにもうノアに伝えているなんて、仕事が早いことだ。
「あんたも、僕がここにいるのは嫌?反対なの?」
「そんなことは無いわ」
兄の仕事の早さに驚いていると、ノアに詰め寄られてしまった。
答えはわかりきっているので即答したものの、ノアは不満そうにどかりとベッドに体を沈めた。
「嘘だよ」
「嘘だなんて・・・」
わたしは立ち上がって、本を椅子に置いた。
そしてベッドに直接腰かけて、ベッドに伏せているノアの髪を撫でた。
「わたくしはね、本当はずっとこの家にノアがいてくれたらいいなって思っているわ」
そう言うと、ノアは勢いよくこちらを向いた。
「本当?」
その様子が可愛らしくて思わず笑みが零れる。
「ええ、本当よ」
生意気な弟ができたみたいで、ここ数日楽しかった。
頼られていることが嬉しかったし、日に日に元気になるノアを見るのはわたしにとっても心が明るくなる出来事だった。
年の近い人がいない狭い世界の中で、ノアの存在はわたしにとって気を使わなくて良い、一緒にいて楽しいと感じる存在になっていた。
「それなら、あんたからもあいつに言ってやってよ。僕がここにいられるように」
「それはできないわ」
「そんな・・・」
わたしの即答に、ノアは言葉を無くしたようだ。
そしてすぐに撫でていたわたしの手を振り払い、再びベッドに伏せってしまった。
「ノア?」
「うるさい!結局あんたも僕が邪魔なんだ。いらないんだ」
「そんなことは無いわ。邪魔じゃないし、いらなくなんてないわ」
「僕、魔法使えるんだよ。それなのに、いらないの?どうして?どうして?」
わたしの否定が聞こえていないらしく、ノアは繰り返し繰り返しどうしてと呟いた。
必要とされたことが無かったからこその発言だ。
両親からのネグレクトが大きなトラウマになっているのは間違いない。
さらに、魔法持ちであることを知った途端に両親が自分を探したこと、母が虐待という形であっても自分に関心を持って接したことが強く彼に根付いているのだろう。
このところ魔法の本を読み漁っていたのは、彼なりに人に必要とされるために学ぼうとしていたのかもしれない。
魔法持ちであるという長所を伸ばしていくために。
そう考えると胸が痛くなる。
わたしはもう一度ノアの髪を撫でた。
優しく、優しく。
暫くそうしているうちにノアは黙った。
静かな部屋に、鼻をすするぐすぐすという音が響いた。
撫で続けながら、わたしは出来るだけ優しくノアの心に届くように話しかけた。
「ノア。わたくしはあなたがとても大好きよ。わたくしのお父様もお母様も、ここにいるジェーンも医師も、エミリも・・・そしてお兄様も」
「嘘だ」
「あなたのことがとても大切なの」
「嘘だ」
「幸せになってほしいのよ」
「・・・嘘だ」
「ねえ、ノア。あなたはとても頭の良い子だわ。このままここで生活できないこと、本当はわかっているのでしょう?」
ノアの声はどんどん小さくなり、ついには無言になった。
「ノアを引き取りたいってお家は、お子様がいらっしゃらないんですって。お父様の昔からのお知り合いの方で、とてもお優しいご夫婦だそうよ。きっとあなたのことを大切にしてくれるわ」
ぐすぐすと鼻をすするノア。
わたしは髪を撫で続けた。
「それに別にずっと離れるわけではないのよ。わたくしから会いにも行くし、ノアもいつでも会いに来てくれていいのよ」
「・・・いつでも?」
言いながら顔をこちらに向けたノアの瞳は泣いていたためにほんのり赤くなっている。
しかしその表情は先ほどよりも穏やかなものに変わっている。
「ええ、いつでも」
わたしは釣り目を必死に下げて優しく見える笑顔を向けた。
ノアはわたしの顔をしばらく見た後で、瞳を閉じた。
そしてもう一度瞳を開いた時にはいつものノアの生意気そうな表情に戻っていた。
「やっぱりさっきの本、借りようかな」
「ええ」
わたしは頷いてから、本を取り、椅子に掛けなおしてからノアに手渡した。
「大した本じゃなかったら、あいつに文句言ってやるよ」
ノアにしては珍しく笑っているように口角を上げて呟いた。
しかしその発言の生意気さに反し、わたしにはその表情は悲しそうに映った。




