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翌朝、身支度の為にやって来たジェーンの表情は最初から曇っていた。
ジェーンはいつも落ち着いていてどちらかというとそれ程表情豊かな方では無い。
そもそも公私混同するタイプでも無いのだが、だからこそこれまでに朝からこれほどまでに表情が暗かったことは無かったように思う。
あったとすれば、わたしとの会話で何度か不快な思いをさせた時ぐらいだろうか。
でも昨日はジェーンにこんな表情をさせるようなことは無かったと思う。
そう考えて、ふと、これまでに無意識に会話をして失敗したことを思い出す。
一度それを思い出してしまうともう不用意には突っ込んでいけなくなったわたしは、結局その表情には触れられなかった。
「おはようジェーン」
「おはようございます」
挨拶の後は洋服を用意してもらったり髪を梳いてもらったり。
それらの動作はいつも通りなのに、ジェーンはずっと無言で表情は暗いままだ。
会話がないよりは良いかと思い、髪を梳くジェーンに今日のことについて声をかけた。
「ジェーン、お父様から聞いてくれていると思うけど、今日は一緒にノアのところに行ってもらいたいの。忙しいのに悪いのだけれどよろしくね」
そう笑顔で言うと、鏡に映ったジェーンの顔色が目に見えて変わった。
「ジェーン?」
「・・・やはりお会いになるんですか?」
「え、ええ。お父様からお許しいただいたし。・・・いけないかしら?」
そう尋ねると、櫛を持ったまま止まっていた手を完全に下ろした。
どうやら暗い表情の理由はこのことだったらしい。
「昨日お父様がノアを訪ねるならジェーンと一緒の方がマシだろうとおっしゃったのと、あなたのその表情・・・理由は同じかしら」
わたしの言葉にジェーンは視線を泳がせた後に小さく頷いた。
「どういうことか教えてくれる?」
重ねて尋ねるとジェーンはもう一度頷いて、今度は櫛を静かに置いた。
わたしはしっかりと聞こうと思い、改めて椅子に座りなおし、鏡越しにジェーンの瞳をまっすぐに見つめた。
そうすると、ジェーンは心を決めたように大きく息を吐いてから、静かに口を開いた。
「ノア様は確かにお身体は回復していらっしゃいます。でも、お心の方はまだ・・・」
「心・・・」
ジェーンは悔しそうに唇を噛んだ。
「私やメアリさんがお世話をしている間、ノア様は一言もお話にならないんです。初めて目が覚めた時こそ暴れられましたが、今は毎日只々何もせずぼんやりとしておられます。そうかと思うと、旦那様や奥様がお訪ねになったらひどくイライラして落ち着きがなくなったり、怯えたりされます。医師によると、それらすべてが虐待の後遺症ではないかと・・・」
「そう。やっぱりノアは酷い虐待を受けていたのね」
呟くとジェーンは深くうなずいた。
眉を強く寄せ、その表情は深い悲しみに包まれている。
わたしはノアのことを任せきりにしていたことを改めて悔やんだ。
暫く続いた沈黙を破って、ジェーンはノアを連れ帰った日から今日までのことをゆっくりと教えてくれた。
「あの日、ノア様は本当に酷い容体でした。呼吸もやっとというご様子で、水分も栄養も全く足りていないご様子でした。意識がはっきりしていらっしゃらないノア様の口を無理矢理開いて少しずつ少しずつ水と薬を流し込みました。お身体をお拭きしようとしたところ、服で隠れる場所にはたくさんの傷がありました。食事や水を与えないだけでなく、酷い折檻も行なっていたということでしょう。これだけのことをされていれば、後遺症があるのも当然だと思います」
あの日のノアがそんな状態だったとは。
わたしは両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「それから、エミリさんと私は毎日交代でノア様に付き添いました。ノア様はなかなか目を覚まされず、私たちはとても心配で片時も目が離せませんでした。2日たってからようやくノア様が目を覚まされたとき、側にいたのは私でした。体を起こすことも出来ず首と瞳を動かされて、ここが何処なのか必至に確認しておられるようでした。私はご安心いただけるようにと直ぐに状況をご説明しようとしたのですが・・・私が視界に入った途端に非常に取り乱されて。声にならない悲鳴というものを、初めて聞きました」
