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クラーク邸を訪れた翌日の夕食で、父からクラーク男爵家から我が家に対し何もコンタクトが無かったことを聞いた。
わたしに対するお詫びは勿論のこと、ノアに関する問い合わせも無かったと言う。
「なぜクラーク家は何も言ってこないのでしょう」
疑問を口にすると、母は溜息を吐いた。
「あちらも貴方にあんな事をしたのだから後ろめたいんじゃないかしら」
確かにそういう考えもあるが・・・。
「そうなのでしょうか」
わたしの疑問に対して父も母もそれ以上は何も言わず、結局納得できないままその日この会話は終了した。
あのときのわたしの態度からフローレス家の方から今回のことを大事にすることはないと考え、敢えてお詫びをしなかったするならば、あちらに動きがないことがまだ納得出来ないことも無い。
ただ、ノアのことは別だ。
翌日であればさすがにノアがいないことには気がついているはず。
わたしがクラーク邸を訪れたその日にノアがいなくなったのだから、必ず何かしら連絡がくると踏んでいたのに。なんだか肩透かしを食らった気分だ。
それどころか、クラーク夫妻はノアがいなくなったこと自体を公にはしていないようだと言うのだから、驚いてしまった。
どんな出方をしてくるかわからないが、このままということはないだろう。
あの異常な夫婦がノアを易々と手放すとは思えなかった。
しかしこの不安が拭えないまま、数日が過ぎた。
「悪いことが起きる前兆で無ければいいのだけれど・・・」
あの日の出来事が嘘のように通常通り過ごしていることに不気味さを感じて呟くと、髪を梳いてくれていたジェーンの手が止まった。
「エレノア様、そのようにお言葉にされるとなんだか本当になってしまいそうです。お控えいただく方が宜しいかと」
「そうね・・・でも・・・」
肩を落として溜息を吐くと、ジェーンはコトリと櫛を置いた。
「確かに、あの日のエレノア様に対する男爵夫人の行いはどう考えても異常でしたし、ノア様の容態も極限と言える状態でした。恐れながら、男爵夫人は常識では考えられないようなことをしてもおかしくはないと私も感じております」
「そうなのよね・・・」
わたしは思わず、すっかり跡の消えた手首を擦った。
レオとジェーンがいたからこそ今こうしていられるけれど、もし二人がいなかったら?
そう考ると改めて恐怖が湧き上がってくる。
その恐怖は縛られた跡が消えようとも心の奥に巣くっていて未だ消えようがない。
思い出したくもない記憶を振り払うように瞳を強く閉じた。
気持ちを切り替えよう。
「ところで、ノアの容態はどうかしら」
「随分顔色が良くなっていらして、順調に回復していらっしゃいます。今日は起き上がってご自身で食事をとられました」
「良かったわ」
不安な中での良い知らせだ。
思わず口元が綻ぶ。
「手紙は読んでくれているかしら?」
実は、容体が良くないことを理由に未だノアに会えていない。
そのため毎日「早く元気になってね」とか「容体はどう?」といった一言手紙を用意し、ジェーンから渡してくれるようお願いしていたのだ。
わたしが尋ねると、ジェーンは複雑な表情をした。
「そろそろ会いに行けそう?」
「私が判断できることではありませんので・・・」
「そうよね、ごめんなさい。お父様に相談してみるわ」
「それが宜しいかと」
ジェーンによって身支度が整えられ、朝食のために食堂へ向かう。
食堂に入ると、いつものように食後のお茶を優雅に飲む母がいた。
「お母様、おはようございます」
「おはようエレノアちゃん」
花が綻ぶような笑顔を向けられ、娘であるにも関わらずあまりの眩しさに目を細めた。
「今日も早いですね」
席にかけながら言うと、母はふふと笑みを零した。
「今日もジャックが朝早く出たのよ。お陰で少しだけ眠たいわ」
その笑顔からは言葉通りに眠たい様子は感じられない。
母は必ず父と同じ時間に朝食をとるので、わたしよりも早く朝食を終えることが多い。
本当に仲睦まじい夫婦だと思う。
「お帰りは遅いのでしょうか?そろそろノアに会わせていただけないかお父様に尋ねようと思っていたのですが・・・」
「ノア、ねえ。確かに回復してきてはいるのだけれど・・・。夕食には帰ってくると思うから、その時にお聞きなさい」
