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「ノアの様子を自分の目で確認するため会いに行く」ということを諦めたわたしは、その日のうちに父に理由とともにその旨を伝えた。
心配しているとはいえ、興味本位のように気軽に会いに行くことが憚られるというわたしの思いに、父はすぐに了承した。
もとより、父はそれほどノアとわたしを会わせたいと思っていなかった節がある。
そしてこの話は暫くわたしの口から出すことはないだろうと考えていた。
しかしその考えは、ほんの数日後に覆ることになった。
今度は父の方からノアに会うことを提案されたのだ。
そしてその理由は喜ばしいものでなかった。
彼の容体が良くなったからということではなく、一向に改善していないことを受けてのことであるらしい。
わたしがノアに会いたがっているという話を耳にした医師から、年齢の近い者と関わることで少しは変化があるのではないかと提案があったというのだ。
確かに父や母に対して怯えることもあるという話なので、クラーク夫人の年齢に近い大人が怖いのかもしれない。
医師の提案に、父も渋々といった様子でわたしにノアとの面会を勧めたということのようだ。
その様子を見るに、おそらく父はまだ会わない方がいいと思っていることが透けて見えたのだが、わたしが会うことでノアの容体が少しでも良くなる可能性があるのならと喜んで会いに行くことにした。
午後の学習時間が終わり、休憩の時間に入ったところで、部屋にジェーンがやって来た。
控えめなノックと覗かせた暗い表情に、ジェーンもこの面会に乗り気でないことは間違いなさそうだ。
そんなジェーンにできるだけ安心させるようにと笑顔を向ける。
効果は無かったようで、わたしたちは言葉少なに一緒にノアの部屋へ向かった。
そこは客室の一つとして設えた部屋の一つだった。
意外なことにわたしの部屋とは同じ階にノアはいたのだ。
とはいえ、決して小さくは無い屋敷である。
同じ階であってもわたしの部屋とはほとんどフロアの端と端と言えるほどに離れているため、これまでノアの部屋で起きていた混乱がわたしの耳に届いていなかったことにも頷ける。
そんなことを冷静に考える一方で、変な緊張感がわたしを包んでいた。
それはノアの容体が決して良い状態ではないと聞いていたせいだろう。
「今日は私とエミリさん、そして医師が同席します。ご安心ください」
わたしの緊張を察してジェーンが声をかけてくれるので、ぎこちないながらも笑顔を返しておく。
ノアの部屋の前で、一つ大きく深呼吸。
ジェーンが視線を向けてきたので頷いて了承の意を示した。
静かに扉をノックすると、暫くして、部屋の中で控えていたエミリが顔を覗かせた。
「エレノア様、どうぞ」
静かに告げられ、部屋の中へと促された。
入るとすぐに部屋の奥に待機していた医師が目でわたしに挨拶を送ってきた。
ノアを刺激しないためであると認め、静かに行われたそれにわたしも応じる。
それにしても。
わたしの記憶では、この部屋は白の革張りのソファと金縁の楕円形のガラステーブルが置かれ、ベージュを基調とした毛足の長い絨毯やカーテンに包まれたものであったはずだ。
それら皮や布地には金の刺繍がそこここに施されているのだが、それは下品でない絶妙な豪華さがあり、女性が好むような白を基調とした可愛らしい調度品と相まって、何を隠そうわたしのお気に入りの部屋の一つでもあった。
しかし、今はそれが見る影もない。
絨毯とカーテン、ベッドはそのままのはずであるのに、そのほかに元あった調度品たちはどこかに移動させたらしい。
代わりにというわけではないだろうが、今は部屋の雰囲気とは合わないイスとテーブルがワンセット、部屋の奥に置かれている。
おそらく世話をするメイドや医師が使うためのものをどこかから持って来たのだろう。
そのため非常にちぐはぐ且つ物悲しい部屋となっている。
そしてその物悲しさは、部屋全体を包む空気もそう感じさせる要因であると思う。
そんなふうに部屋をさっと見回して、最後に視線を止めたのはベッドだった。
ベッドには上半身を起こした状態で窓の外をぼんやりと見ている少年がいた。
以前会った時よりも更に髪が伸びているが、栗色の髪色やくるくるした毛質はノアに間違いない。
ただ、ほんの数か月しか経っていないはずなのに恐ろしい程に痩せ細っている。
「・・・ノア?」
思わず問いかけると、ジェーンは小声でわたしを制した。