「目が覚めたら知らない場所で、さぞ驚いたのでしょうね」
「ええ、そうだと思います。兎に角それはもう脅えていらっしゃって。足を酷く怪我しておられて満足に動けるはずがないのに、逃げようとされたんです。私は直ぐに旦那様と奥様、そして医師に連絡するよう伝えました。なんとか落ち着かせなければ、そう思って近づこうとすると余計に暴れるという状況で。私はただ目を離さないということ以外にどうしていいのかわかりませんでした」
壮絶だ。
わたしがのほほんと日常を送っていた一方で、同じ家の中でそんなことが起きていたとは。
「一番に駆け付けたのは医師でした。お薬でノア様を落ち着かせて、一先ずその場は収まりました。次に奥様がいらっしゃって・・・。日中でしたので旦那様はお仕事で出ておられていてご不在でしたので。奥様はノア様のご様子に大変お心を痛めてられて、涙を流しておいででした」
「そう、お母様が・・・」
「はい。奥様は余程心配しておられたようで、その日から1日も欠かさずノア様のところにいらっしゃっています」
母がノアも守ると発言した裏には、この事があったのかもしれない。
「ノア様が目を覚まされてから、それまで以上に私たちはノア様から目を離す事が出来なくなりました。最初のうちは目を覚ます度に脅えて暴れられたからです。でもそれを何度も繰り返すうち、次第に落ち着いていらして。今はやっとご自身で食事をされるところまで回復されました」
「そうだったの」
「落ち着いていらっしゃったのは、私たちを見慣れて危害を加えないとわかったからかもしれません。でもそれは、本当の意味での回復でないのは明らかです」
「そんな時にわたくしなんかがノアに会いに行ったらどうなるかわからないわね」
「はい、私も正直に申し上げればそのように思っております」
「だからジェーンと一緒に、という条件が付いていたのね」
「恐らくは」
ノアの容体が回復したと聞いて喜ばしい事だと思っていたけど、そんなに大変だったとは思っていなかった。
簡単に会いに行きたいなどと言ってしまったが、かえってノアにもジェーンにも負担になってしまいそうだ。
「お父様は許してくださったけれど、本当にわたくしが会いに行っても大丈夫かしら」
「これまで、ノア様は暴れはしても他の人に危害を加えたりはされていません。その点はご心配いただかなくても問題ございません」
「わたくしのことではないのよ。ノアにとって少なからず負担になるでしょう?」
「それは・・・」
無言は肯定の意味だろう。
わたしは暫く考えた。
ノアに会いに行くのが良いのかどうか。
面識があるとはいえたった一度。
せっかく落ち着いてきたのに、見慣れぬ顔がやって来たらどうなるだろうか。
そして結論は——————
「今日はノアに会いに行くのはやめておくわ。もっとよく考えてノアの様子に合わせたタイミングを計らないといけないわね」
「そんな・・・旦那様のお許しがあるのですから、私の話でそのようなことを決められては・・・」
ジェーンは大きく首を振った。
主人である父の判断に反することを自分が発したのだと考えたのか、怯えが見てとれる。
わたしはそのことが違うのだと伝えるため、急いで振り返ってジェーンの力なく震える手を握った。
「あなたのせいだという話ではないのよ。これは間違いなくわたくしの判断。ノアに負担をかけることは本意ではないもの」
「エレノア様・・・」
「ただ、一つお願いを聞いてもらえるかしら。会いに行かない代わりに、今日もノアに手紙を渡してほしいの」
手紙にはわたしが会いたいと考えている旨を書こうと思う。
これまでの手紙を含め読んでくれるのかはわからない。
それでも気持ちだけは伝えておきたいのだ。
「承りました」
ジェーンは静かに頷いた。