「はい」
母から見てもノアは回復に向かっているらしい。
わたしは安心して頷き、タイミングよく用意された朝食に手を伸ばした。
朝食をおなかに収めつつ母にこっそり視線を動かすと、全く席を立つ様子がない。もう暫くここにいるようだ。
それならばと気になっていることを一先ずは母に確認しておくことにした。
「ところでお母様。相変わらずクラーク男爵家からは何も連絡は無いのでしょうか」
「どうかしらね」
笑顔で躱された。
しかしこの回答は何かしら反応があったということだろう。もしそうなら簡単には引き下がれない。
負けじと視線を送ると、母は有無を言わさぬ笑顔を向けてくる。
「勘違いしないでほしいのは、決して意地悪で何も言わないわけではないのよ」
「それは・・・わかっています」
家族皆がわたしのことを心から心配してくれているのはわかっている。
しかし、ノアやクレアを心配していた時とは違い、あの一件ですっかりわたし自身も当事者となったのだ。
そうなるとクラーク男爵や夫人の動向がどうしても気になる。
家族はそういった情報を与えないことで不安を感じさせないように配慮してくれているのだと思うのだが、逆に気になって気になって仕方がないのだ。
心に暗い影が落ちる。
通常では考えられないことをしたあの夫人だ。
そんな夫人にノアを任せきりにしている男爵も恐らく同様だと考えられる。
そんな二人が本当に何も行動を起こさないのだろうか。
新興の男爵家であるあちらと、代々続く侯爵家である我が家では確かに格が違うのだが、そういったことを気にする玉とは考えられない。
動向を知ることでわたしにも何か対策を打つことができるのではないかとどうしても考えてしまう。
不満そうに頷いたわたしを見て、母は一つ溜息を吐いた。
「前にも言ったけれど、ノアの状態はあの日連れ出さなければ取り返しがつかないというところまでいっていたわ。ぎりぎりのところで貴方はノアを救い出した。私たちはそのこと自体を否定していないし、むしろ行動力については誇らしいとすら思っているわ。ただね、私たちは貴方をこれ以上危険に晒したくはないの」
わかってちょうだい、と暗に言われては頷かざるを得ない。
「大丈夫。少なくとも貴方がこの家から出ずに大人しくしているうちは、私たちが守ってあげられる。貴方にはもう指一本触れさせないわ」
黙っていると母が安心させるように微笑んでくれた。
「そしてそれはノアも同じ。ふたりとも私たちが必ず守るわ」
「お母様・・・」
わたしが軽はずみにノアを連れだしたことで我が家に迷惑をかけている。これは事実だ。
それでも母はわたしを誇らしいと言ってくれる。
守ると言ってくれている。
さらにノアまでも守る、と。
父も兄も同じ気持ちであると言うのは、母の発言からも感じられた。
そんな中でわたしは自分のことしか考えていないということに気づいて、急に恥ずかしくなった。
気まずさに母と目を合わすことができず、少し視線を落とした。
「エレノアちゃん、貴方にはこれ以上この件に関わってほしくはないの」
考え込んでいると母からやや厳しい声がかかった。
見上げると、視線もやや厳しい気がする。
「あちらは貴方に並々ならぬ興味があるわ。それこそあんな考えられない行動を起こすぐらいには、ね」
そのことを身を持って感じたわたしはぐうの音も出ない。
黙るわたしに、母は続ける。
「次もすぐに助け出せるという保証は無いわ。貴方は私たちを過保護と思うかもしれないけれど、ちゃんと理由があるの。その事をしっかりと肝に銘じて欲しいわ」
「・・・はい、お母様」
母の言葉は、家族の総意なのだろうとわかっている。
わたしは重く受け止めて、深く頷いた。
すると、母はいつもの笑顔に戻った。
「そうは言っても、貴方もクラーク家の動向が気になって仕方が無いわよね」
母のその言葉に、わたしは思わず期待で目を開いた。
視線と表情からその気持ちを察したらしく、母は仕方がないと言うように笑った。
「私からジャックに言ってみるわ。わかったことがあればエレノアちゃんにも言うようにって」
「いいのですか?」
母の提案に驚いた。
「その代わり・・・」
母の視線と言葉の真意はわかる。
「もう無茶は致しません!」
「約束よ」
「はい!」
わたしは元気よく答えた。