「エレノア様、突然声をかけられては・・・」
わたしはその言葉にしまったと思ってジェーンに視線を移した。
するとそのジェーンの瞳がみるみる大きく開かれていく。
その視線を辿っていくと、その先にはノアがいた。
先程まで窓の外を向いていたノアが、今はこちらを向いている。
「誰かに視線を向けられることなんて殆ど無かったのに」
エミリが驚いた様子で小さく呟いたのが聞こえた。
わたしはもう一度ノア、と声をかけた。
ノアはなおもこちらに視線をむけている。
「お久しぶりね。前に教会の孤児院でお会いしたエレノアです。覚えていらっしゃる?」
不用意に近づくべきでは無いと思いその場で問いかけると、ノアは虚ろな眼差しのままではあるが確かに小さく頷いた。
その様子にジェーンが驚いて小さく声を上げた。
「近くにいってもいいかしら?」
もう一度問いかけると、また小さく頷くのが見えた。
それを受けて、医師の指示によりジェーンがベッドの近くに椅子を移動させてくれたので、わたしはそこに座った。
ジェーンがわたしのやや後ろに立ち、エミリは医師と共に更に後ろで控えている。
何かあってもすぐに対応できるような布陣であるのだろう。
わたしはそのことを頭の片隅に追いやって、目の前のノアに集中することにした。
年齢が近い者との交流と医師は言っていたようだが、正直に言って共通の話題はない。
ノアの心が現在どのような状態であるかもわからないのに、滅多な話は出来ないし。
こういう時、前世の記憶を辿ってみる。
そうして考えてやっと閃いたのは、天気の話だった。
「ノア、今日はいい天気ね」
言うと、ノアは再びゆっくりと視線を窓の外へと動かした。
しかしやはり返事は無い。
「冬でも毎日こんなに天気が良ければいいのだけれど、そうもいかないわよね。だからこそ、わたくしは春が待ち遠しいの。わたくしの好きな季節なのよ。我が家のお庭にはたくさんのお花が咲くのだけれど、その色とりどりのお花を見ていると、とても明るい気持ちになれるの」
相槌も反応も無いので、独り言のように話し続ける。
「ノアはどの季節が好き?」
返事が無いだろうことを予想しながら、それでも少しの期待を込めて質問してみる。
すると再びノアが視線をこちらに向けて来た。
そして--------
「・・・・・」
声が出ていない。
しかし、ノアは唇を動かして確かになにかを言おうとしているようなのだ。
「ゆっくりでいいわ。喉を潤す?」
わたしの言葉に、後ろの方でエミリが水を準備しているのを感じた。
しかし、ノアは小さく首を振る。
「・・・僕は」
か細い声を絞り出すように、ノアが必死に声を出す。
側にいるわたしにしか聞こえないくらいの声。
わたしは水差しを持ってきたエミリを制した。
「なあに?」
聞こえていることを示す。
すると、ノアは続けて口を開ける。
「好きなものなんて、ない」
やっとのことで発したのがこんな悲しい言葉だなんてあんまりだ。
わたしは愕然とした。
ノアは一度声を出すとコツを覚えたのか、ゆっくりと話し始めた。
「僕は、好きとか嫌いとか考えてはいけない。ずっと良い子でいなければいけないんだ。声を出してもいけないし、勝手に動き回ってもいけない。そうでなければいけないんだ」
それはクラーク夫人に強いられていたことなのだろうか。
わたしはノアの辛い出来事を垣間見たような気持ちになり、言葉を無くした。
「あんたは違うの?」
ノアの問いに、わたしは全力で首を振った。
「違うわ!わたくしは好きなものがたくさんあるもの。たくさんお話しもするし、たくさん動き回っているわ。もちろん、良い子にはしていないといけないけれどね」
そう答えるとノアは興味が無さそうに「そう」とだけ呟いた。
「ノア、あなたもこの家では同じよ。好きなもの、嫌いなものがあって良いの。たくさんお話ししましょう」
「・・・殴られたりはしないの?」
「当り前よ!」
本来、そんなことを理由に痛めつけられるなんてあってはならないことだ。
「これからはわたくしとたくさんお話したり、遊んだりしましょう!」
「僕とあんたが遊ぶの?」
「そうよ。でも今はしっかりと食事をして、体力をつけてからでないとね」
言うと、ノアは自分の細くなった腕や体を見た。
「・・・体力、つける」
ぼそりとつぶやいた言葉に、自然と笑顔になる。
「わたくし、毎日会いに来るわ。お話はできるものね。それで、あなたの好きなものや嫌いなものを一緒に考えていきましょう」
微笑むと、ノアは確かに頷いた。




